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2014/11/23 ネトウヨが『NOヘイト!出版の製造者責任を考える』を論評する
2014/9/17 哀しき三重奏〜ウルトラセブン12話から日本が見える〜
2014/8/8 『いま、在日を生きる』と『奥様は愛国』
2014/1/4 日本映画と戦争〜現実とファンタジーの狭間で〜


11/23
ネトウヨが『NOヘイト!出版の製造者責任を考える』を論評する

 新語・流行語大賞というのは、受賞すると1年でだいたい消滅する。ところが、昨年のトップテンに「ヘイトスピーチ」が選ばれてぼちぼち1年が経過しようとしているが、消えるどころか目にする機会は増えているように感じる。新大久保や鶴橋で在特会(在日特権を許さない市民の会)が大暴れしたのが2〜3年前。その後はカウンターが出てくるやら、批判本が出るやら、いろいろカオスな状況になってきている。

 一方で、議論が深まらないというか、噛み合ってないところがあって、見ていて「なんだかなあ」と思うことがある。意識的に相手の話を聞かないのか、それとも本当に理解する頭がないのかよくわからないのだが、ネトウヨながら「何でこの人たちはこんなに頭が悪いのだろう」(←上から目線)としらけてしまうような場面が多々ある。

 そういうわけで、ちょうど、ころから、という出版社から出た「NOヘイト!出版の製造者責任を考える」という新書を読んでいて「そうだなあ」という部分と、「んー、ちょっと違うんだけどなー」という部分があったので、そこら辺を論評したいと思う。この本は、大絶賛をする人か、けなす人のどちらかしかいない本で、Amazonのレビュー見ると星が5つか1つしかない。Amazonレビューなんて読んでないのに書く人が多いとは言え、あまりにあんまりだ。そこで冷静に論評させていただきたい。

 本書は前提として、「出版社が排外主義やレイシズムを煽っている」「ヘイトスピーチの拡散に協力している」という結論がある。この前提は正しいのかというと、正しいと私は思っている。嫌韓本の全て、一切合切中身はでたらめであるというのも極端だが、「関東大震災のあと、朝鮮人虐殺はなかった」みたいな話が出てくるのは「ええ?」と思う。「実はジオンは勝ってた」「ザクIIはガンダムより強い」って本が出れば「ジオニストの妄想乙wwwww」という反応が返ってくるのに、「朝鮮人虐殺はなかった」という本は「これぞ真実の歴史」みたいな反応があるわけで、いくらなんでもおかしな話である。

 この状況を作り出しているのには、たいていの場合、排外主義の高まりだ、右傾化だという結論が出てくるのだが、私はそれよりも出版不況という状況があると思っている。だいたい、出版社が多すぎるのだ。本が売れないのに出版社が多い。少しでも売れる本、雑誌を出さなければいけない。出すにもコストがかかる。ある程度売れる見込みのあるコンテンツを使いたい。週刊プレイボーイ誌が富野由悠季総監督に「ガンダム特集を組むと巨乳グラビアより売れるんです」と述べていたが、あれも同じような話で、ある程度固定の購買層があって、その層に対して確実に売れるコンテンツというのは、大きな存在なのである。つまり、排外主義的な本を買う固定層が今のこの国に存在することは事実である。(これは全く逆の話もしかりで、アンチ・レイシズム本もある程度売れる可能性がある。つまりこの手のテーマはそこそこのコンテンツになっているのである。それは、最近更新するときこのネタばっかり使っている私とて例外ではない)

 「NOヘイト!」のおもしろいところは、書店員にどんな人が買っていくか、傾向を聞いていることだ。アンケートは別に統計的な処理をしたわけではないし、とりあえず顔見知りに聞いてみました、程度の話だが、「中年が買っていく」という話は「ほお」と思って興味深かった。

 若年層はあまり買わないというのは、書店員が「ネットの情報で満足している」という分析をしていたが、これは正しい。山野車輪氏の「マンガ嫌韓流」が出たとき、ネット上では「どうせ中身に目新しさはないが、これは買わないといかん」みたいな空気があって、それが結果的にベストセラーに押し上げたわけだが、その後次々出てくると、いちいち全部買う財力はないわけで、当然「もう知ってることを買う必要はない」という空気になるのは当然である。だいたい若い人って本を読まない人が多いし、私自身仕事が忙しくなってきてゆっくり本が読めない状況だから、「読みたくても読めない」若い世代というのはかなり多いと思っている。

 したがって、出版社が過激な本、本書で言う「ヘイト本」を量産しているのは事実であるが、排外主義的な人間が倍増しているのかというと、それはちょっと違うと思っている。だったら書店のホビーコーナーだけ見れば、日本全国津々浦々ガンダムオタクと仮面ライダーオタクばかりという話になってしまうわけで、「こんなに排外主義者が増えて薄ら寒く感じます」「軍靴の音が聞こえてきます」というのは、はっきり言って考えすぎである。

 ただ、この手の出版に全く問題がないかというと、それは違う。問題があるのである。本というのはメディアである。インターネットメディアの場合、論文やレポートの際の参考資料に使いづらいが、本は一応「文献」という地位を得ている。デマや妄想だけを書いた物を本として出版すると言うことは、非常に危険な行為である。この世の中には、有名人の守護霊様にインタビューしただけの本が書店で売られているが(次は間違いなく高倉健さんの守護霊が出てくる)、あの手の本は信者以外信じてないからともかく、「韓国は恐ろしい国家だ」みたいな本の題名だけでも見続けていると「そうかあ、危険な国なのかあ」みたいな無意識の刷り込みが行われる可能性がある。

 これも出版不況が絡んでいて、とにかくキャッチなタイトル付けて手にとってもらわないといけないのである。「韓国政府の問題ある主張」だと地味だけど「大嘘つき!韓国のデタラメ」だと「おや?」と思う。その昔、「太陽にほえろ!」というドラマで「もうすぐ殉職」と発表した直後、「島刑事よ、やすらかに」とか「ボン・絶体絶命」みたいなサブタイトルで放映して視聴率を稼いだのと似た話である。それがどこも同じようなタイトルで出てくるので、ますます過激なタイトルになってくる。それがこの現状なわけで、実際題名は過激なのに中身は「ええー!?」となるような本がきっとあるはずである。

 加藤直樹氏は『永久に黙らせる100問100答』について「ジェノサイドの欲望だ」と述べているが、そこは読んでいて「それは考えすぎだろう」と思った。いくら「九月、東京の路上で」が売れているからといって(私も買ったけど)何から何まで九月一日に絡めて考えるのはちょっと考え物である。

 とにかく、嘘やデマが「売れるから」という理由で、堂々と本になってまかり通るような世の中はどうかと思う。これがガンダム本で「緊急特報!MS−06R2は7号機まで存在した!」とか「リックディアスは元々ガンマ・ガンダムだからガンダムタイプのモビルスーツだった!」だったら「おまえテキトーな本書いてんじゃねえぞ!」とガンダムオタクから総スカンを食らうが、「中国経済崩壊0秒前!」みたいな本だと(そうなって欲しいという願望の人々が)「これぞ真実の書」みたいに持ち上げてしまうのである。書いてる当人が気づかずうっかりならまだ救いはあるが、中にはデマを承知で書いてる書き手がいる。鉄砲勇助なら笑い話だが、これは非常に始末が悪い。そのデマをろくに考証せず、あっさり出版させてしまう出版社にも、ある程度責任があるというのは正しい。

 一方で、加藤直樹氏が嫌韓をあっさり「レイシズム」と単純に切って捨てていたことには違和感を覚えた。「九月、東京の路上で」はかなり綿密に取材や考証をしていたのに、嫌韓思想の勃興についてはずいぶん不勉強だなあという印象を持った。これは在特会を始め行動する保守について論評する鈴木邦男氏や雨宮処凜氏、李信恵氏などもそうで、尺の都合かどうか分からないが「分かってないなあ」と思ったことがある。そりゃ、私だって自分の理解できない性癖(平成仮面ライダーこそ至高!昭和仮面ライダーはゴミ!みたいな考え)は理解できないし、おそらく平成仮面ライダーを論評したとして(見てないからやんないけどな)信者からは「昭和信者乙wwwwww」みたいな反応しか返ってこないだろう。嫌韓は単純なレイシズムと言い切れる程単純なプロセスを経ていないわけで、それこそその成立過程については1本丸ごと本になるくらいの話だ。確かに嫌韓思想はレイシズムにつながりうる思想だが、嫌韓そのものがレイシズムなのではない。そういう些細な発言から出る認識の甘さが、ネット右翼側から「分かってねえなあ」という反発を食らうのである。

 話がそれるが、カウンターについて、私は「所詮対症療法だから根本的解決になるわけがない」「でもやんないよりはいいかもね」みたいな感じで見ていた。「現代思想」の対談だったかな、誰かが「毒虫をつぶしたように毒が広がっていった」「街中のデモをつぶしたらもっとたちが悪くなった」みたいなニュアンスの発言をしていて「当たり前だろ!」と思わず突っ込んでしまった。そういうことを承知でカウンターを支持してたんじゃないのか、これが解決方法だと盲信してたのか、なんでこんなに認識が甘いのだろう、馬鹿じゃないのかと思ってしまった。カウンターについては、有田芳生氏も「すばらしい活動」みたいな発言をしていたそうだが、一か八かの危険な賭けをすばらしい活動だと言い切ってしまう神経がおかしい。

 だいたい、これは誰も指摘してないからはっきり指摘しておくけれど、在特会が出てきたのは有田氏にも責任がある。オウム事件以後、日本社会の急速な集団化と、メディアによるわかりやすい敵の醸成に、有田氏はザ・ワイドで関与してきたのである。「オウムはキケンだ」「オウムを排除しなければならない」みたいな空気をメディアの発信者として送り出してきた。日本社会はオウムへの恐怖感から集団の同質化を進め、異質なモノへの排除を是とする思想を形成してきた。それが嫌韓のバックボーンに存在している。そういう自身の過去に後ろめたさがあって行動してるならまだ救いはあるが、「これが社会正義だ」「差別は社会悪だ」みたいな物言いは「元々の源流はあなたが作ったのでしょう」という指摘を入れたくなる。ネット右翼に有田氏が支持されないのは、元々のきっかけを作っておきながらその指摘を受け入れず、自分勝手な正義感で行動していること(後ろめたさと申し訳なさで行動してたらもっと支持は広がったはずだ)、そして反権力を標榜していたジャーナリストなのに、政党を移籍してまで議員になった「こいつ実は功名心でしか行動してねえだろう」というぬぐいきれない不信感である。これはTwitterでぶつけてもいいんだけど、100%ブロックされると思うので、ここで述べるだけにしておく。

 あ、でも、ネット右翼を中心に出てる「どっちもどっち」も反対だかんね。在特会が街中にいなければカウンターも出てこないんだから。ゴジラが出てこなければGフォースが出動しないのと一緒。そりゃ、どちらも品はないけど、先に出てくるのは在特会なんだから、在特会の方が悪いよね。

 話を戻す。もう一つ、ヘイト本やヘイト記事が増えているのは、出版社の自己防衛が関係している。これは「NOヘイト!」では触れられていなかった。たぶん世界で最初に私が指摘していると思いたい。嫌韓やネット右翼思想は、単純なレイシズムだけでなく、メディアへの敵視がセットになっている。この前、橋下市長と在特会の桜井誠氏が会見(口論?)した際、桜井氏がメディアに吠えたことは記憶に新しい。メディア側はびくっとしただろうが(だいたい在特会をただのネット右翼だと思ってるから驚くのだ)在特会に限らず、ネット右翼は基本的に既存メディア、大手メディアを敵視していると言っていい。かくいう私自身、大手メディア、特に新聞やテレビについて、以前に比べて手抜きの記事や報道が目立つことに憤りを感じている。この前、スポーツ新聞が「笑点で三遊亭好楽が座布団10枚獲得」というニュースを報道したが、はたしてこれがどれほどのニュースバリューを持つのか、今更語るまでもない。だいたい、笑点に興味がある人は見ているし、あんなもん取材にも出向かず鼻くそをほじりながらテレビ見て書いた記事に違いないのである。芸能人がブログですっぴんを披露、芸能人ブログで人気マンガの完結を嘆く、芸能人オフに映画を見に行くとブログで表明、そんな記事が今、どれほどあふれているのか。これはスポーツ新聞に限らず、新聞やテレビの社会部や政治部でもそうだ。ろくすっぽ裏取りせず書いてるようだということが分かる。従軍慰安婦の記事だって、もっと丁寧に取材していればああいうアホな事態にはならなかったはずなのだ。

 「歴史のねつ造や改ざんはよくない」という大手メディア自身、歴史のねつ造や改ざんに手を貸してきた。渡哲也さんが「龍が如く」で声優を務めた際、「渡哲也が声優初挑戦」と、「アニメ三国志」を切り捨てたお間抜けメディアのことを忘れてはいない。あるいは、「祇園囃子」制作の際、「倉本聰が、大都会以来石原プロとタッグを組んだ」と、「ゴリラ 警視庁捜査第8班」をなかったことにしたメディアの存在を忘れてはいない。これらは半分冗談だが、最近ではNHKが転売ヤーをセドラーと改ざんして報道したし、以前は「アベする」なんて言葉がさも流行しているかのような脳内妄想を垂れ流した新聞社もある。実はメディアはかなりいい加減で、無責任で、世論を操作しながら、当人たちはのうのうと高い給料をもらって安寧に暮らしている。実際の所、在特会は在日コリアンを標的にしているが、本来嫌韓思想のターゲットだったのは、韓国人や在日コリアンではなく、「韓国」という国家そのものと、その韓国や北朝鮮におもねる(ように見える)「日本を売り渡すメディア」たちだったはずなのだ。そのメディアへの攻撃が極端になって出たのが、フジテレビデモだったのである。北原みのり氏は「韓流スターへの嫉妬」などとずれた発言をしてネット上で笑いものになったが、それもそのはずで、嫌韓とメディア攻撃がセットになっているという意識が全くないから、ああいう結論に至るのである。

 メディアというのは、取材や発信について、かなりいい加減であるが、世の中の空気を読むことは超一流である。それまで世の中の空気を作ってきたメディアにとって、インターネットという新興メディアの隆盛と、それに伴う自らへの攻撃には苦心しているに違いないのである。なぜなら、これまではテキトーな報道をしても「おかしくないか?」と個人が思うだけで終わりだったが、今は違うのだ。Twitterで「捏造報道ktkr」「犬HKキマシタワー」みたいな反応がダイレクトで行われる。あるいは、「この報道はおかしいよ」という指摘がリアルタイムで行われる。前述した「アベする」なんかは、20年前なら今頃流行語大賞を受賞していただろうが、あのときはすぐに「朝日の妄想コラムwwww」という反応で、むしろ「アサヒる」の方がネット上で流行した。

 あのあたりからメディアは徐々に「ネットの空気を読まないと、攻撃の矛先が向く」という事実に気がつき始めた。そんなことは2002年、フジテレビの報道姿勢に疑問を持った有志が、27時間テレビの企画をつぶすべく、江ノ島のゴミをきれいに掃除したあたりから起こり始めていたのだが(フジデモは間違いなくこの頃の因縁も絡んでいる。単純な嫌韓デモだと思ってる有識者は取材が足りない)、アサヒるのあたりからメディアはかなり敏感になってきた。加藤直樹氏は「憂さ晴らしをしている」「売れるからやってる」という分析をしている。これは確かに正しい。しかし、足りないのである。メディアの自己防衛本能が、間違いなくこの手の過激な論調に作用しているのである。なにしろ韓国に融和的な報道をすれば、「反日メディア」「やはりメディアは在日に支配されている」という話になるのだ。フジテレビデモでは、スポンサーである花王の不買運動が起きた。あるいは、スポンサーに対して広告を撤回するような要請もあった。メディアにとってスポンサーは重要な収入源であるから、ネット発でこのような動きが出ることは、メディアにとって大変厳しいことなのである。

 当然、メディアは「ネット右翼の主張にメディアへの正当な抗議」が含まれることは意図的に隠している。在特会についても、人種差別的な側面を前面に出して報道しているわけで、テメエたちメディアのしくじりはどうにか隠蔽しているのである。フジテレビデモのあと、李明博韓国大統領の竹島上陸前後から、週刊文春や夕刊フジにおいて、韓国へのネガティブな報道が増えた。あれは売れるとか、部数が取れるとかもあるのだろうが、「韓国ネタは扱いに気をつけないと、こっちが炎上する」という危機意識もあるはずだ。中小の出版社が嫌韓本を扱うのは、売れるからというのが大きな理由だが、大手メディアが嫌韓を扱うのは自己防衛の側面がある。「NOヘイト!」では、見えづらいこの部分が指摘されていなかった。(まあ、出版関係がメインだからしょうがないんだろうけど)非常に残念なことである。

 緊急出版という特性上、致し方ない面もあるが、全体的に「もっと練ればいい本になっただろうにね」というのが感想である。手放しで絶賛するような本ではないし、「こんな本はゴミだ」という意見も与しない。出たことだけで意義があるなら、「人種差別はやめよう」って表紙だけ作って、中はおねーちゃんの巨乳グラビア本だってかまわないわけで(どうでもいいけどこれは売れるぞ!外でも堂々と読めるぞ!)、どうせ作るなら徹底的にやってほしかったなあと言うのが偽らざる本音である。

 最後に、余談であるが、「NOヘイト!」では、社会学者の明戸隆浩氏が法規制について、諸外国の実例から日本の取り得るべき立法について述べていた。ヘイトスピーチの規制について、人種差別を禁じるのか、社会的混乱を禁じるのか、という論述である。明戸氏の主張としては、人種差別を禁止してヘイトスピーチも禁止する国連型が理想としてあり、次に人種差別を禁止するアメリカ型を目指したいとしているようだが、おそらく自民党が出してくる立法案は社会的混乱を禁止するという側面から、ヘイトスピーチを規制する法律であると考えている。私は、法哲学が専門ではないし、法律について無知であるが、大学の頃友人から「日本の法体系は、感情よりも実利が優先されてきた」という話を聞いたことがある。「感情が唯一出ている法律が、日本国憲法の前文と、第9条である」とも。「人種差別禁止」というのは、感情の問題である。そういった立法は、おそらく自民党は選択しないであろう。社会的な治安維持という名目で立法するだろう。それが出てきたとき、カウンター側はどうするべきかという分析がなかったのが残念である。恣意的に運用されそうだから反対するのか、それでも唯々諾々と受け入れるのか、どこまで修正させるのか、という議論が起こりうる。

 そして、誰も指摘していないので指摘しておくが、この国は在特会程度の組織、立法に頼らずとも別件逮捕と国策捜査で簡単に瓦解させてきた歴史がある。現代史をひもとけば、そういう事例はいくらでもある。在特会を真に今すぐ潰したいのであれば、カウンターでもなく、立法でもなく、自民党大物政治家に陳情して「あいつら国益を損ねてまっせ」と伝え、国策捜査で潰させるのが手っ取り早いのである。実際、すでに目を付けられているわけで、立法云々より前に在特会が消え去る可能性は高いと思っている。在特会はなくなりました、でも次のヘイトスピーチのために法律は作りましょう、作ったらターゲットは脱原発デモになりました、みたいな話が当然出てくるわけで、そうなったときにどうするのかまで考えていない人たちというのは、先を読む、時代を読むことについてまだまだ及ばないのではないのかなと感じたのである。


9/17
哀しき三重奏〜ウルトラセブン12話から日本が見える〜

 小学校2年生か3年生だったかの話だが、当時仲のよかった友だちが本を処分するとのことで、「これあげるよ」と譲り受けたことがある。その中に、ウルトラ怪獣についての本が2冊あった。その本は残念ながら今、手元にないのだが、当時からウルトラマンが大好きだった私は、熱心に読み込んだ記憶がある。その中の、「ウルトラセブン」の項目に、不思議な文言が書いてあった。

「12話は欠番です。」



 小学校2年生だった私は「欠番」の意味が分からず、その不思議な言葉に引っかかりを覚えた。その後、別の本の「ウルトラセブン」サブタイトルリストを見ると、なぜか11話の次が13話になっていた。「ああ、欠番ってこういうことか」と思った。もちろん「なぜウルトラセブン12話は欠番なのか?」という疑問はあったが、うっかり紛失した(なにしろ当時の私はよくものをなくす子どもだった)のだろう、程度の認識だった。

 その後は「ウルトラセブンの12話」について、あまり意識せず生きてきた。「地獄先生ぬ〜べ〜」というマンガ(今度実写ドラマ化されるあれです)の単行本に「テレビの撮影中、怪獣の着ぐるみが燃えて俳優が亡くなり、その作品は欠番となった」というような文言がコラムにあって、「ああ、12話が欠番になったのはそれでか」と思った覚えがある。一応、「怪獣が出てくる作品の欠番」と言われて、「セブンのことだな」という意識はあったわけだ。ただ、この「俳優が亡くなった」というのは「地獄先生ぬ〜べ〜」が作り出した(と言われている)都市伝説で、ウルトラセブン12話の欠番について、撮影中の事故は全く関係がない。

 高校1年生の頃、今も交流がある先生が授業でセブン12話の話をちょろっとしたはずなのだが、授業中居眠りをしていてほとんど聞いていなかった。あとで友人に聞いたら「なんか差別がどうのとか」という話をされた。流石に居眠りをしていた手前「何で欠番なんですか」なんて聞きに行けなかったので、そのときはそのままだった。

 ところが高校2年生になって、インターネットが手に入ると状況は全く変わった。ウルトラセブン12話がなぜ欠番なのか、簡単に調べることができるようになった。当時から「712」というサイトがあって、そこで初めて理由を知った。今回の原稿は、前述の712と、「ひばく星人*竭闔送ソ集刊行委員会」を参考に取材を進めた。

 欠番の理由は、こういうことだった。

1970年、中学生の女の子が小学館の学習雑誌に「ひばく星人」と書かれたウルトラ怪獣カードを見つけた。それを父親に「これって被爆者のこと?」と尋ねた。その父親は、東京都原爆被害者団体協議会の委員であり、出版社に抗議の手紙を送り、前後してこの事を知った他の団体も、制作プロダクション、放送局、スペル星人を掲載した出版社やレコード会社へ抗議を行ない、一気に問題化していった。(712より引用)

 私はそこで初めて「スペル星人」の存在や、欠番への経緯を知ったと同時に、被爆者団体への憤りを感じた。「この父親も余計なことをしやがって」と思った。ちびくろサンボを封印させようとした「黒人差別をなくす会」にも似た憤りである。許せなかった。しかし、そのときは腹が立っただけで、特にアクションをすることもなかった。

 それから15年の月日が流れた。ウルトラセブン12話を巡る状況もかなり変わった。まず、最初に抗議をした被爆者団体の父親とは、ジャーナリストの中島竜美(本名、中島龍興)氏(2008年に物故)であることが明らかになっている。動画サイトの登場も状況を変えている。ちょっと検索すれば簡単に見られるようになった。とはいえ、封印作品であることに変わりはない。この問題について、封印した円谷プロダクションは一切のコメントを拒んでいる。

 さて、この「ウルトラセブン」第12話「遊星より愛をこめて」は、すでにさんざん語り尽くされ、扱った書籍もいくつか出ているのであるが、特撮オタク的な話に力点が置かれるか、表現者の自主規制に力点が置かれるか、どちらかの面があり、いずれ自分でも何かまとめたいという意識があった。

 まず前段として、特撮オタク的な側面からセブン12話について述べておく。特撮が好きな人に、知らない人が聞くといやがられる質問がある。いろいろいやがられる質問があるらしいが、「ウルトラセブン12話って何で欠番なの?」「怪奇大作戦24話って何で欠番なの?」「バイオマンのイエローフォーは何で死んだの?」の三つだとされている。断っておくが、封印作品は全部聞くのがダメというわけではない。私自身、この前「獣人雪男(※)が見たいんだけど、DVD持ってないですか」と平然と聞いてしまうという特撮オタク失格なポカをやらかしている。

(※「ノストラダムスの大予言」同様、封印作品である)

 「ウルトラセブン」12話がここまで特別視されるには、いろいろ事情がある。まず、「ウルトラセブン」は、日本を代表する特撮「ウルトラシリーズ」の1本であり、またその中の最高傑作と名高い作品だからだ。これがもしも、「鉄人タイガーセブン」の1本だったらどうなのか。あるいは「UFO大戦争 戦え!レッドタイガー」の1本だったらどうなのか。「なんか欠番が1本あるらしいよ」程度で話が進むのである。(両作品のファンの方ごめんなさい)だいたい、特撮を知らない人に「タイガーセブン」「レッドタイガー」と言っても通じないが、「ウルトラセブン」は通じる。中には「ウルトラマンセブン」なんて言ってしまう人もいるのだが、「ウルトラセブン」は多くの人に知られている。

 ウルトラシリーズを詳しく知らない人にとって「ウルトラセブン」は、たくさん作られた「ウルトラマンシリーズ」の1本でしかないが、詳しい人にとって「ウルトラセブン」は最高傑作とあがめられている。放送終了から45年以上が経過しているが、登場する怪獣や宇宙人はもちろん、メカニック、ストーリーについてのムックが大量に出ている。欠番でも何でもないのにDVDすら出ていない「ウルトラマンパワード」(※)とはえらい違いである。

(※どうでもよくないけどウルトラマングレートのDVDを早く出してください)

 また、製作スタッフも大きい。12話「遊星より愛をこめて」は、脚本が佐々木守氏、監督が実相寺昭雄氏(いずれも故人)なのである。佐々木守脚本で実相寺昭雄監督といえば特撮オタクには「怪奇大作戦」「シルバー仮面」が真っ先に思い浮かぶほど黄金コンビで知られる。「セブン」の前作「ウルトラマン」では、実相寺監督作品だけを再編集した「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」として劇場公開までされている。そういえば、ずいぶん前の話だが私自身、「ウルトラマンのテレビシリーズで実相寺監督作品だけ借りる」なんてことをしたし、「ウルトラマンマックス」で実相寺監督が登板するとなった際には、その日は早起きしてしっかり見た。特撮好きにとって、実相寺昭雄監督作品というのは、いわば聖なる領域なのである。

 ゲストキャストも力が入れられており、前作「ウルトラマン」のヒロインを務めた桜井浩子氏が、ひし美ゆり子氏の友人役で出演している。ウルトラヒロインは、それだけでムックが出るほど特別扱いされる傾向があり、12話での共演は貴重であるとの認識がある。

 「ウルトラシリーズ」も「ウルトラセブン」も知らない人にとっては「なんのこっちゃ?」の話であるが、とにかくこの「ウルトラセブン」12話は、マニアにとって「見たくなる」要素がそろっていたと言えよう。それから、これは12話問題で誰も指摘しないので指摘しておくが、男性のオタクは「全話コンプリート」にこだわる傾向がある。アニメやドラマ作品でも、「全話そろっている」ことが前提になっていて、DVDも全話BOXで買う人が多い。全話そろっていても見る話は決まっているはずなのだが、メンタリティとして「全話じゃないとだめ」(※)なのである。

(※補足しておくと女性のオタクは気に入ったエピソードだけあればいいので、DVDもバラで買う。どうも女性は男のコレクション癖やコンプリート狙いを理解できないらしく、オタクが結婚してもめるのは、夫のコレクションの扱いとコンプリート癖である。)

 ただ、この「ウルトラセブン」12話については、それほど評価が高い作品とは言えない。この問題について最も詳しく取り上げている安藤健二氏「封印作品の謎」で安藤氏が見た際には「あまり面白くないなあ」と感想を述べているし、視聴した人からも「悪くはない」「シリーズものとして見た場合、必要な話」という肯定的な意見がある一方で、「凡作」「つまらない」という意見が見られる。かくいう私はこれまで見てこなかったのだが、今回この原稿を書くにあたって、動画サイトで見てみた。……うーん、そんなに面白くない。つまらなくはないが、手放しで褒めるようなものではない。実相寺監督らしい絵はあるし、シナリオも全くだめなわけではないが、「狙われた街」や「ノンマルトの使者」の後の重い感動や、「第四惑星の悪夢」のような「これはすごい物を見てしまった」感はない。特撮パートもウルトラホークが3台とも登場することを除けばいまひとつだし、肝心のスペル星人もウルトラ怪獣特有の神々しさみたいな物がない。知らない人に「こいつ、奥多摩の造成地でゴッドマンと殴り合ってたんだぜ」と言ったって通じるデザインセンスである。

 これは、実相寺昭雄監督が「宇宙人の体にケロイドを付けろ」とデザインの成田亨氏に発注したところ、成田氏は「そういうデザインはやりたくない」と渋々で、モチベーションが低かったからだとされている。これをお読みの方は、やる気になってやった仕事と、やる気がなくてやった仕事の間には、成果に目に見える差が出ること(※)をご存じの方もいるだろうが、成田氏にとって「やっつけ仕事」だったことは想像に難くない。

(※そら仕事なんだからなんでも一定のクオリティは必要なのだが、100点の仕事と80点の仕事の間にある壁は、20点とは思えない開きがある。)

 好意的評価の人も、名作とされるエピソードと比較すれば「そこまでではない」と言うはずで、結局の所飛び抜けた名作ではなく、欠番になっていなければそこまで話題にならなかったエピソードであると思う。

 したがって、脚本と監督、出演者が高く評価されているものの、作品そのものはあまり高く評価されていない。ここら辺、岸田森氏のきちがい演技が高く評価されている「怪奇大作戦」24話「狂鬼人間」とは対照的である。

 ただ、前述の「狂鬼人間」と違って、「遊星より愛をこめて」は、欠番に至る経緯がはっきりしている。また、欠番理由がオンリーワンである。テレビドラマにおける欠番作品は珍しくなく、「特捜最前線」では「トルコ嬢のしあわせ芝居!」が欠番(トルコという名前がまずかった)だし、「太陽にほえろ!」も、諸事情でソフト化の際欠番になったエピソードがある。最近では「相棒」も1本欠番があるし、特撮作品では「クレクレタコラ」が原盤紛失や差別的表現(特に「気違い真似して気が触れたの巻」で欠番になっている。欠番理由はだいたい差別語(きちがい、おし、めくら、つんぼ、トルコなど現在では不適当とされる文言)なのだが、「遊星より愛をこめて」は、被爆者団体の抗議で欠番となった唯一の特撮ヒーロー作品なのである。

 この欠番の経緯がはっきりしていることは、ファンにとって幸せであり、不幸である。欠番の理由は、普通、公式発表されない。だいたい、「あのシーンがまずかったんだろうな」程度の推測はできるが、それもあくまでも推測でしかない。ここら辺「遊星より愛をこめて」は、はっきりしている。それ故に「何でダメなんだ」「おかしい」という釈然としない思いや、やりきれない感覚が感じられるのである。

 少し前に「はだしのゲン」を閲覧中止にするという動きに対し、被爆者団体が撤回を申し入れたことがあった。その時、インターネットの一部で「はだしのゲンはよくて、ウルトラセブンはダメなんですね」「はだしのゲンは守って、ウルトラセブンを攻撃するサヨクは氏んでいいよ」みたいな発言を見た。この「遊星より愛をこめて」欠番に被爆者団体が関わっていることは、近年の保守的な空気の高まりに伴い「被爆者団体はサヨクだからあいつらの抗議は見当違い」のような見解を感じる人もいるようだ。被爆者団体や被爆者にとって「ノストラダムスの大予言」を欠番にしたことは責められないのに、「ウルトラセブン」だけはここまで攻撃されることにやりきれない思いを感じる人もいるだろう。

 欠番についての経緯は「封印作品の謎」に詳しく出てくる。要約して引用すると、こういう流れだ。


「小学二年生」の付録「かいじゅうけっせんカード」のスペル星人の裏に、「ひばくせいじん」と書かれたカードが出回る。



中島竜美氏かその家族、息子に「小学二年生」を買い与える。



中島竜美氏の娘、中島ゆかり氏、弟のカードを見て「ひばくせいじん」の言葉を見つける。



「お父さん、これって被爆者のこと?」カードを見た中島竜美氏激おこぷんぷん丸になる。



中島竜美氏が娘の中島ゆかり氏の指摘から小学館に抗議文を送る。



中島氏が抗議文を送ったことを「原爆文献を読む会」のメンバーに話す。



原爆文献を読む会のメンバーが朝日新聞の記者に話す。



朝日新聞が「被爆者の怪獣マンガ」という記事を出して火を付ける。


1970年10月10日
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(画像クリックで拡大、以下同じ)

朝日新聞、てめぇぇぇぇぇぇぇぇ!!


 そう、被爆者団体の抗議以前に、火を付けた明らかな放火犯がいるのだ。朝日新聞である。「ウルトラセブン」を見れば、被爆者を怪獣扱いしていないことなどすぐに分かるのだが、ろくすっぽ取材せず、被爆者団体から聞いた噂話だけで記事を書き、問題に火を付けたのは朝日新聞なのだ。流石は戦前は戦争を煽って日本を戦争に突入させて国を滅ぼしかけ、戦後は吉田茂内閣をさんざんこき下ろしたのに90年代になると「吉田茂みたいな首相がほしい」と手のひらをひっくり返し、サンゴに傷を付け、河野さんを犯人扱いし、従軍慰安婦問題をややこしくさせ、「アベする」という流行語を捏造し、脳内妄想の吉田調書を掲載したアサヒる新聞だ。

 この原稿をお読みの賢明な読者諸君は朝日新聞のスタンスなど今更だと思うが、だがちょっと待ってほしい、朝日新聞はその後も「被爆者の味方」とばかりに、ウルトラセブンを徹底攻撃する。


1970年10月13日
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1970年10月15日
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1970年11月3日
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極めつけはこれだ。「問われる児童雑誌の体質」って……。
問いたいのは「朝日新聞の体質」だよ!

1970年11月30日
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 また、朝日新聞が火を付けると、油を注ぐように便乗して弱者の味方を気取り、弱いものいじめをする新聞社がもう1社ある。そう、みなさんお分かりの通り、毎日変態新聞だ。ここも朝日新聞に負けず劣らず、徹底的なウルトラセブン攻撃キャンペーンである。

1970年10月13日
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どこが被爆者を怪人視してんのよ!
作品見てねーだろ!


1970年10月15日
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1970年10月17日
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こんな新聞が世間に誤った見方を植付ける。



1970年10月18日(東京版)
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平和団体ってインチキだね。
こんなの見せられてる子どもたちがかわいそうだネ。




1970年12月3日
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 「被爆者を怪獣扱いしている」のが全くの誤解であることは今更言うまでもない。そのことは円谷プロダクションも、小学館も主張している。しかし、当然自称弱者の味方の朝日新聞と毎日新聞がそんな主張を聞き入れるわけがない。小学館はついに「元はと言えば新聞がややこしくしたんだよ」と、今となっては至極当たり前の主張をした。これがどのように報道されたかというと……。

毎日新聞1970年11月18日
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「小学館、責任転嫁の社告を出す」

※縮刷がうまくコピーできませんでした。記事を読みたい場合は、撮影したものがありますので下記からごらんください。

   


当然、自分たちに責任は全くないっていうか、慰安婦問題でも「朝日新聞は被害者だ!」「我々もだまされた!」と責任転嫁が十八番の新聞社、他の人々が責任転嫁することは絶対に許されない。当然被爆者団体を焚き付け、再び円谷プロを巻き込んだ社会的リンチに追い込み……

1970年12月13日 朝日新聞

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「小学館、再びあやまる」


さすが大正義マスメディア様!ちょっとでも新聞を責める奴らは責任転嫁なんだ!新聞社は絶対に間違えないんだ!ザマーミロ!!


 こうして、「ウルトラセブン」12話「遊星より愛をこめて」は、闇に葬られたのであった………。


 なお、この後、光文社「FLASH」誌(2005年11月22日号)で12話特集が取り上げられた際、当時小学館のスタッフだった方によれば「その後マスメディアから報道が行き過ぎたという謝罪があったが、朝日新聞は謝らなかった」とのことだった。朝日の辞書に「反省」と「謝罪」がないことは、文春と新潮が紹介しているが、昔からだったのである。

 それから30年以上の時が流れた2003年……朝日新聞にこんな記事が載った。


2001年8月3日朝日新聞
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朝日新聞、てんめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!


 自分たちが放火して家一軒丸焼けに追い込みながら、「何が原因で火事が起きたのか」とドヤ顔で解説しているようなものである。当然、この記事はネットの中で「これぞ朝日新聞クオリティ」と大絶賛されたものの、当時はインターネット人口が少なく、今となってはあまりおぼえている人が少ない記事である。

 その後、ウルトラセブン関係の記事は安藤健二氏が書いた「封印作品の謎」(太田出版)まで、途切れることとなる。この理由は簡単で、「ウルトラマン」関係の本を出す場合、円谷プロダクションに版権許諾を得なければいけない。ところが、「遊星より愛をこめて」やスペル星人について言及した場合、当然円谷プロダクションは許諾しない。円谷に関わりない特撮ムックを出す出版社にせよ、特撮ライターにせよ、円谷プロダクションと対立するのは避けたい。アンタッチャブルな存在になっていくのである。円谷プロダクションは、「ウルトラマン」シリーズをはじめ、「怪奇大作戦」「ファイヤーマン」「ミラーマン」「ジャンボーグA」「マイティジャック」など、特撮の歴史に名だたる作品を多数残している。また、東宝とも関わりが深く、円谷プロダクションの始祖・円谷英二氏といえば「ゴジラ」の特技監督として世界的な存在である。特撮ムックで「サンダーマスクのマスターフィルムはどこにあるのか」と論評するのはOKでも、「ウルトラセブン12話はデジタルリマスターしたのか」という言及はタブーなのである。

 したがって、現在では、「封印作品の謎」と、光文社「FLASH」誌が最後の特集ということになる。これは致し方ない部分があって、その特集の後、抗議した中島竜美氏、脚本の佐々木守氏、監督の実相寺昭雄氏が相次いで他界しているのだ。当事者のコメントを取るのがジャーナリズムの基本だから、当事者がいない以上記事にすることは難しい。なにしろ円谷プロダクションが一切のコメントを拒んでいるのだ。円谷プロダクションと提携している森次晃嗣氏は、当然12話について一切ノーコメントである。

 FLASH誌では、興味深い記事がある。それは、中島竜美氏と佐々木守氏の対談である。中島竜美氏は12話について、スペル星人の造形など一部の問題があったことを指摘した上で、「作品を見ないで抗議したことは失敗だった。」「表現の自由を潰してしまったという思いがある。」と述べている。また、「私は加害者第一号として、ウルトラセブンのファンに糾弾された。」とも述べており、中島竜美氏のその後の活動において、「ウルトラセブン12話問題」の存在が影を落としていた可能性がある。(引用画像参照   

このFLASH誌、読めば読むほど味わい深い記事である。被爆者団体の抗議について「机を叩くような激しい抗議だった」との証言が載っている。確かに、火を付けたのは朝日新聞で、油を注いだのは毎日新聞だが、その火を持って暴れ回ったのは被爆者団体である。

 この記事を読みながら、森達也氏の著書「放送禁止歌」(光文社知恵の森文庫)を思い出した。「放送禁止歌」は、今、手元にないのだが、確か後半は同和地区(被差別部落)についてのリポートで、「1970年代、部落解放同盟の激しい抗議にメディア側が萎縮したことは事実です」と酔った森さんがくだを巻いたところ、部落解放同盟の人は「そうだけれど、誰も反論してこなかった」と述べている。実際の所、言い返せば火に油だから抗議が来たらさっさと引っ込めたことは想像できる。森達也氏はそういう「抗議が来たら」あるいは「抗議が来そうなこと」を自主規制し、ふたをしてしまうメディアの体質を「思考停止」として批判している。

 「ウルトラセブン」12話問題に関して言えば、確かに、「ひばくせいじん」というカードに問題はあった。その設定を作ったのは大伴昌司氏だとされているが、大伴氏やそれをOKした円谷プロ(たぶんOKしたというより、大伴氏に丸投げでろくすっぽチェックしてなかったのだろう)、小学館の人権感覚に問題がなかったとは思えない。だが、問題にすべきはその人権感覚であり、「被爆者を怪人扱いした」という朝日新聞と毎日新聞の記事は全くの誤報だった。その誤報にいきり立った被爆者団体が猛烈に抗議して、圧力団体と化し、円谷プロダクションは自主規制した……。「作り手」「メディア」「抗議者」この三者があまりにも不幸な三重奏を奏でているのだ。

 ここで多くの人は「新聞がおもしろおかしく報道しなければ」と思ったに違いない。私自身、新聞の責任はこの問題について、決して小さくないと考えている。正直、腹が立った。何度も記事を読み直してみる。1970年当時、新聞記事に執筆した記者の名前は出ていない。誰が書いたかも分からない。慰安婦問題の記事を書いた植村隆氏のような、追及はできそうもない……。

 ふと、読みながらざらざらした感覚に襲われた。なんだろう、この違和感は。


「被爆者がかわいそうだ」


「被爆者って、かわいそうな人たちなんだネ」


「被爆者をいじめる怪獣まんがなんて許せない」


森達也氏は言う。「人は善意で動く」と。自らの正義を確信して動くと。記者は間違いなく、被爆者の味方として、弱者の味方として記事を書いている。「被爆者がかわいそうだ」という言葉を隠れ蓑にして。私はそれを口の中で反芻しながら、違和感を消せずにいた。




……被爆者はかわいそうなのか?



どうしても分からない。これは、被爆者団体に取材をするしかない。
インターネットで被爆者団体を調べ、片っ端からメールを送った。





 突然のメールを失礼いたします。私は,名古屋市に住む(本名)と申します。ウェブを中心にコラムを執筆しており,今回執筆している原稿に関連し,取材をお願いしたくメールいたしました。

<取材主旨>
 日本を代表する特撮テレビドラマ・シリーズである「ウルトラマン」シリーズ。その1作,『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」は,現在公式に欠番とされ,再放送やDVDでの視聴ができない状況です。この欠番については,1970年,小学館の学習雑誌に登場する宇宙人カードに「ひばく星人」と記されており,「原爆文献を読む会」の中島竜美氏(故人)が抗議書を小学2年生に送ったところ,回答を前に朝日新聞が報道し,その記事をきっかけに被爆者団体が抗議したことが原因であるとされております。その後,12話という作品そのものに差別的内容がなかったこと,当初の新聞報道に誤りがあったこと,被爆者団体の抗議が大変苛烈なものであったことなどが現在指摘されております。
 さて,今回私は「ウルトラセブンから日本が見える(仮題)」と題し,表現の自由と抗議,そして欠番と差別問題という一連の流れについて,原稿を執筆しております。この「ウルトラセブン」12話については,およそ10年前,安藤健二氏が著書『封印作品の謎』(太田出版)において,複数の被爆者団体に取材を試みています。しかし,残念ながらいずれの団体も取材を拒む姿勢を見せております。この動きに対し,ネット上では被爆者団体を揶揄したり,軽んじたりする物言いが見られます。作品が封印されたことはもちろん残念なことですが,それによって被爆者団体が悪者にされることもまた,残念なことであると考えます。来年は広島・長崎への原爆投下から70年という節目の年であり,若い世代の「右傾化」や,「被ばくの記憶の風化」といった問題について,考えるべき時が来ているように感じます。前述の通り,ウルトラセブンだけでなく,被爆者の問題についても取材させていただきたく,メールさせていただきました。
 「ウルトラセブン」12話問題及び,被爆者差別の過去と現在について,下記質問にお答えしていただけたら幸いです。どうぞよろしく願いいたします。

<質問>
質問1
「ウルトラセブン」12話「遊星より愛をこめて」欠番について,欠番に至る過程に被爆者団体の抗議が関わっている事実を承知していますか?また,貴団体が実際に抗議した記録はありますか?抗議について記録が残っていれば教えてください。


質問2
「ウルトラセブン」12話の作品そのものには差別的要素がないことがその後の調査で明らかになっており,「被ばく者団体はこちらの言い分を聞いてくれなかった」「机をたたくような激しい抗議だった」という証言も明らかになっております。今後,貴団体として「ウルトラセブン」を制作した円谷プロダクションに対し,抗議を撤回したり,12話の公開を働きかけたりすることを考えていますか?お答えください。


質問3
1970年当時の抗議について,被爆者団体の抗議が円谷プロダクションや小学館を委縮させ,抗議を恐れるあまり過剰な自主規制に踏み切らされた部分が指摘されています。このような形は,結果的に「被ばく者について論評する(触れる)ことは抗議を招く」という表現者側の強すぎる自粛を呼び,いわゆるタブーのような形に追い込まれ,肝心の被爆者差別の問題が置き去りにされているように感じます。このような抗議方法に問題はなかったか,現在ではどのように考えるのか教えてください。


質問4
1970年当時,被爆者の多くはちょうど社会に出る(あるいは出た)時期であり,偏見や差別に苦しんでいたと推測されます。したがって,円谷プロダクションや小学館に対して,激しい抗議になったことも致し方ない部分があると考えます。1970年当時,被爆者差別にはどのようなものがあったのでしょうか?また,2014年現在,被爆者差別はどのような現状でしょうか?当時の現状と,現在の課題を教えてください。


質問5
1970年当時の新聞報道を検証すると,全体的に「被ばく者がかわいそう」的な論調が目立つように感じます。確かに,戦争に巻き込まれ,望まぬまま原爆に被災した被爆者の状況は気の毒であり,大変な状況であったと考えます。
 しかし,「被ばく者はかわいそう」的な論調に,何か違和感を感じることも確かです。果たして,被爆者は「かわいそう」な存在なのでしょうか?また,「被ばく者はかわいそうな存在」のような見方についてどのようにお考えでしょうか?お答えください。







 私の言いたいことは、主旨と質問の通りだ。「ウルトラセブン」12話問題にかこつけて、「被爆者はかわいそう」的な善意について、被爆者団体の考えを聞きたかった。はっきり言わせてもらえれば、「ウルトラセブン」12話については、もうどうでもよかった。この問題は、さんざん議論され尽くしていたことだ。改めて自分で調べてみて、封印までの経緯を調べるに、「新聞」「被爆者団体」「円谷プロダクション」が哀しく絡み合っていた。だが、どうしても分からない封印のキーワードがあった。それが、「かわいそう」なのだ。「被爆者がかわいそう」という、この「かわいそう」という善意と言葉の一人歩きが、ウルトラセブン12話を封印させたのだ。だが、「かわいそう」という見方を、被爆者団体は望んでいるのか。それが被爆者団体の望みなのか。どうしても知りたかった。

 メールを送ってしばらく経った。被団協本部と東友会からはメールの返事があった。東友会は、「たいへん申し訳ありません。1970年当時、東京都原爆被害者団体協議会の役員としてウルトラマンセブン第12話の問題にかかわったものは、全て他界しております。このため、現在、この問題についてコメントできる者はおりませんので、ご了解をお願い申し上げます。」(原文ママ)とのみ、返答があった。「かわいそう」云々は一切触れられていなかった。東友会は、1970年の問題当時、中島竜美氏の「原爆文献を読む会」と並んで、新聞で最も激しく小学館を攻撃するコメントを出していた団体だ。「封印作品の謎」でも、「当時の抗議は今も有効」という、過去の過ちに対する一切の省みを拒絶し、左翼の無謬をこれでもかと信じている節があった。だから、たぶん、コメントしないだろうと思っていた。案の定である。

 原水禁、原水協はじめ、多くの被爆者団体はメールに対する返信すらなかった。届いているはずだが、山羊に食わせてしまったのか、それとも迷惑メールに振り分けられたのか、あるいはメールの使い方を知らないのか、正直分からない。こちらに取材する自由があるのと同じく、あちらには取材を無視したり、拒否したりする自由がある。取材に返答がなかったことは残念だが、致し方ないことだ。本音を言わせてもらえれば、被爆者団体は「過去の過ちを直視しろ!」と主張しているのに、「誤った報道を元に苛烈な抗議をした、あなたがたの抗議方法に問題はなかったのですか?」という過去の過ちを質した私に「あーあーあーあーあー、聞こえなーいー」という態度で、はっきり言って言行一致を感じないけれど、そもそもどこの馬の骨とも分からぬ自称ライターが突然メールで取材依頼という胡散臭さに敬遠したのかもしれない。それに、「封印作品の謎」でも、ほとんどの被爆者団体は「ウルトラセブン」12話について、取材を拒否している。取材に応じてもらえないことは、覚悟の上だった。

 被団協は、「即答できないので、協議の上、返答いたします」とメールの返事があった。返事はそれから3週間経っても届かなかった。しびれを切らした私は、被団協に電話をかけた。

 被団協の担当者は、誠意をもって答えてくれた。回答が遅れた理由は、当時の抗議文が残っていないかと、倉庫の中を調べていて、まだ見つかっていないからという理由だった。わざわざ倉庫の中を調べさせてしまうような手間を取らせてしまったことに、申し訳なく感じた。

「抗議をしたという記録はあるんです。ただ、当時の役員は皆、亡くなっております。」

予想通りだった。今回の取材に関して言えば、「今更」だし、遅すぎたことは分かっている。それよりも聞きたかったのは、「被爆者はかわいそうなのか」ということだった。取材を進めてきた中で、これがどうしても分からなかった。それを伝えた。

「子ども向けに、被爆者がかわいそうだからという物言いはあったかもしれませんが、被団協として、被爆者がかわいそうだという物言いをしてきたつもりはないし、むしろ被爆者はかわいそうだなんて、思ってほしくないと思って活動してきました。」

担当者は、きっぱりとした口調で言い切った。被爆者はかわいそうな存在ではない。それは違う。それが被団協の認識だった。

 もちろん、かつて、被爆者に対する差別や偏見は大きく存在したし、「形を変えて今も残っている」という。

 被団協は、誠意をもって答えてくれたと思う。感謝している。実は、この原稿はメールを送った時点で「だけど返事は一通もなかった」という続きにするはずで、いわば免罪符のような、アリバイ作りで取材したようなものなのだ。だから倉庫の中まで探してもらえたことは感謝しているし、電話でいきなりぶしつけな質問をしてきた、どこの馬の骨とも分からない自称フリーライターに誠実に答えてもらったことは感謝しても仕切れない。

 一方で、他の団体に関しては、残念ながらがっかりしている。結局、平和団体なんてそんなものなのかと、正直、失望している。平和であること、世界の非核化は確かに理想として正しい。掲げている理想が正しいのだから、平和団体のアクションは全て正しい。そういう発想で行動するから、支持を失うのだ。掲げる理想の正しさと、そのために行う行動の正しさは、必ずしも一致しないのだ。そんなものが一致してしまったら、要人へのテロだって正当化されてしまう。その指摘を柔軟に受け入れられないがゆえに、今の社会状況があることを理解できないのだなと、かなりがっかりした。社会が右傾化しているのではない。この国が集団化を加速させる中で、左派が社会から信頼を失ったのだ。味方を増やすチャンスはいくらでもあったのだ。だが、自分たちの理想が正しいという安心感から、自分たちを省みず、不勉強のままで良しとしたことが、今の社会状況を生んだのだ。「私たちの理想は正しい。だから私たちは正しい」という思考停止したロジックに、はまりこんでしまったのだ。脳味噌がお花畑とは、こういうことを言うのだ。

 確かに、望まぬまま核爆弾の爆発に巻き込まれ、戦後心ない差別や偏見に苦しめられてきた被爆者の苦労は、想像しても想像できない。今、福島県で似たようなことが起きていると聞いているが、それよりももっと露骨で、悪質で、心に傷の残る歴史があったのだろう。だが、それを「かわいそう」という一言で表現するマスメディアと社会そのものが、差別構造を包含しているのだ。なぜなら、「かわいそう」というものの見方には、前提として「私はかわいそうじゃない」という優越感があり、「かわいそうな人々」は一段下に見ている、見下ろす感覚があるのだ。「被爆者はかわいそうだネ」などと報道した朝日新聞や、毎日新聞の記者は、被爆者差別に荷担したと言っても過言ではないと思う。被爆者も、大変だけれど、同じ人間であり、一生懸命生きていて、ともに社会を生きる仲間なのだ。その仲間が不愉快に思っている作品「ウルトラセブン」について、社会全体で考え、よりよい相互理解を広めていくべきだ、そういう報道は調べてきた中で一つもない。

 「かわいそうだ」という報道。「私たちは傷ついた」という反論を許さない抗議。「申し訳ない、欠番にします」と、言われるままに自主規制した制作者。そして、見たい作品を奪われた私たち。我々にとって、こんな哀しい三重奏は聴きたくなかった。この問題で、幸せになった人は誰一人いないのだ。(強いて言えばテキトーな捏造記事を書いて高い給料をもらった朝日新聞と毎日新聞の記者が勝ち組に所属しているが、彼らがこの記事を書いたことで幸せな気持ちになったかどうか、今となっては確かめる術はない。)

 そして、激しい抗議による欠番によって、被爆者差別はなくなったのか。答えは、否、である。むしろ、激しい抗議に「これはまずい」「被爆者について触れると抗議される」「じゃあもっと差し障りのないものにしようか」と、過剰な自主規制が始まった。作り手の思考停止の始まりだった。この「被爆者」を別の言葉に置き換えれば、同じ話を私たちは繰り返している。「同和地区」「皇室」「宗教」「障害者」「在日コリアン」「アイヌ」「沖縄」…………………。

 だが、自主規制して、触れないようにして、差別や問題の根本は解決したのだろうか。むしろ、腫れ物に触るような、「アンタッチャブル」「タブー」という、作り上げられた危険なイメージから、一部の好事家によってアンダーグラウンドでオモチャにされ(※)、社会的には無知で無関心な人々を増やし、結果当事者の心は一切救われないまま時が経っているだけではないのか。

※このオモチャにしてる好事家には、ネットのコラムなら円谷プロの規制がかからないから好き勝手書けるぜ!とばかりにこんな長いコラム書いている私も含まれることは言うまでもない。

 終戦から69年が経過した。来年は戦後70年。つまり、70歳未満の被爆者は(胎内被曝した人を除いて)ほとんどいなくなると言っていい。そのうち、ウルトラセブン12話問題について説明するとき、アインシュタインの原子力理論とマンハッタン計画から説明しなければならなくなるときが必ず来る。30年後までには、被爆者のほとんどは鬼籍に入ってしまう。つまり、被爆者団体はなくなる。今ですら被爆者団体の存続が難しくなっているのに、30年後まで、いったいどれだけの被爆者団体が残るというのだろう。つまり、抗議した人々、配慮すべき人々はいなくなる。それでも「ウルトラセブン」12話は公開されないとしたら、いったい誰のための自主規制なのだろう。

「もう誰も抗議しないけど、その昔抗議されて封印して、それっきり欠番です。」
「抗議する人がいないのなら公開したら?」
「いや、欠番にすると約束したから欠番です。」
「その約束した人達は?」
「みんな亡くなりました。」
「じゃあ公開できるんじゃない?」
「でも、永久にと約束したから欠番です。」
「約束した人が誰もいないのに、その約束は有効なの?」
「………………………………………。」


こんな禅問答のような話が、30年後、ウルトラセブンのファンの間で交わされるのだ。ばかばかしくて涙も出ない。

 来年、被爆70年の節目になることを被団協に指摘した。向こう10年で、被爆者の大半が亡くなること、そして「爆心地の記憶」は間違いなく消えることを懸念していると伝えた。

「その通りです。正直、危機感をもっています。」

担当者は、強い口調で言った。一部の被爆者団体では、被爆者の高齢化に伴い、活動ができなくなった団体もあるらしい。

「かつて、被爆者という存在があった、という過去形で語られるのが、最も望まない未来ではないのか、と思いますが?」
「そうです。絶対に忘れてほしくない。そのために、被団協は活動しているのです。」

そりゃそうだろう。全員鬼籍に入りました。もうこの世には存在しません。忘れてもいいのです。当事者として、そんな訳にはいかないだろう。ないがしろにされている、軽んじられていると思うから、あそこまで抗議してきたわけで、世の中全員が忘れてしまったら、なんのための活動か、全く分からない。

 「ウルトラセブン解禁に向けて」なんて野暮なことは聞かなかった。どうせ被団協が円谷プロに働きかけたところで、バンダイの傘下に入って事なかれ主義を第一にしている円谷プロダクション(という看板を背負った著作権管理団体)が、解禁に向けて動き出すわけがない。

 私なりに調べてきた結論をはっきり言う。当初誤った報道をした新聞、反論させない苛烈な抗議をした被爆者団体、自主規制をしたまま知らんぷりの円谷プロダクション。三者全てに、大きな責任が存在している。

 まず、新聞は第一報を誤報した。「被爆者を怪獣扱いした」というセンセーショナルな見出しで、被爆者団体と世間を煽った。この第一報が冷静なものであれば、この問題は違った結末を迎えたはずだ。そして、その第一報は、自称ジャーナリストの素晴らしい取材に基づいていた。松本サリン事件の翌日、「近くに住んでる会社員の家に化学薬品があった。こいつが犯人だ。」という報道だってそうだ。河野さんの家にあった薬品をどんなに混合したところでサリンができないことはちょっと調べればすぐに分かった話だ。ろくに調べもしないで、「薬品があった」だけで、どんな薬品かも調べず、大喜びで記事にする。1970年から現在まで、朝日新聞社をはじめ、テキトーなことを書いてる大手マスコミジャーナリストのスタンスは厳しく糾弾されていい。朝日新聞は、慰安婦問題で謝罪する前に(だって実際慰安婦は存在したわけで…とか書くと話がややこしくなるから書かない)、ウルトラセブン12話で誤った報道をしたことを謝罪した方がいい。

 次に、被爆者団体だ。抗議は誰よりも冷静に行うべきだった。苛烈で過激な抗議で相手を萎縮させ、タブー化させた。被爆者団体にすれば、「誤った新聞報道に踊らされた、私たちは被害者だ」と言いたいだろうが、新聞報道を鵜呑みにし、脊髄反射的に「謝罪しる!反省しる!」と叫んでいるだけで思考停止していた責任は大きい。在特会は「被爆者利権」などとおかしなことを叫んでいて、これは論外なので置いておくが、何かを検証せずすぐに差別のレッテルを貼り、思考停止して攻撃していたのは被爆者団体である。お得意の「だがちょっと待って欲しい」と、どうして誰も言わなかったのか。そして、自分たちの抗議が思考停止した、問題のある抗議だったことを、自己批判して総括した方がいい。山岳ベースでキャンプしろとまでは言わないけど。人が死んじゃうし。

 そして、円谷プロダクションだ。確かに、あの当時は謝罪して引っ込めるしかなかった。それは仕方がない。だが、そういう作品を「なかったことにする」態度は、果たして制作者として責任ある態度なのだろうか?「ウルトラマン」シリーズで、後世に残る作品と語り継がれているのは、正直、「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣使いと少年」までで、それ以降はどうなのだろう。社会的な問題意識を作品に織り込み、世の中に問うていく姿が、円谷プロダクションの矜持ではなかったのか。子どもたちに、子ども騙しではない、本気の作品作りをしてきたから、私たちは円谷プロダクションを支持し、応援してきたのではなかったか。当たり障りのない、「ウルトラマンキッズ」みたいなウルトラマンを私たちは望んできたのか。

 確かに、抗議されることは怖い。私自身、今回のこの原稿は波紋を広げそうで、公開していいのか、迷っているところもある。だが、この「ウルトラセブン」12話問題を、自分なりにまとめ、世の中に問いたいと思ったから書いている。

 抗議されないような、思考停止した当たり障りのないもの作りで、果たして人の心を揺り動かせるものは作れるのか。私は、作れないと思っている。もし、抗議が来たならば真摯に受け止め、その問題を解決すべく、ともに考えるべきなのだ。(もちろん、タブーは商売になるからという下卑た好奇心や、ふざけて「怪しいお米セシウムさん」みたいなものは許されないとも思う)

 「ウルトラセブン」12話は、きわめて日本的な、日本ならではの問題である。それは、1970年当時から、日本社会は思考停止に陥っており、それから40年以上経過して良くなるどころか、どんどん悪化しているという事実が、過去と現在の問題をあぶり出しているとからだ。

 「ウルトラセブン」12話は、確かに、作品としてそれほど面白い作品ではない。ただ、その封印に至った経緯と現在までの道筋は、「ウルトラセブン」という作品がシリーズを通して描いた文明批評以上に、鋭く日本社会の暗部を抉り出している。そして、その抉り出した暗部は、禁断の果実とでも言うべき魅力を秘めている。1970年から44年が経過した今も尚、社会の思考停止が悪化し続けていることを、12話「遊星より愛をこめて」はその身をもって証明してくれている。

 誤解を恐れずに言えば、「ウルトラセブン」12話は、この日本の社会が変わらない限り、未来永劫公開されることはない。朝日新聞が謝罪することなどあり得ないし、被爆者団体が抗議を撤回することもあり得ない。円谷プロダクションが、クリエイターの誇りをかけて世に問うなんて芸当ができるわけがない。誰も責任を取らない、取りたがらない、一億総無責任社会に生きる私たちには、12話が見たければYouTubeしかない(※)のだ。

※流石に最近はニコニコ動画など、動画サイトの12話も消されるようになってきた。

 だからこそ、私は書く。「思考停止ではないのか」「おかしな状況ではないのか」と。

 ふと、動画の中の、スペル星人の顔を見つめてみる。切れ上がった目が、怒っているようであり、泣いているようでもある。

 監督した実相寺昭雄氏にとって、12話の欠番は、自分の子どもを殺されたような心情だっただろうと推測する。その子どもが甦らぬまま黄泉へ旅立たざるを得なかったことは、実相寺監督にとって、さぞ無念だっただろう。その子どもの仇を取ろうなんて思いはない。ただ、欠番に至る経緯と、今の社会状況を照らし合わせたとき、日本が見えてきた。そして、それを考えることは「たかが子ども番組の欠番」ではなく、より根深い、大きな問題がかくれているように感じるのである。


<あとがきというかお願い>
 どうせ「画像の無断転載は禁止です」なんて言ったところで持って行く人は持って行くと思うので、どうぞ持って行ってください。こちとら資料集めるのに使った日にちとお金なんてそんな立派なものではないので、誇る気はありません。むしろ今回の取材で三島由紀夫氏の生首写真が見られたり、いろいろ刺激的でした。(※1970年11月25日に三島事件が発生)


 この原稿は、図書館で調べて、メール送って、ちょこちょこっと書いただけで、その気になれば誰だって書ける原稿です。二次引用は褒められたものではありませんが、「それでもやりたい」人は勝手にやると思うので止めません。別に私はウェブサイトのヒット数なんかどうでもいいし、この先もインターネットの端っこでひっそり今時HTMLでサイトを続けたいので、宣伝とか紹介もしなくていいです。通りませんか?そういうの。ただ、画像を使う際、何新聞の何月何日の記事かなど、出典元の日付等は忘れないでほしいのと、コラ素材に使って朝日新聞や毎日新聞の悪行を捏造することだけはやめていただきたい。それでは朝日新聞と同じです。

 むしろこんなクソが付くほど長い文章を最後まで読み切ったあなたに心から感謝しています。っていうか、よくぞ読み切ってきた、我が精鋭たちよ!(←谷隊長)

 個人的には、この文章を森達也さんに読んでいただけたらこの上ない喜びなのですが、いかんせん森さんの嫌いなマイケル・ムーア監督みたいな手法を使ってるし、自分でも偏ったバイアスがかかっていることは承知の上なので、各方面からの批判には先に謝ります。ごめんなさい。「ウルトラセブン」12話について書く以上、他と違うことを書く必要性があり、自分の言いたいことと、ウェブサイトの読み物として面白さをミックスしたら、こんな鬼子ができちゃいました。こんな文章でも「読んだよ」とTwitterでリプもらえるとどっかの元県議みたいに号泣して喜びますので(嘘つけ!)、感想を教えていただけたらうれしいです。ありがとうございました。


8/8
『いま、在日を生きる』と『奥様は愛国』

<おことわり>
本テキストは2013年10月15日に執筆を開始し、その後何度かの中断期間を経て8月に完成という、久米田康治氏の『育ってダーリン!!』のようなテキストになっております。したがって執筆中に情勢が変化し、適宜修正加筆を行いましたが、一部表現は昨年10月の状況のものをそのままのこしております。ご了承ください。また、今回は非常に長く、読みにくいことをお詫び申し上げます。

 「ネットと愛国」に関するテキストを書いたのが2012年の話で、そこからTwitterで著者の安田浩一氏と関わるようになり、1年以上が経過した。その後在特会(在日特権を許さない市民の会)をはじめとする過激なネット右翼は「ネトウヨ」から「レイシスト」と呼び名が変わり、ついには「レイシストをしばき隊」というカウンター組織が成立したり、国会で議論されたりするようになった。活動を始めた頃は、「ネトウヨが町に出ると痛いね」程度の存在だった在特会が、いつの間にか(そう、いつの間にか、である)国際問題になりうるほど影響力の大きな組織になっている。2013年9月に人種差別撤廃を求める東京大行進があり、その成功はひとまず喜ばしい話であるが、ネトウヨのメンタリティには「どーせサベツなんてなくなんねーよ」という意識が必ずどこかに(無意識にしても)あるだろうし、カウンターに押されてヘイトデモが減ったとして、抑圧であるので、どこかで、何らかの形で暴発するのではないかと懸念している。

 さて、この在特会の問題は「ヘイトスピーチをどう規制するか」「レイシストをどのようにするか」といった観点で論じられることが多い。法規制、あるいは倫理観、社会情勢、様々な切り口で議論されている。いわば、現代の社会学において、非常にトレンディな話である。ということは、このテキストも、10年後に読み返して「こいつ、時流に乗ったテキスト書いてるな」と自嘲気味に語るものになりかねないが、それでもいろいろ考えて、発言したいと思うので、ここにまとめることにする。

 ヘイトスピーチ問題について語るとき、基本的に語られるのは「ヘイトスピーチする人々」すなわち差別する側の話になることが多い。これは仕方がない。だって悪いのは差別する人なのだ。シネだのコロセだの、品のない言葉を言う人と、言われる人、どちらが悪いかなんて、子どもでも分かる話だ。

 だが、最近考えるに、差別されている在日コリアンに対する現状の考察や、提言といったものは少ないように思う。いや、提言はされているはずなのだ。それがネトウヨをはじめとする保守層に響かなくなってきている。大体ネトウヨは在日コリアンに対して、(死ねとか殺せとかは別として)「帰国しろ」とか、「帰化しろ」ということが多いが、果たしてどれだけ「在日コリアン」を理解しているのかという話である。

 私自身、在日コリアンとの接点というのはかなり少ない。Twitterの相互フォローに、朴順梨氏や山口祐二郎氏がいるけれども、それ以前の話となると、母の知り合いとか、仕事でのつながりとか、かなり少なくなる。いつだったか「のりこえねっと」のニコ生で、辛淑玉氏と雨宮処凜氏が「通名使っていると在日コリアンと認識しないのではないか」と言われていたが、確かにその通りで、名字に金の字があるから在日とは限らないし、もしかしたら今まで会ってきた誰かが在日だったとしても、私は全然気付いていないことになる。(そういえばウィニーを作成したプログラマー・故47氏の本名が「金子」で、逮捕された当時「在日だったのか」という騒ぎになったっけか)

 在日コリアンと最初に接点があったのは、小学生くらいの時だった。名古屋市内のある駅を歩いていたら、がたいのいい高校生が「署名してくれや」みたいなことを言ってきた。母が、知的障害者施設支援をしている知人がいて、子どもの頃から署名をするという行為になれていたせいか、「何の署名ですか」と落ち着き払っていた。話を聞くと、「朝鮮学校でも大学が受けられるようにして欲しい」という署名だそうで、多少強引な高校生に面食らいつつ、困っている人がいるならと署名をした。いいことをしたと思っていたので、家に帰ってから母に言ったら、「ふうん…まあ、あなたが署名したかったのだから、いいんじゃない。」みたいなことを言われた。予想と違う反応に、かなり戸惑った。

 母にこの話をすると「そんな話をしたかしら」と言うのだが、中学生の頃ペンネームを考えたとき、金運がよくなるように「金」という漢字を名字に入れようとしたら「そんな朝鮮人みたいな名前はやめなさい!」と言われたことがあった。断っておくが、ことさらに母が差別的な人間ではない。こういう無意識下の差別というのは、私を含め、多くの日本人が潜在的に抱えているように感じている。

 次の接点は、大学時代、拉致問題の発覚で「北朝鮮はおもしろ国家」みたいなイメージが広まった時期だった。愛知県に住んでいる読者ばかりでないので注釈しておくと、豊明市に朝鮮高校があって(今思えば、あの署名の兄ちゃんも、ここの高校生だったのだろう)、当時岡崎の大学に通っていた私と、通学区間が重なっていた。友人たちと、「金正日とヒトラーの比較独裁者論」で盛り上がっていたら、豊明の駅で学生服の男数名が、いらだったように隣の車両へ移動した。友人がぼそっと言った。「今の、朝鮮学校じゃないのか。」なにか胸に後味の悪いほろ苦さが残った一方で、「やっぱり朝鮮学校は金正日を信奉しているのかねえ」みたいな話をした。お互い、胸の奥に残った嫌な余韻をかき消すように饒舌だったことを覚えている。

 その頃は報道からワイドショーまで北朝鮮の話で一色だったので、大学の講義でも当然話題になった。恩師に「万景峰号の地下倉庫には、エリック・クラプトンのライブDVDと、エロDVDが積まれていて、全部将軍様のもとに献上される。」「北朝鮮の主要産業は覚醒剤と偽札作り」「朝鮮学校の卒業生は朝鮮総連に入る。拉致に荷担した朝鮮総連を支えてきたのが、朝鮮学校である」などの話を講義で聞かされた。この話が全くのでたらめであるという人がいれば、真実であるという人もいて、この場でお前はどう思うかと言われると非常に困る。個人的には、万景峰号や覚醒剤、偽札はそうかもしれないし、朝鮮総連がかつて、全く問題のない組織だったかというと、それもちょっと違う気がする。ただ、朝鮮学校については、多少違う印象をもっている。

 そのきっかけは、昨年NHKで放送された「いま、在日として生きる」という朝鮮学校に密着したドキュメンタリーと、顔見知り(と言っても面と向かって会ったのは2回しかないんだけれども)の朴順梨氏が北原みのり氏と共同で出した『奥様は愛国』を読んだからである。朴氏の著書については「顔見知りのよしみで甘い評価になっているのでは」という批判が出てくることも覚悟しているのだが、ネトウヨとして、在日コリアン問題とヘイトスピーチ問題について、『奥様は愛国』の書評も兼ねていろいろ述べたいと思う。

 私がネトウヨかどうかというのは、色々議論がわかれるところである。「君はネトウヨじゃないでしょう」という人がいて、「早くネトウヨから足を洗いなさい」という人がいる。どちらなのかといわれると、正直、どっちでもいい。少なくともネトウヨの気持ちは分かるし、かつて私自身、在日特権はあると思っていたのだから、元か現かはともかく、ネトウヨということにして、話を進めることにする。

 「いま、在日として生きる」は、朝鮮学校の現状をレポートしたもので、非常に驚いたし、興味深く拝見した。普段こういうドキュメンタリーは一度見ておしまいなのだが、録画して3回見た。探していただければネットにまるまるアップロードされているので、私があれこれ書くよりも見ていただいた方が早いのであるが、朝鮮学校に対しての日本人の冷たい視線と、少ない予算をやりくりして奮闘する教師たちの姿が描かれていた。この少ない予算というのが正直、驚いたところで、大学時代「朝鮮学校は工作機関だ」みたいなことを教えられていたので、北朝鮮本国から潤沢な資金が流れ込んでいるに違いないと思っていた。実際は校舎はぼろぼろ、ナレーションによれば給料は遅配とのことだ。一応北朝鮮本国からもお金が来ているそうだが、それこそ数万円だそうで、非常にしんどい状況なのだろうと推察する。

 このテキストを書き始めた後、脱稿する前には、この舞台となった中大阪朝鮮初級学校に私自身が来訪し、見学を願い出て許され、本当に見学してしまうという出来事もあった。校舎は1968年に建てられ、所々在日コリアン有志の手でリフォームされていたが、かなりぼろぼろで運動場の時計は壊れて止まっていた。そこで、ある先生に突っ込んだ質問をさせてもらったのだが、結論から言って朝鮮学校が反日でない確証しか得られなかったし、先生方が自腹を切って教材を用意している現状を見ると、補助金を支給すべきではないのかという感想をもった。

 ドキュメンタリーを見始めた私は、教室が写ると、あるものを見つけようと目をこらした。金親子の肖像画である。金日成国家主席と金正日総書記の肖像画が、すべての教室に掲げられていると聞いていたからだ。「今時掲げてないだろう」という思いと、「いや案外掲げているかもよ」という思いがあって、そういう好奇の目でしか見られない自分に気付いて愕然とした。実際には掲げられていなかったし、職員室の肖像画も撤去されたということだった。

 『奥様は愛国』でも、朴順梨氏が朝鮮学校に取材に行っているが、その学校では、校長室にのみ金親子の肖像画が掲げられているとのことだった。その理由について、校長先生が言うには、朝鮮学校を支援してくれたのが北朝鮮だったから、お礼の意味を込めてという趣旨のことを述べている。これについては「なるほど」と得心した。日本人から見て「おかしいではないか」ということも、在日から見ればそれなりに道理が通っていることもある。もちろん、道理が通っているから、尊重するべきかというと、それはまた別の問題であるが、金親子の肖像画を掲げていることが、必ずしも北朝鮮の体制を支持しているわけではないし、ああいう非人道的な行為を肯定しているわけではないのだなと思った。

 これにはもう一つ付け加えておかねばならないことがある。韓国との関係だ。戦後、大韓民国は日本の朝鮮学校に対し、支援したことは一切なかった。北朝鮮がああいう状況だから、韓国政府が「朝鮮総連と朝鮮学校は民団の傘下に入れ。そうすれば100億円やるぞ」みたいなことを言えば、朝鮮学校の問題はいろいろ解決しそうなのだが、社民党と共産党が決して合併しようという話にならないように、「譲れないもの」のにおいを感じてしまう。

 「いま、在日として生きる」には、ずいぶんハードな絵(※画面のこと)もあった。署名やビラを配りながら、多くの日本人に無視される教師たちの絵は非常にインパクトがあった。あるいは、在特会の大阪デモを見つめる在日コリアンの絵もあった。在特会のデモについてはあまり時間が割かれていなかったが、よく聞けばちゃんと「迷子の迷子の朝鮮人、あなたのお家はどこですか」とか「殺せ、殺せ、朝鮮人」という品性のかけらもないシュプレヒコールがぼかされることなく入っていた。こういうドキュメンタリーを撮ってる時点でNHKは左という人もいるが、私自身はこのドキュメントに右とか左とかの思想を感じず、普段見えないものを見えるようにしようとする制作側の努力を感じた。

 在日コリアンの問題というのは、この「不可視性」というものが大きな原因として存在している。不可視性というのは、目に見えないということだ。ほかの地域ではともかく、愛知県では在日コリアンの問題というのは、「触れないことが差別をしないこと」のような空気感がある。したがって、私の同世代の人々にとって、在日コリアンの問題について、認識している人の方が少ない。ほかの地域で、積極的に教育したとしても、結局通名を使っていれば在日コリアンかどうか、非常に分かりづらい。前述した電車の高校生たちだって、場所と状況で分かった程度で、あのまま普通に座っていれば「向かいに高校生が座っている」という、何でもない日常だったはずだ。『奥様は愛国』では、朴順梨氏の生い立ちから現在に至るまでが克明に綴られているが、好きなアイドルやバンドなど、いわゆる趣味的な側面では、日本人と変わらない感じがする。

 それでも、在日コリアンとして朴氏が受けてきた「目に見えない差別」や「目で見える差別」は、想像はできても、実感として感じることはできない。大変だったのだろうとは思うが、「分かる」と言うのは違う気がする。

 そういえば、インターネットの世界では、在日コリアンというのは、日本を支配するモンスターのようにとらえられている印象があるが、実際の在日三世、四世などは、調べてみると韓国や北朝鮮の人よりも、日本人に近い。これはよく考えれば当たり前で、何ら意外なことではない。(一方で、在日コリアン社会に対する「自浄力のなさ」いう指摘にもある程度の説得力がある。「国籍を保ったまま、参政権を要求するのはおかしいのではないか」と言う指摘は、正しいかどうかはともかく、間違っているようには聞こえない。この問題に深入りすると話の趣旨がずれるので割愛する)

 では、なぜ、インターネット上ではこのような誤解が増えているのか。それは、やはり不可視性が大きい。不可視性の強い物事は、しばしば無関心を生む。『奥様は愛国』では、朴氏が同級生や会社の関係者に心ない言葉を言われて呆然とする話が出てくるのだが、まさしく無関心の極みで、歴史的事象から現在の状況まで一切知識がない故にああいう発言が出てしまったのだろう。悪気がないだけに、余計にたちが悪い発言である。そして、この「一切知識がない」ところに、誤った知識がネット上で広まったことにより、問題はいろいろと面倒なことになってきた。私は愛国運動を否定しないが、おかしな愛国運動まで肯定しない。秦の始皇帝が不老長寿の健康法と称して猛毒の水銀を飲んだことは有名な話であるが、それと同じで、誤った愛国はかえって亡国に導きかねない。

 こういう面倒くさい事態に陥った背景に、多くの人の無関心が存在する一方で、日本社会が抱えてきた「差別意識」があることを指摘しておきたい。私の母の「そんな朝鮮人みたいな名前」に代表されるように、朝鮮人への差別意識は、無意識下に存在している。

 そして、基本的に日本人は朝鮮半島の人々を下に見ている。そういう私だって下に見ている。歴史的に見ても、日本の方が上だろうと思う。こういうことをはっきり言うことに抵抗がある人が多いが、はっきり言わせてもらう。現在のネット右翼問題というのは、「こっちが上だろう」という意識が原因に存在している。ヘイトスピーチ問題が「よくないよね」という意見が多い一方で、それほどカウンターとして盛り上がらないのは、「そうはいってもこっちが上だし」という無意識下の感覚と「在特会は私たちとは違う」という除外の感覚が、ヘイトスピーチの抑制に働かないからだ。それは、「今、在日として生きる」に出てくる在日コリアンの少年が「僕は在日だから…レベルが低いのかなあ」という独白に象徴されている。それを聞いたとき、多くの日本人は「そんなことないよ」と言うだろう。私だって思った。では、国家としてのレベルはどうか。ああいう大統領と、書記長がいる国家を比べれば「こっちの方がまだマシだよね」という感覚を、無意識下で感じはしないか。(韓国の人々の言動を見ているに、韓国人は日本を下に見ている節があるのだが、そこら辺を断言するほど韓国に詳しくないのでこれも割愛する)

 『奥様は愛国』では、愛国運動に熱心な女性が多数出てくる。出る前は、安田浩一氏の『ネットと愛国』の女性バージョンと思っていたが、実際に読んでいくと安田浩一氏は在特会に多少の共感を感じて筆を進めていたが、朴氏はものすごく戸惑いながら筆を進めていた。『奥様〜』に出てくる愛国団体・花時計の人に限らず、最近の日本の対韓国、対北朝鮮への意識はかなり悪い。私だってあんまりいい気持ちはしない。この背景には、後ろめたさと、謝罪を強いられるいらだちがあるのではないかと思う。

 この原稿を書くにあたり、それなりに在日コリアン問題に関する文献を多少調べた。在日コリアンをどのように強制連行したかという方法は意見が分かれるのでさておくとして、戦前の日本における公共事業において、朝鮮半島出身の徴用者が果たした影響は決して小さくない。炭鉱で、ダム工事で、朝鮮半島出身者は過酷な労働に従事した。これについては、否定のしようがない。事実そういうことがあった。

 たとえば、私は石原プロモーションが好きなので紹介するのだが、映画「黒部の太陽」で、黒三ダムと呼ばれる仙人谷ダムの話が出てくる。このダム工事が過酷だったことは、吉村昭氏の著書『高熱隧道(ずいどう)』に譲るが、このダム工事には多くの朝鮮人徴用者が動員され、多数の犠牲者が出たとされている。事故で殉職した人だけでなく、過酷な工事の影響で体を壊し、その後不自由な生活を送った人もいるに違いない。

 こういうことを書くと、別のネトウヨから「それでもお金はもらっていたから」という指摘を受けると思う。確かに仕事だからお金をもらっていた人はいるだろうし、実際その給料がいくらだったかまでは調べていない。あまりにも過酷なのでかなり高い給料を支払っていたという話は聞いたが、ブラック企業として知られる牛丼チェーンの深夜営業で、相当高い時給を払っているような話だろうと思っている。給料が高ければいいというものではないし、戦前において労働者は単なる使い捨て(ん?今もか?)だったので、本当にそういう給料が払われたのか、あるいは何かに理由をつけて差し引かれたこともあったかもしれない。故・川内康範先生がたこ部屋で働いていた当時、酔っ払った労働者同士がけんかして、ある一人がガラス瓶で殴られ亡くなった話をどこかで語っていたのだが、あの当時の労働環境において、「なんやチョーセンのくせに」みたいな扱いを受けた可能性は(証拠はないけど)高いと思っている。もちろん労働者だからお金はもらっていたはずだが、「お金をもらってればそういうひどい扱いを受けてもいい」わけではない。(ここら辺は安田浩一氏の前著『差別と偏見の外国人労働者』に通じるものがある)

 とにかく事実、朝鮮人徴用者は、かつての日本において、日本人がいやがるようなきつい仕事に従事してきた。これは嘘でも捏造でもなく、多くの文献が事実としている話である。トラックに次々朝鮮人を無理矢理乗せて、というショッカーさながらの強制連行があったかどうかはともかく、戦前の朝鮮半島では農業改革が行われて多くの農民が田畑を失い、日本に渡って働かざるを得ない状況だったという文献の記述が事実だとすれば、「自分の意思で渡航したのだが、そうせざるを得なかった状況は韓国併合だ」という釈然としない思いを生きてきたとして、不思議ではない。そして、帰国しようにもカネもなく、半島に帰っても仕事がない。じゃあちょっと様子を見てと思ったら朝鮮戦争が勃発。この状況について、「何もかも日本が悪い」という感覚をもつことは、賛成はしないけれど致し方ない面はある。

 そういう状況をかつての日本人はある程度理解していた感がある。「韓国には悪いことをした」という後ろめたさが、日本人の大部分に共有されてきた。昨今「自虐史観」「敗戦国史観」と言われるものだが、中学も高校も近現代史は駆け足で、「日本は中国と韓国を侵略してひどいことをして、アメリカと無謀な戦争を起こして負けました」くらいのことしかやらない。それでも、国語の授業で習う石川啄木の短歌であるとか、様々な折を見て「後ろめたさ」というのは刷り込まれてきた。

 ここで、中国や韓国が政治の舞台において、歴史問題を持ち出さなければ、多くの日本人は子々孫々、「後ろめたさ」を共有して生き、在日コリアンの問題は水面下で目立たないままだったと思う。ところが、徐々に日本人の中に、ある疑問が生まれてきた。それは、後ろめたさの一方で、自分が謝罪をする違和感だ。「なぜ併合や戦争の当事者でもない我々が、謝罪を強いられるのか?」といういらだちである。

 もちろん、加害者と被害者がそう簡単に解決するわけはないのだが、加害者意識がない人に「おまえは加害者だ!謝罪しろ!賠償しろ!反省しろ!」と言われて、素直に反省するとは思えない。中国や韓国は、「そもそも日本が侵略したから日本が悪い」「靖国参拝や歴史問題、領土問題で譲らない日本が悪い」と言うのだろうが、今の問題を引き起こしたのは、間違いなく中国と韓国の政治姿勢だ。

 そこにマスメディアが油を注いだ。マスコミは、一部を除いて基本的に朝鮮半島問題に「後ろめたさ」がある。歴史問題もそうだが、戦後北朝鮮を地上の楽園と持ち上げたことも、メディアにとって後ろめたい傷になっている。メディアが韓国や北朝鮮を扱うとき、かなり腫れ物を触るように取り扱っていることは、多くの人が感じていることだと思う。「いや、そんなことはありません」という人もいるだろうが、特定アジアと言われる中国と朝鮮、その中でも特に韓国と北朝鮮は、メディアの中で扱いが別格である。こういうことを述べると、メディア関係者は「言いがかりだ!」と否定するが、すでに状況証拠はそろっている。分が悪いのである。

 典型的なのがフジテレビである。産経新聞系列のフジテレビが反日企業かどうかは議論が分かれるところだが、2002年ワールドカップにおける韓国推しは見ていて違和感があった。あの誤審問題にマスメディア全体が沈黙したのも、何か理由があったにせよ、うがった見方を加速させるのに十分だった。

 朝日新聞の植村隆氏については、直接会ったことがないのでああいう記事を書いた理由は分からないが、カミさんが韓国人で、後ろめたい気持ちを引きずったまま生きていて、吉田清治氏の著書を読んで自分の後ろめたさの贖罪意識みたいなつもりで書いたのかなと推測する。少なくとも「これで日本を国際的に陥れてやる」みたいな悪意で書いた(もし書いてたら死刑でいいけど)のではなく、善意で書いてたのだろう。基本的に人間は善意で動くし、善意で動くからいろいろ話がややこしくなるのだ。

 話を『奥様は愛国』に戻すと、安田浩一氏の『ネットと愛国』とは違った印象を受ける。在特会は、「新しい階級闘争だ!」と称して、悪意丸出しのヘイトスピーチを垂れ流しているのだが、出てくる「花時計」という女性愛国団体については、まるきり善意で、彼女たちの危機感で立ち上がっている。そんな人々がいるのかと正直、衝撃を受けた。『ネットと愛国』では、生きづらさみたいなものがクローズアップされていたが、『奥様は愛国』は、いわゆる生きづらさとは次元の違う、奇妙な息苦しさを感じたのである。

 これを説明しろと言われると「違和感」とか、そういう安直な表現になって、元ゴーストライター(といってもあの作曲家さんのではありませんが)として忸怩たる思いを感じるのだけれど、「普通あなた方は愛国運動に参加しないでしょ?」という人々が「慰安婦問題は嘘でーす。証拠がありまぁす。」なんてオボちゃんみたいなことを言われると、脱力して気力が−10されてしまうのである。

 もちろん、生きづらそうな人も出てくる。マズローは自己実現理論における欲求階層説の中で、第3段階「所属と愛の欲求」と第4段階「社会的承認」を説いているのだが、在特会にせよ、花時計にせよ、「自分のホームグラウンドはここだぜ!」「私の国は日本だ!」という強烈な帰属意識と、「日本のために行動している自分たちを認めてほしい」という承認欲求が感じられる。私の場合、ホームグラウンドは愛国ではなくて(実際、ネトウヨ家業は副業だと思っている)特撮オタクと刑事ドラマとプラモデルで、この3つは小学校高学年までに罹患した病で、ネトウヨは大学に入ってからだから、たぶんネトウヨはやめようと思えばやめられるんだろうなあと何となく思っている。あとの3つの方は無理ですごめんなさい許してください8月9日からHGウェポンキャンペーンでR4ビームライフルほしさにまた積みプラ増えます。

 この「花時計」は、正直落ち着かない存在である。在特会のような存在は、肯定はしないけれど、理解できる。自分たちの生きづらさと、危機感と、善意が昇華し、知識も語彙もないから安直な「殺せ」「死ね」みたいな物言いに終始する。ところが花時計はどうだろう。口汚く罵るわけではなく、それなりに調べてきて「金学順は嘘ばかりです」みたいな物言いをきっぱりと主張する。いいか悪いかではなく、私にとって理解できない存在である。これは私が男だから理解できないのかもしれないが、著者の朴順梨氏も北原みのり氏も理解できないという雰囲気だった。

 『奥様は愛国』は、非常に時間をかけて、丁寧に書かれた労作であることは、読んだ人が誰でも認めるところであると思うが、一方で読了後の「落ち着かない感じ」も、多くの人が認めるところではないかと思う。それは、私自身が花時計をはじめとする愛国女性の本意が理解できなかっただけでなく、著者の二人も理解できず、戸惑ったまま筆を進めていたことにも無関係ではあるまい。

 この花時計だけが例外であるという乱暴な切り口は、私はしない。おそらく、ネトウヨは相当な世代に、性別を超えて広がっているのである。花時計は、その広がりの中の間欠泉のような存在なのだろう。それならば、この先も、花時計のような私の理解できない、戸惑いを感じるような愛国組織が出てくるのだろうし、いろいろ大変な世の中になっていくのだろうなと感じざるを得なかった。

 あとは、朴順梨氏の幼少期から成長までの話がいろいろ興味深く、「ここまでさらけ出していいのかな。ストリップより丸裸じゃん。」と思った。「朴さんって外国人なの?」「……そうだけど。」「すげえ!外国人なんてかっこいい!」のくだりは、なんというか吹き出しそうになった。無知ってホント怖いね。

 なお、北原みのり氏も共著者でいろいろ原稿を書いている。この本を読むまで北原氏のことは寡聞にして全く知らなかったのだが、ネトウヨ界隈ではあまり評判が良くない人だったらしく、その後はまとめサイトで「またみのりんがこんなことを言ってる」みたいな記事で何度かコラムを読ませていただいた。北原氏のオタク認識論はちょっと古いのと、バイアスかかってるように感じるのだけれど、もしお目にかかる機会があったら、「いろんなオタクがいまっせ!」という話をしてみたいとおもっている。


1/4
日本映画と戦争〜現実とファンタジーの狭間で〜

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

映画レビューコーナーにも書いたが(といってもこの原稿を書いている時点でまだレビューの原稿を書いていないので、書くことが前提で話を進める)、「永遠の0」を見てきた。
まだ見ていない人、これから見に行く人のためにもあまりネタバレせずに書こうと思うが、「永遠の0」は、VFXに関していえば文句なし、素晴らしい映画であったと思う。
また、俳優の演技にも文句はない。ただ、シナリオについては、ぬるい軍オタの突っ込みが出てきて楽しめなかった。たとえば、「普通、特務士官は殴れないだろ」とか、「真珠湾奇襲の段階で空母の重要性を見抜いてる下士官なんかおらんだろ」などのツッコミである。この辺の突っ込みに関しては原作の問題なので、監督と脚本に罪はない。個人的には、主人公を特攻に駆り立てていった狂気の描き方が足りなかった気がするのだが、その辺は見る人の好みによるだろう。

今回「永遠の0」を見て、私は一つの結論に達した。それは、「日本映画の描く戦争は、限りなくファンタジーである」というものだ。
ファンタジーというのは日本語に訳せば「おとぎ話」とか、「幻想」と訳するのだろう。対義語は「リアル」である。
こういうことを書くと、山崎貴監督をはじめスタッフからは「リアルに作った」と文句が出そうだ。確かにVFXはリアルだ。だが、ストーリーはファンタジーである。

日本映画が戦争を描くのは「永遠の0」に始まったことではない。
そして多くの人が薄々感ずいていることだが、日本映画が戦争を描く場合、だいたい「特攻」がテーマになる。
大ヒットした「男たちの大和/YAMATO」は、戦艦大和による沖縄特攻作戦がテーマだし、そのヒットに気を良くして作ったら転けた「俺は、君のためにこそ死ににいく」は、陸軍飛行隊の特攻部隊を描いている。(ちなみにいわゆる神風特攻隊は海軍の飛行隊で、この映画は陸軍飛行隊である。軍オタとしては押さえておきたい)
「出口のない海」は回天特攻隊が描かれているし、軍オタの中で黒歴史扱いされている「君を忘れない」は神風特攻隊の話である。
戦後50年に制作された「きけ、わだつみの声 Last Friends」では、仲村トオル氏演じる海軍士官は神風特攻隊として出撃するし、織田裕二氏はクライマックスで手榴弾を抱えたまま「トライ!」と叫んで敵陣に特攻し戦死する。
戦争映画としては完全にファンタジーだと割り切ってみる必要のある「ローレライ」は、宇宙戦艦ヤマトよろしく、潜水艦一隻で敵陣に殴り込みをかける映画である。主役の妻夫木聡氏は劇中「回天で出撃させてください」と、特攻をにおわす発言をする。

こういうと誤解を招く表現だが、日本映画は特攻が大好きである。
最近の戦争映画を見ると、ほぼ確実に特攻ネタが出てくるといっても過言ではない。

特攻は日本的な自己犠牲の具現化であるし、ある種のヒロイズムを連想させる。戦争映画にする以上、主人公をはじめとするメインキャスト全員が生き残るのはあり得ない。でもただ死ぬだけでは味気ないので、華々しく死んでもらう必要がある。そこで特攻の出番である。

映画というのは俳優をドラマチックに見せる必要があるから、そういう見せ方をすることに対して、難癖を付けようとは思わない。
ただ、特攻の描き方がどの映画もほとんど紋切り型で、見え透いてしまうのは難しい。

だいたい特攻を描く映画はこういう流れでストーリーが進行する。

特攻を命じる上官は無能であんまり葛藤がなく、主人公は特攻作戦に懐疑的で、「こんなものは作戦ではない」と思い悩むが、最終的に愛する家族や友を守るためにと腹を決めて出撃し、帰らぬ人になる。死ぬ瞬間、残された妻(あるいは恋人)は空を見上げて何か感じ取る。妻や恋人が主人公の名前をつぶやく。そして泣けるバラードの主題歌が流れてエンディングテロップ。

「永遠の0」は、ここまでベタベタではなかったが、基本的な流れは踏襲している。よくある特攻映画とまで言い切る気はないが、筋立てはよくある話である。
そして、このような描き方をすると、戦争というのはしばしばファンタジー化する。
よくリベラルな学者の中で、日本の若者は戦争をガンダムで知る、ガンダムはリアルな戦争ではないという批判が出るが、今時の戦争映画もガンダムと同じであり、舞台こそ史実だが、内容は完全なファンタジーである。

戦争映画がリアルではない、ファンタジーであるというのは、リアルに作ろうとしている作り手に申し訳ないが、戦争をリアルに描こうと思ったらもっと血みどろになるはずである。
たとえば陸軍による陸戦が描かれた日本映画といえば、「太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−」くらいだ。これは実話が元になっているが、これが映画になるのは、映画として成立する程度の死で済むからである。

私の祖父の兄はサイパン島で玉砕しているのだが、もし仮にサイパン島を描いたら映画になるか。ならないだろう。
あるいは祖父の従兄弟が戦死したガダルカナル島はどうか。主人公やメインキャストが赤痢と飢餓で次々死んでいくストーリーが当たるとはとても思えない。
陸軍を描くとなると、補給が続かないという話を入れないとリアリティに欠ける。しかし、リアルにやろうとすると凄惨な死を描く必要が出る。

そこで、飛行機である。あるいは、船である。
軍艦は沈没すればいい。沈没までの間にドラマチックなやりとりもできる。
飛行機は最後、特攻すれば華々しく死んだことにできる。敵艦に突っ込んだあと、火だるまになって焼死する場面は描く必要がないので、死が偽装される。
これが陸軍では、こうはいかない。
前出「きけ、わだつみの声 Last Friends」では、南方戦線が出てくるし、その映画では「人肉を食べた兵士」であるとか、看護婦に肉体関係を迫る悪質な兵士が出てくる。それはあくまでも要素であり、メインではない。そして南方戦線だけで2時間の映画は難しい。

かつての日本映画では、中国戦線を描いた「人間の條件」などをはじめ、戦争による死をヒロイックではなく、ストイックで、惨めなものとして描いてきた印象がある。
それは、スタッフもキャストも戦争を知っていて、「カッコイイ死などあり得ない」という前提条件が共有されていたからだと思われる。

現在はスタッフもキャストも、ほとんどが戦争を知らない。これを書いている私だって戦争を知らない。
だが、戦争について調べると、決してヒロイックなものではなく、凄惨なものだったことは分かる。
軍艦の場合、爆弾の直撃を受け、一握りの肉片しか残さず戦死した人の話を本で読んだ。
あるいは東南アジアで、戦闘ではなく飢餓と病で次々倒れ、帰ることなく逝った人の話を読んだ。
本物の戦争は決してヒロイックでも、感動的でもなく、美しくない。それが戦争である。
そして、それが映画としてドラマが成立するかというと、非常に難しいのである。

今の映画というのは、出資者を広く募り、「製作委員会」というのを組織して制作する。
もちろん、自主制作や、小規模なプロダクションなどは例外だが、大作映画はほぼ例外なく製作委員会が組まれる。
出資する以上、利益を出さないといけない。そのことを批判するつもりはない。
とはいうものの、かつての「人間の條件」のような、人間の本質に迫る、「リアルな戦争映画」というのは、今後作られないのではないかと思う。
つまり、この先日本映画が描く戦争というのは、ファンタジーであり続ける。
そして、そのファンタジーを見ただけで、戦争についてよく知った気になるような人も増えるのではあるまいかと危惧している。

もちろん、戦争映画が作られることを否定するつもりはない。
かつて命をかけて戦った若者たちがいて、彼らの犠牲の上に今の暮らしがある。そのことを再認識させてくれる要素があることを、否定しない。

しかし、その映画における戦争はあくまでもファンタジーである。
そして、ファンタジーと割り切ってみる分にはいいのだが、それだけで戦争を知った気になるのは危険である。

私はぬるい軍事オタクである。ぬるいのである。
おそらくコアな軍事オタクからすれば、貴様程度が軍オタを名乗るなとおしかりを受ける程度の軍オタである。
とはいえ、戦争について、ある程度調べたり、考えたりする程度は軍オタである。
その軍オタですらファンタジーと見抜ける戦争映画が、多くの観客から「リアルな戦争映画」と受け取られることに危うさを感じている。
それは、かつて若者の戦争がガンダムであることに懸念を抱いた学者と、同じ心境なのかもしれない。