hings We Said Today
〜今日の誓い〜
2 0 1 3
祝辞〜東京オリンピック〜 | |
「河野談話」と「村山談話」の活用提言 | |
「艦これ」ヒットの要因 | |
ネット右翼とプレカリアートの間で | |
楽園からの逃亡−オタクはやっぱり死んでいる?− | |
“ネット右翼”の歴史−その発生と拡大− | |
仁村弟,再び−僕が「しろはた」投稿選手だった頃− | |
「視点をずらす思考術」 |
誰に出すか決めてないけれど。そして、決定から時間が経ってしまったけれど。
東京オリンピック開催決定、おめでとうございます。招致関係者の努力と熱意には、敬意を表します。また、個人的な感情に限って言えば、私の住む日本が国際的に評価されたことですので、日本国民の一人として、うれしく思います。特に韓国のネトウヨ組織VANKが東京オリンピック招致に横やりを入れてきておりましたので、「ザマーミロ」という思いは確かにあります。我が国には、なかなか進まない東日本大震災からの復興、福島第一原発の原子力災害、増え続ける汚染水、レイシストによるヘイトスピーチ、宮崎駿監督の引退、みのもんた氏によるセクハラと次男の逮捕といった暗いニュースが影を落としております。一時期は五輪招致が危ぶまれるほどでしたが、今回このように招致成功となり、関係者の皆様の喜びもひとしおとお察しします。
今回の東京オリンピックの開催で、我が国ではますますスポーツが盛んになるであろうと考えます。私はスポーツするより映画を見てる方が好きな典型的インドア人間ですので、この国で脳筋や体育会系が幅を利かせ、体罰が是認され、スポーツ振興協会に不可解で謎の多い収入が増えることについてあまり快くは思っておりませんが、おそらく夢見る純粋でウブでけがれを知らない少年少女たちにとって、東京オリンピックはすばらしい夢となることでしょう。
また、前回の東京オリンピックから50年以上が経過し、道路・鉄道・橋脚・上下水道などのインフラストラクチャは耐用年数の限界が近付いております。増え続ける財政赤字の影響で公共事業の在り方が見直される現在ですが、オリンピックのどさくさに紛れて色々なインフラが更新されることと推察いたします。以前よりインフラの限界と更新の必要性を述べて参りましたので、このインフラの更新については大変喜ばしいと感じております。建設関係者をはじめとする財界の皆様方も、五輪特需による皮算用を今から始めていることと思います。原子力発電所の稼働が止まる中、どのように建設に使用するエネルギーを確保していくのか甚だ疑問ではございますが、五輪開催を理由に原発再稼働を押し切り、さらなる放射性廃棄物の問題や、第二の原子力災害が起きないよう、慎重かつ安全を第一にお考えいただければと思います。マスメディアの皆様におかれましても、不景気とインターネットの発達による広告収入が減少する中、大きなクライアントが確保されたことと思います。今後オリンピックについては、愛知万博の時のように、無条件で賛美されることと思います。私のように「ちょっと待てよ」という人々の声を吸い上げることもなくなるのでしょう。まさに日本が一つになる、全体化の進行であるとお喜び申し上げます。
さて、私の持論ですが、どんな物事にも光と影が存在していると思います。今回の東京オリンピック招致成功は喜ばしき光ではありますが、その光によって作られる影もまた、大きな影ではないかと思います。かつて長野オリンピックの時、招致するまでに使われたカネと、開催後の施設維持費といった問題は、未だ我々の記憶に新しい問題です。オリンピック開催までの経理処理は適切であったのか、またその支出の内訳はどのようなものであったのか、特に招致関係の費用は我々の税金であると思われますので、どうぞ国民に対して明らかにしていただけると幸いでございます。
また、安倍総理大臣のプレゼンテーションは良かったと思います。IOCの最終プレゼンテーションに総理大臣自ら乗り込むとは、名古屋オリンピックの頃には考えられなかったことです。オリンピックを何が何でも日本に呼び込むという総理の意地を感じました。しかしながら、福島第一原発の汚染水問題について、あれは果たして事実なのでしょうか。少なくとも東京電力は否定しております。原発港湾内で完全にブロックされていることには、疑問を感じます。また、すでに福島ではちらほらと甲状腺がんの子どもが報告されてきています。もちろん、そのことと原発事故の因果関係は不明です。しかし、総理大臣はあの時、「健康被害はこれまでも、これからもない。」と宣言されました。すでに健康被害が起きつつあると思われるのに、これからも健康被害は起きないと言うのは、果たして大丈夫なのか、心配になりました。以前ルーピーこと鳩山由紀夫元総理大臣が、温室効果ガス削減について安易な国際公約をして批判されましたが、今回の原発問題についての国際公約も、安易ではないかと批判されても仕方がない気がします。
とはいえ、開催までの7年間、戦争の危険性が回避されたことは喜ばしく思います。戦前の東京オリンピックが中止になった事実を考えれば、国際的な武力衝突を回避するよう、政府は努力する必要性があるでしょう。もちろん、「戦争には出られないだろう」と足元を見て、武力で威嚇されるようなことは、あってはなりません。そういった行いに対して、武力で報復するのではなく、毅然とした外交で論争を挑み、確固たる外交の筋を通すことが正道であると信じます。
オリンピックの開催は、私個人としては、喜ばしい面がある一方で、素直に喜べない自分もいる、複雑な心境でおります。単純に反対するではなく、盲目的に賛成するでもない、本当に複雑な心境です。しかし、決まった以上、「おもてなし」の心で世界の人々を迎えたいと思いますし、7年後までに様々な国内問題を解決できるよう、努力していく必要があると思います。きらびやかな看板に惑わされず、地道な政(まつりごと)が必要です。提灯行列の人波を見ながら、自分自身、2020年に向けて、様々な提言をしていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
敬具
追伸
2020年にオリンピックをやる以上、AKIRAの誕生は急がないといけませんが、いつ頃になりそうでしょうか?
今日のテキストの内容はタイトルだけで内容の99%を表している。表題だけ読んでも読んだ気になれるので,いつも「長い」とご意見を頂戴するテキストの中では,非常に良心的なテキストである。
悪名高き「河野談話」と「村山談話」は,私を含めたいわゆるネトウヨや,保守論壇より「破棄せよ」「修正せよ」と言われている談話だが,敢えてこの文章ではその談話を変えず,維持し,積極的に活用してはどうかと提言する。
この時点で「この非国民!」「売国奴!」「氏ね!氏ね!氏ね氏ね氏ね氏んじまえ〜黄色い猿めをやっつけろ〜」などとお叱りを受けることは間違いないのだが,これをお読みの皆さん,どうかその手に持った釘バットを私に振りかざす前に,どうかこの文章を最後までよく読んでいただきたい。
私自身,河野談話や村山談話が素晴らしい談話であるとは,これっぽっちも思っていない。自虐史観から生まれ出た忌み子であるという意見は賛同するし,撤回できるものなら撤回したらいい。ただ,物事には必ず良い面と悪い面がある。そして,これらの談話を撤回することにも,メリットとデメリットがある。私は今回,色々考えた末に,この二つの談話を逆に活用し,外交カードにするくらいの姿勢が必要ではないのかと提言したいのである。
さて,私の個人的な国家論としては,日本という国がこの先も平和で,安定して,発展していくことが大切ではないかと思っている。つまり,よくない状態としては,国が貧しく,社会が不安定で,国際的に孤立し,発展する見込みがない状態をよくない状態だと考えている。平和で発展していくという言葉を具体的にした姿は,それぞれ思想によって異なると思うが,色々な思想を調べる限り,「日本が破滅すればいい」という考えをもっている団体は,ショッカー大首領が率いた悪の組織ブラックサタンしか思いつかなかった。
では,河野談話・村山談話を撤回し,新しい談話を設定したらどうだろうか。これのメリットは,自虐的ではない,新しい歴史観を創造するきっかけになるということだろう。設定のプロセスでは,様々な議論が行われ,戦後日本社会を覆ってきた「平和ボケ」「自虐史観」に対して真摯に向き合い,新しい歴史観を打ち立てられる。まあ,国民の大半は歴史観よりも今日の経済が安定することを重要視しているので,ここまで熱を入れて取り組んで,果たして政権の支持率に繋がるかというと,ちょっと難しい。
では,撤回のデメリットは何か。まず,撤回した時点で中国と韓国はキレる。キレるだけならばいいが,両国とも国際会議の場で「日本は歴史を軽視している」「日本は右傾化している」「軍国主義に戻る気だ」などと主張するようになる。森達也氏は「日本は右傾化していない。集団化しているに過ぎない」と述べている。私も同感で,「右傾化」「プチナショナリズム」で事態を矮小化させる一部の有識者はもっと社会分析の感覚を身につけてほしい。ただ,嘘も100回言えば真実になるもので,中国や韓国が言い続ければ,いつしか「右傾化した国家」という色眼鏡で我が国を見られるようになる。それは,国際的な孤立を深める。
かつて戦争に突入した原因は,まず石原莞爾が暴走して満州事変を引き起こし,それがきっかけで国際的孤立を深めたことにある,国際的孤立は地域の平和と安定を危機に陥れる。単純に「屈辱的だから」などと安易に撤回して国際的孤立を深めることは,断固として避けるべき事態であると考える。
また,撤回の過程で様々な議論が行われ,政治空白を招く。このブランクは中国や韓国に付け入る隙を与える。特に韓国は,それを機に「日本はやっぱり反省してない」と,世界中で触れ回るだろう。それは我が国の著しいイメージダウンに繋がる。イメージだけで政治をするわけではないが,やはり,イメージは大切である。また,中国に付け入る隙を与えてしまうと,色々大変なことになる。私が撤回を避けるべきと言うのは特にこの部分で,尖閣諸島を巡って対立が続いている以上,ヘタに付け入れる隙を与えてしまうと,我が国としてはマイナスが大きいのではないのかと思うのだ。
では,どのように活用していくのか。まず「村山談話」である。この談話については中国側に毎回踏み絵のように「踏襲する」と宣言するのが恒例で,いわば中国側にとって外交カード化している。中国側に歴史問題という外交カードをいかに使わせないかというのは非常に大きな問題であるが,私はここで,敢えて村山談話を逆手にとって外交カードを封じてみてはどうかと思う。
つまり,「日本は歴史問題で謝罪と反省をしろアル!」といわれた場合「我が国は村山談話でちゃんと謝罪しましたし,今後も変えませんのでいちいち謝罪しません。」と突っぱねることができるのではないのか,ということだ。居直りではないかといわれるとその通りだが,「村山談話を踏襲します」というのを致し方なく踏襲するのではなく,堂々と踏襲して「だからいちいち文句を言うな」という方向にもっていくことは出来ないだろうか。
確かに,村山談話の内容には,非常に玉虫色で,解釈次第でなんとでも取れるような部分が存在している。それが中国側に付け入れる隙があることは否定しない。しかし,それを見直すよりも,「だからなんやねん。あそこで謝罪して,今後も引き継ぐ言ってるやんか。」という態度で出ることで,中国側を牽制できないだろうか。これまでは「侵略してきた」負い目から下手に出てきたが,これ以上下手に出る必要はないと思う。主張するべきことは主張し,断るべき要求は堂々と断る。そういう筋の通った外交をするべきだと考える。そのために,敢えて村山談話を活用してはどうかと考えるのだ。
「河野談話」についても同様である。私は,戦時中の従軍慰安婦について,少なくとも日本政府の関与はなかった,あるいはあったとしても非常に限定的だったと考えている。おそらくは,軍部の独断で決定している。
そもそもなぜ従軍慰安婦かというと,占領地でレイプをする兵士がいたことだ。これは日本に限らず,他の国でも起きている。従軍慰安婦ができた後も,そういうことはあっただろう。ただ,強姦というのは軍規で禁止されている。つまり,そういうことが発覚すると,いちいち軍法会議だの査問だのやらねばならない。軍規を守るという一点のために,従軍慰安婦は作られた。いいか悪いかではなく,そういう事実がある。もちろん,レイプがダメで,慰安婦がOKなどとは思わない。どちらもよくない。戦争が悲劇であるゆえんである。綱紀粛正は政府が関与することではなく,軍部が内部で決定することだ。もちろん,当時は軍国主義だから軍部=政府だと言われれば政府なのだろうが,軍部と政府は厳密には異なるものであるし,閣議等で決めるような,重要な案件ではない。つまり,女性の人権意識はそれくらい軽んじられていたと言える。
強制連行については,いわゆるトラックに乗せて拉致…ということがあった可能性は否定できない。もちろん,他にも色々な方法で(たとえば看護婦募集とか)女性が集められたことがあっただろう。また,東北の貧農家庭の娘は,遊女にせざるを得なかったという話を聞いたことがある。当時の朝鮮半島は日本のインフラ投資で以前に比べて豊かになり,人口が2倍になったが,入植した日本人と,土着の朝鮮人の経済格差が解消されているとは思えない。つまり,貧しい朝鮮人家庭の娘は,キーセンにせざるを得ないような経済状況だったと推測する。そういう状況では,性奴隷になるとは分かっていても出さざるを得なかっただろう。あるいは,拒否すれば村八分にされるとか,そういう見通しの暗さも応ぜざるを得ない証拠であろう。
この前東京に旅行に行って,神保町で風俗で働く女性にインタビューした本を見かけた。高かったので結局買わなかったが,学校や社会からドロップアウトしたとか,貧困,人の嘘を見抜けない悲しい愚かさからそういう仕事に身をやつしている人ばかりだった。「楽して金が稼げるから」従事している人は誰もいなかった。戦前も同じであろう。
もちろん,従軍慰安婦だったと証言している女性の中には,証言に矛盾があったり,年齢がおかしかったり,「この人は本当に慰安婦だったのか」と疑問に思う人がいる。ネトウヨで言う「自称慰安婦」というやつだ。これについては,たとえば従軍看護婦に従事していたが,結果的に強姦されてしまったという人もいるだろうし,反日組織がそういう人を仕立て上げた,あるいは単純なカネほしさ,色々な可能性が推測できる。日本だって「レシートなくても肉を買った人に返金します」としたら,売った金額の4倍くらい返金したという話がある。(詳しくは「西友 肉 返金」で検索)ここからカネが取れるとなれば,そういう話になるのはどこでも一緒である。
「河野談話」については,これまた国家への関与や強制連行の可能性について,玉虫色の文言に終始している。日本はこういう玉虫色の言葉が好きである。かつて作家の三島由紀夫氏が大蔵省(当時)に入省した際,文章がうまいからという理由で官僚の答弁を書かせたところ,玉虫色の文言ではない(白黒はっきりさせる)という理由で没になったという話がある。これが韓国に付け入る隙を与えているのではという指摘は確かに正しい。
ただ,河野談話については,村山談話とかなり性質が異なる。まず,従軍慰安婦への補償というのは,個人請求であるということだ。個人への賠償請求権は日韓基本条約で消滅している。それについて文句を言うならば,文句を言う相手は日本ではなく,パク・チョンヒ元大統領である。
そういうことを言うと,慰安婦支持の人は「あの当時は明らかになっていない問題なのだから,仕方ないではないか」と言われるが,仮にあの当時明らかになっていたとしても,パク・チョンヒ元大統領は個人請求権を放棄して,日本から経済支援を引き出す方に回ったと思う。また,そういう後出しジャンケンがOKなら,日本側だって終戦前の日本人資産を返してくださいとか,すべてOKになってしまう。そうなれば外交どころではない。そういう後出しジャンケンも含めてチャラという性質が日韓基本条約にはあった。
ただ,それで突っぱねるわけにも行かなくなったので,当時の日本政府は河野談話を閣議決定し(ここでいう河野さんとは河野太郎氏ではなく,その父親の河野洋平元官房長官である),税金を投入してアジア女性基金を作り,限りなく公的賠償に近い民間レベルの賠償を行った。そして実際,そのアジア女性基金から賠償金を受け取った従軍慰安婦もいるのである。
つまり,河野談話とその後のアジア女性基金というのは,日韓基本条約の枠組みを壊すことなく,従軍慰安婦の個人賠償に応じたという,非常に高度な政治的妥協であった。この制度については,ネトウヨ諸子にたいへん評判が悪いが,私はこの枠組みの政治的打算は見事であると思っている。
では,なぜ,まだ問題が残っているのかというと,アジア女性基金からの金を受け取らなかった人々が騒いでいるのである。つまり,民間基金ではなく,日本政府からカネよこせと言うことだ。面子にこだわる韓国人らしい反応だとか,盗人猛々しいとか,色々考えるが,こういう高度な政治的妥協をしても話が通じない人がいるというのは残念である。
私が河野談話を活用すべきと言うのは,こういう高度な政治的妥協をし,慰安婦に対して支援の手を尽くしてきた日本政府の現状を,多くの日本人が知らないということが理由である。おそらくネトウヨも河野談話やアジア女性基金が高度な政治的妥協の産物とは思っていない。まして韓国の人も,世界の人も思っていない。韓国のネトウヨ組織VANKは従軍慰安婦問題について,「日本政府は公的な補償をしていない」と世界中に喧伝し,我が国の名誉を毀損する活動をしている。これに対して,我々ネトウヨは「ちゃんと俺たちは謝罪も賠償もした」というメッセージを世界に送っているのか?という疑問がある。
つまり,河野談話を敢えて肯定的に捉え,それを広めることで,日本国内や世界全体に広まった誤解を解く活動をすることが,河野談話を撤回するかどうか議論するよりも,生産的な活動になる可能性が高い。確かに従軍慰安婦問題では,日本が悪い。今ならティッシュとDVDで済む話を,女性の人権を侵害して解決しようとした。だが,すでに解決の枠組みを提示しながら,応じない韓国人慰安婦や,政治的妥協を認識しない韓国政府にも問題がある。そういう日本の立場を国際社会で説明し,理解してもらう努力を我が国は怠っている。
かつて「ここがヘンだよ日本人」にて,タレントで現駐日ベナン国全権大使ゾマホン・ルフィン氏は,植民地支配や歴史問題について,真摯に向き合い謝罪をした国は,日本しかないと指摘している。それは,欧米によるアフリカ支配の謝罪が一切ないことを念頭に置いたものだ。これについて,ネトウヨはしばしば「敗戦国故の屈辱だ」と捉えがちだが,私は敢えて,国家としての誇りとし,それを世界にアピールしてはどうかと考えている。少なくとも中東やアフリカは日本に対し,好意的な印象を抱くはずである。
このように,河野談話,村山談話ともに,活用次第では日本の大きな武器になることが考えられる。変える,変えないと言った非生産的な議論ではなく,いかに活用し,日本の国際的立場を得るか,考えていくことが必要ではないかと感じている。
1ヶ月ほど前,友人に勧められてブラウザゲームに登録した。それが「艦隊これくしょん 艦これ」である。8年前,大学で模型サークルを主宰していた折り,軍艦のプラモデルを作りまくったため,軍艦に対する思い入れが多少有り,始めてみた。これがなかなかはまってしまう。
ゲーム性というものは,ないに等しい。一応,砲戦→水雷戦→夜戦というルールや,轟沈したら帰ってこないというシステムは面白いが,どの軍艦に攻撃を加えるか自分で選べないし,ゲームシステムに斬新さを感じない。グリーとかモバゲーのカードバトルに近いシステムで,「こんなゲームに血道を上げる人がいるのか」と思っていた自分が「こんなゲーム」に血道を上げているわけで,全く人のことを笑えなくなった。
ああいうゲームシステムなので,プレイ動画を見た人の中には「どうしてこの程度のゲームがこんなにヒットするのか」懐疑的な人もいると思う。実際,自分自身プレイをしながら「どうしてこんなに熱中しているのか」要因を分析してみた。その結果をまとめてみる。
まず,大ヒットした最大の理由は,「艦これ」はニッチ系ゲームである,ということだ。ニッチというのはしばしば否定的なニュアンスで受け取られる。万人向けでないとか,あまり売れないとか,そういうことだが,「艦これ」は逆にターゲットを絞り,大ヒットした。ターゲットとなったのはいわゆるオタク族である。特に萌え系のオタクと,軍事オタク,メカオタクである。オタクというのは乱暴な言い方をすれば,美少女キャラクター系オタクと,軍事やロボット,鉄道などのメカフェチ系に大別されるわけで,艦これの場合,鉄道オタクには受けないだろうが,オタクの8割くらいに訴求する要素が存在している。私の場合,プラモデルで軍艦になじみがあった。ガンダムから入ってきたぬるい軍事オタクである。「世界の艦船」は敷居が高いが,「艦これ」は敷居が低いわけである。この「敷居の低さ」は,他社モバゲーやグリーもそうだが,重要なポイントである。
次に利用者が増えた理由が,出てくる艦船を「育成する」という楽しさを感じさせたことだ。よくRPGで「レベル上げ」という話がある。アイテムを買うためにお金を貯める人もいるが,RPGは基本的に育成ゲームである。日本人は育成ゲームが好きである。「艦これ」は,ある程度レベルが貯まると,キャラクターを「改造」することができる。その際,それまでパワーアップ(近代化改修)した値はリセットされる。つまり,とっとと改造レベルまで上げた上で,パワーアップさせないと無駄になるのである。ユーザーの中には攻略も大事だが,キャラクターの育成や収集に主軸をおいたプレイをしている人もいるだろう。グリーやモバゲーでも「レアカードがもらえる」みたいな広告をしていたが,射幸心をあおるような部分がこの手のゲームには必要なのだろう。
課金要素が少ないことも,ヒットした要因としてあげられる。利用者の少ないゲームの場合,収益を上げようとするあまり様々な課金要素を組み合わせるし,実際これまでブラウザゲームというのは課金要素が多いゲームが良いとされてきた。課金要素をできるだけ排除したゲームシステムは,発想の転換であって,なかなか面白いアイデアである。私は先ほど艦これのゲーム性は低いと述べたが,課金収入をあえて絞った部分についてだけは,商売がうまいと認めている。
しかし,それ以上に売れている要素,それは「旧日本海軍の軍艦」に絞っているからではないかなと思う。これまでも,美少女キャラクターと軍事要素を組み合わせた作品が生まれている。たとえば「ストライクウィッチーズ」だとか「ガールズ&パンツァー」などである。それらはアニメーション作品であって,ゲームではない。ニッチ層にはヒットしたが,大きなムーブメントを獲得したとは言い難い。この違いは何か。
「ストライクウィッチーズ」「ガールズ&パンツァー」と「艦これ」の違い,それは,世界を含むか,日本だけかの違いであると考えている。3作品とも第二次世界大戦当時の兵器が出てくるのだが,前者2本がドイツ軍などが含まれるのに対し,「艦これ」は日本軍だけである。また,前者は戦闘機と戦車である。戦闘機と戦車は量産される。一方,軍艦はその名を冠する艦は唯一無二である。私は,「艦これ」ヒットの要因について,この「日本だけ」「唯一無二」というのは大きなポイントであると考えている。
日本海軍の艦船というのは,駆逐艦雪風という奇跡的な例外を除き,ほとんど全ての艦船が悲劇的な結末を迎えている。海軍の艦船で悲劇的というと,しばしばドラマで描かれる戦艦大和の特攻作戦を思い浮かべる人もいるだろうが,史実を調べると大和に限らず,多くの軍艦が沈没し,乗組員の多くが英霊として靖国神社に祀られている。
この「滅びの美学」が,無意識のうちに受け入れられているのではないか。もちろん,戦車や,戦闘機も滅びの美学を感じられるが,軍艦のようにいつ,どこで,どのように,なぜ沈んだのかまで,事細かに記録されているわけではない。戦車や戦闘機は名もなき兵士の墓標であるが,軍艦はその名が歴史に刻まれた,英雄の墓標なのである。
寂滅というか,死に対する美意識は,昔から日本人の琴線に触れるテーマである。大学の頃読んだ論文に,太平記と三国志演義を比較したものがあったが,三国志演義では,主要登場人物の初登場シーンはかなり仰々しいものになる一方,その人物の死についてはかなりあっさりと触れられるのみだそうだ。太平記はというと,初登場はかなりどうでもいい扱いのキャラクターでも,死ぬ場面になるとかなり華々しく扱われる。学生の頃,中学だったか高校だったかの古典で,平家物語における平敦盛討ち死にの場面を習ったが,あれも死が描かれている。日本的な美意識の中で,滅び行くものに対する美学というものは,なにか,アンタッチャブルな美しさを感じさせるのである。
艦これの元になった軍艦は皆,歴史の荒波の中に消えた。奇跡の駆逐艦雪風も,嵐には勝てなかった。しかし,その艦と,乗組員が守りたかった日本に私たちは生きている。艦これをプレイするとき,その艦と乗組員に思いを馳せる人はきっと少ないだろう。だが,多くの人が「死」や「寂滅」という言葉に代表される「美しさ」から,崇高な思いの一片を感じている。だからこそ,このゲームはヒットしていると考えているのである。
ここ数年,旅行は日帰りばかりだったのだが,珍しく泊まりがけで旅に出た。元々は,東京に泊まりがけで出かける用事があって,8月10日(土),11日(日)の1泊2日が確定。これは仕事絡みの出張で,全く遊びの要素がない。コンバット越前ではないが,「せっかくだから」もう1泊しようかと宿の予約を延長したところで,Twitterでフォローしているジャーナリストでノンフィクション作家の安田浩一氏が8月12日(月)の夜,下北沢でイベントをするという一報が飛び込んできた。これに参加すると当然ながら終電の新幹線には乗れない。もう1泊する必要がある。どうしようかと思ったとき,直感的に「これは参加すべし」と思った。迷わず宿をもう1泊予約した。美術館巡りをするのにも,もう1泊しなければいけなかったのでちょうどよかった。
下北沢のイベントの正式なタイトルは「団塊ジュニアですが何か?〜ネット右翼とプレカリアートの間で〜」というものだ。出演は安田浩一氏と作家の雨宮処凛氏。安田氏についてはストーカーといっても差し支えないほど原稿をフォローし続けているが,雨宮氏の著作はほとんど読んでいない。それでも「これは面白そうだぞ」と思ったので参加することにした。
安田氏の新刊「韓国のホンネ」と「ナショナリズムの誘惑」は,購入したものの,半分くらいしか読んでいなかったので行きの新幹線と,ホテルの中で読んだ。これで全部読んだと思って下北沢のイベント会場(本屋だった)についたら,最新刊が置いてあった。安田氏は商売っ気が少ない方で,Twitterで最新刊のPRをあまりされない。「韓国のホンネ」も,「ナショナリズムの誘惑」も,Amazonのメールで知った。今回も「ああ,出たのか」と思ったし,「もっと本をPRすれば,ちょっとは売れるのでは」とも思った。とはいえ,私を含めネトウヨに色々気持ち悪いリプを送られている手前,なかなか宣伝しづらいのかもしれない。
ここまで読んでもらってなんだが,イベントでどういう話があったかについては,詳細に書くつもりはない。むしろイベントと,そのあとなぜか安田氏と関係者と飲みに行くことになり,そこで話をしたことについて考えていこうと思っている。
安田氏と雨宮氏の話題は,まず雇用の流動化(というか非正規化の進行)についての話から始まった。1995年に日経連(今は経団連と一緒になった)が,「新時代の『日本的経営』」という提言を発表し,それまでの終身雇用・年功序列といった雇用体制を見直すようになった,というものだ。貧困問題に興味があったし,そういう旧来の雇用体制を転換していることは知っていたが,その提言が1995年だったとは不勉強で知らなかった。これには驚いた。
私に大きな影響を与えた作家といえば,『ノストラダムスの大予言』の五島勉氏…だけでなく,作家で映画監督の森達也氏がいるのだが,森氏が日本社会の転換点として指摘しているのが1995年なのである。森氏の指摘する転換のきっかけは,オウム真理教による地下鉄サリン事件をはじめとするテロ事件と,阪神・淡路大震災だ。特にオウム事件以後,森氏は「日本社会の集団化が加速している」と再三指摘している。
この「集団化」というのは現代社会を読み解く上で非常に大きな鍵である。半年くらい前に図書館でアムネスティが出している死刑廃止の提言を見かけて,どういうことが書いてあるのかと読んでみた。私はネトウヨだし,死刑廃止には反対の立場を取っている。どうせ冤罪がどうのとかそういう話なのだろうと思って読んでみたら,ちょっと違った。アムネスティの死刑廃止論が一般的な死刑廃止論なのかどうかはわからないが,アムネスティの目指す社会というのは「多様性社会」であり,重い罪を犯した人々も赦し,ともに社会で生きられることが理想なのだという。もちろんこれは「キレイゴト」に感じられるし,「じゃあそいつに殺された,生きたかった人の思いはどうなるんだよ」という反論が起こりうる。
集団化というのは,異質なものを排除する,純化しようとする行動である。死刑廃止反対というのは,「犯罪者」というマイノリティを社会的に排除しようとする動きである。死刑廃止論はオウム事件以後,この日本で急速に支持を失った。死刑廃止を訴える人は「じゃあ麻原(松本智津夫死刑囚)も生かせというのか」という反論に声を失った。それから20年近くが経過し,死刑適用の要件はかなり緩和され(30年前なら無期懲役だった事件で死刑になる人が増えている),厳罰化も進んでいる。
ネット右翼の主張である「在日はみんな死ね」に共感する人は少ない…と思いたい。ただ,もしも在特会が「在日を叩き出せ」ではなく,「在日コリアンはみんな帰化しろ」という主張だった場合,ここまでアンチ・ムーブメントが盛り上がったかどうか疑問が残る。日本人の集団化というのは,つまり同質化への強制であり,帰化=同質化という主張は,排除以上の説得力を持つ。
この集団化が加速するきっかけとなった1995年に,非正規雇用の推進に舵が切られ,そして日本は戦後50年を迎えた。後世の歴史家が現代の日本をどのように評価するかは分からないが,今の段階でこれほどまでに転換点だったと思えるのならば,後世においても転換点と評されるに違いないと思う。
そして非正規化の進行から,どうなったかというと,日本の社会はすっかりプレカリオ(不安定な)状態になった。刑法犯罪の認知件数は毎年低下している。もちろん,「警察が仕事をしてないから,自殺で処理してるのでは?」という疑念もあるが,殺人や強盗は犯罪統計学の中では非常に少なくなっている。そういうことを述べると「そんなことはない,外国人による犯罪が数多い」「少年による犯罪も多い」と言われる。確かにそういうイメージを抱くし,ひったくりをはじめとする窃盗や,組織的な窃盗団,特殊詐欺の被害が多いことは否定しない。私が言うのは,殺人事件の話である。
殺人事件が実際は減っているのに,ちっとも減っている実感がもてないのはナゼか。毎日「相棒」の再放送が流れているから…ではなく,日本社会の不安定さと,それにともなう「理解できない犯罪」の存在が大きいのではないかと思う。非正規雇用労働者の犯罪といえば,真っ先に思い浮かぶのが秋葉原無差別殺傷事件だ。加藤智大被告は非正規労働者であり,大きな孤独感や疎外感を抱いていたことは疑いがない。その孤独感や疎外感から,あの凄惨な連続殺人まで,非常に大きなスキップがあり,結局どうなったかというと「加藤被告は発達障害ではないのか」という,被告本人の問題に転嫁するような言説である。(もちろん発達障害だろうと非正規労働者だろうと殺人を犯していい理由にはならないし,加藤被告にはそれなりの刑事罰が下されるべきである。)
この「プレカリオ」の進行は,ルサンチマンの増加が伴う。作家の本田透氏は『萌える男』の中で,ルサンチマンが増加して自己に向かうと自殺し,他者に向かうと殺人になること,日本人は真面目なので自己に向かう人が多く,自殺者が年間3万人を超えている現状はルサンチマンの増加と無縁ではないことを指摘している。このあと本田氏はルサンチマンの救済としてオタク的な生活と「萌え」を主張し,それで救われると主張している。近年秋葉原を中心にオタク的な存在が社会的に認知されつつあるが,こういうプレカリオからの逃避としてオタク趣味に没頭している人は,やはりいると思っている。
こういったプレカリオな人々,非正規の人々は社会の一部が望んで生み出されたものだが,社会はこういう人々に非常に冷たい。雨宮氏が「たかじんのそこまで言って委員会」に出演された際,非正規労働者の窮状を訴えたところ,自民党の鴻池祥肇(よしただ)参議院議員が「自己責任である」と一蹴している。この自己責任論は社会的にかなり大きな勢力をもっていて,橋下徹大阪市長もそういう立場をとっている。確かにろくすっぽ勉強せず,毎日遊びほうけて,就職は親のコネとか,周防正行監督の映画『シコふんじゃった。』の本木雅弘氏のようなキリギリス的な人ばかりならばそういう自己責任論は一定の説得力をもつ。ところが,非正規雇用の人の現状を著したルポを読むと,自分から勉強しなかったのではなく,物理的に勉強できなかった環境の人も数多い。むしろ,そういう人の方が多いのではないか。そして,そういう非正規労働者の一人だったのが在特会(在日特権を許さない市民の会)の会長,桜井誠(本名・高田誠)氏である。
私はネトウヨであるが,在特会を支持していない。安田氏の『ネットと愛国』だけを読むと,ネトウヨ=在特会と勘違いする人がいそうだが(断っておくが安田氏はネトウヨ=在特会とは述べていない),在特会を支持しないネトウヨもいる。問題は,在特会の主要な構成員に,非正規労働者が数多くいると言うことである。在特会に関しては,構成員が中学生から,お年寄りまで数多くいるし,非正規労働者ばかりでなく,公務員や正規の会社員がいることが指摘されている。ただ,メインで活動している人の多くは,非正規労働者だ。大まじめに在日外国人排斥を訴えながら,その実態は電気料金の支払いにも不自由しているほど貧しい人もいる。雨宮氏,安田氏ともにこういう非正規労働者が,ある人は民族派に出会い,ある人はプレカリアートに出会い,ある人は在特会に出会うという,「根源の共通性」をイベントで指摘した。
こういう人々に共通する「奪われた感」をキーワードとして安田氏は挙げている。在特会は社会が在日コリアンに支配され,領土が中国や韓国に簒奪され(ロシアが含まれない理由については後述する)ているという「奪われた感」から行動しているという。この「奪われた感」は団塊ジュニア世代を読み解くキーワードであるという。私の場合,団塊ジュニアではない(1982年生まれ)なので,特に「奪われた感」はない。
その後の飲み会で,「団塊ジュニア世代はゼータガンダム見てて,僕の世代はエヴァンゲリオン見てたから,そういう認識の違いはあるかもしれない」という痛い発言をした。だが,今考え直してもあながち間違いではない気がする。「機動戦士Zガンダム」は,世代間のギャップが描かれていた物語だ。最終回,前作のメインキャラクターであるシャア・アズナブルは主人公カミーユ・ビダンに対し「新しい時代を作るのは老人ではない!」と叫び,カミーユに新しい時代の建設を託そうとする。ところが,カミーユ自身は激しい戦闘の負荷に耐えきれず,精神が崩壊してしまうのである。この時点ではオウム事件も,日経連の提言も起きていないが,富野由悠季監督自身の「この先の社会」を洞察した結果であると思う。
「新世紀エヴァンゲリオン」はどうか。こちらは,世界を救う使命を任された主人公・碇シンジは,結局「誰も僕のことを分かってくれない」とすべてから逃避。最終回,世界が破滅する様を指をくわえて見ていることになる。世代とか時代ではなく,自己の内面との対話と,逃避が描かれていた。私と同世代の人間が「どうせ選挙に行っても…」と,ものすごくシニカルな見方しかできないことには,こういう世代的な空気が無縁ではあるまい。したがって,安倍晋三首相のキャッチコピー「日本を,取り戻す」は,「奪われた感」のある人々にはものすごく響いたが,私と同世代の人を見るに,そこまでヒットしたわけではない。(ただし,それでも民主党がひどすぎたので,多くの人が自民党に入れてた。あのキャッチコピーへの共感という意味である)
ただ,冷静に考えれば,私は一応正規の仕事をしている。仕事をしていて,叱られることもあるし,自信を失いかけたこともあるが,仕事そのものにはやりがいを感じている。それが,もしかすると,いわゆるネトウヨとの決定的な違いかもしれない。もしも,仕事がプレカリオ(不安定)で,生きる希望が見いだせず,自分が悪いとも思いたくないとき,「悪いのはすべて在日コリアンと民主党である」と言われれば,おそらく信じてしまっただろう。
何かに責任を転嫁したいだけであって,それが事実かどうかは彼らにとって大きな問題ではない。実際,ネトウヨの中には,不勉強な人がいる。従軍慰安婦についての「河野談話」は,河野洋平元官房長官の名前で内閣が出したものだ。ネトウヨの中には,この談話を河野氏の息子・河野太郎氏が個人で出していると勘違いし,Twitter上で「河野談話を撤回しろ」と迫っている人がいる。あの談話は内閣が出したものだから,河野太郎氏に文句を言うのは筋違いも甚だしい。
安田氏と飲みながら(といっても私は酒が飲めないのでウーロン茶だったのだが),安田氏が在特会に異常に絡まれる理由について,自分なりに述べた。ネトウヨや在特会は,レイシストとか,人種差別主義者と非難されることについて,あまりダメージを感じていない。これはイベントや著書で安田氏も述べているが,「人種差別はいけません」は,よい子の言説なのである。在特会は最初(はな)っからいい子であろうなんて思っていない。悪いことをしていると分かってやっている。私は在特会の動画は,あの朝鮮学校襲撃事件しか見ていない。ああいう物言いがいいか悪いかなんて,ちょっと考えれば分かることだ。「朝鮮人なんだ,それくらい言ったってかまわないのだ。」「そもそも,我々は朝鮮人に虐げられているのだ。だから,ああいう物言いは正義なのだ。」という論理だ。ところが安田氏は,『ネットと愛国』の中で,在特会の主張に根拠がないこと,在特会の構成員の大半が不勉強であり,よりどころがないことを指摘した。ネトウヨが「ネトウヨ」と言われることをいやがるのは,ネトウヨというのが「不勉強」だとか「ばか」というニュアンスを含んでいることだ。私は不勉強であることは問題ではなくて,不勉強を自覚しながらそれを放置することが問題であると思っているが,在特会の人々にとって,「お前,拠り所がないよね」という指摘は,アイデンティティの崩壊を招きかねない。今まで拠り所だった「朝鮮人は悪」という構図が崩壊すると,この先自分は何にすがって生きればいいのか分からなくなる。アイデンティティの崩壊は恐怖である。だから,安田氏や,彼に連なる在日コリアンに対し,気持ちの悪いメンションが送られるのである。
こういう問題に対して,解決の方法はあまり多くない。結論から言えば,安定した雇用を増やし,所得を上げ,社会的な安定感を増やすことしかない。また,多くの人々が自発的に学び,様々な嘘や陰謀を見抜き,よりよい社会を生み出す努力が必要だ。
在特会そのものは,金儲けを目的としない組織の寿命は,せいぜい10年なので,もうあまり長くない。ヘイトスピーチもより過激化しているし,このままでは現行法の名誉毀損が成立するレベルだ。オウムもそうだが,過激化して触法行為を働けば,組織は一瞬で瓦解する。ただ,在特会はなくなっても,新しい在特会は生まれる。ショッカーが壊滅してもゲルショッカー,デストロン,ゴッド,ゲドンなどが生まれたように,新しい在特会が生まれるだろう。
新大久保の過激行動にしてもそうだ。イベントの前の日,ふと思い立って新大久保の駅前を歩いてみた。新大久保というのは有名なコリアン・タウンだとは聞いていたが,実際に歩いてみるとなるほど,すごいコリアン・タウンだ。名古屋にも大須商店街に韓国ショップがいくつかあるが,ここまで集中的なものではない。街を歩いていれば,すぐ後ろからハングルのイントネーションが聞こえてくる。ある店にはいると,店主らしい,50歳を過ぎた中年の男と目が合った。たがいに黙礼をする。在日コリアンだなと感じた。
なるほど,日本を感じられない場所である。道の左右にハングルの看板が立ち,コスメやスターショップが流行っているのを見ると,日本の女性が奪われているようにも錯覚するし,「ここは日本なのに」という違和感が全身を支配する。違和感を感じたとき,外部に原因を求めるとき,時として排除や,破壊衝動を感じる。「破壊なくして創造なし」というのは冗談だが,在特会の破壊衝動は理解できた。
もちろん,竹島奪還を新大久保で叫ぶのは筋違いである。韓国大使館前で叫ぶべきことだし,むしろ自民党の党本部前でやった方がいい。竹島問題については,結局国際司法裁判所への単独提訴は見送られた。今後もしばらくは提訴されないだろう。好意的に見れば外交カードとして温存しているのだが,むしろ「韓国との決定的な対立は避けたい」日本政府の思惑が透けて見える。
安田氏はネトウヨについて,政治的感覚がないことを指摘したが,全くそうだ。政治とは妥協の産物である。どこで妥協するかなのだ。そして領土問題において,妥協は双方あり得ない。だからややこしいし,戦争にもなりうる。竹島と尖閣諸島は,島そのものはたいしたものではないが,それに伴う海洋権益と資源に大きな意味がある可能性がある。可能性である。あるかどうかもまだ分からない。あるかもしれないからケンカしている。
安田氏は飲みながら,ネトウヨはロシアをどう思うか尋ねてきた。その場ではうまく答えられなかったが,その後色々考えていて,自分なりに納得のいく結論が出た。
ロシアが好きなネトウヨというのはあまりいない。北方領土が奪われた経緯を知れば腹も立つし,プーチンはカッコイイが,彼のやり口は気に入らない。ただ,ロシアというのは,日本国内に対して強硬姿勢に出てこない。それは当然で,ロシアは日本に侵略されたわけではない。日露戦争で多少の領土を失ったが,第二次世界大戦で取り戻している。したがって,「謝罪と賠償」ということは基本的に言わない。また,靖国神社参拝についても,文句を言わない。
それ以上に大きな理由は,ロシア人の不可視性である。新大久保を歩けば,在日コリアンを多数見かける。今回の東京滞在中,お台場へは2回行ったが,中国人旅行者をそこそこ見かけた。コンビニの店員は中国人か韓国人か,「金」や「張」という名札がついていた。すぐ側に韓国と中国の存在を感じられる。ロシアの存在は,それこそ小樽や新潟でもなければ感じられないのである。
結局,目に付くところ(手近なところ)に文句を言っているだけなのである。北方領土すべての面積と,竹島・尖閣諸島ではどちらが広いかなんて,考えるまでもないことだ。それよりももっと広い土地が原子力災害によって喪われている。しかし,なぜか在特会は原発推進である。そう,手近なところが文句が言いやすい。一応民主的な方法で大統領を選出している韓国と,なんだかんだ言いながら独裁政権を樹立している中国では,中国の方が悪質性が高いはずだが,結局目の前にいるのは在日コリアンだ。文句を在日コリアンにぶつけてしまう。
こういうことを述べると,「テメエ,ネトウヨか?」と非難されそうだが,私はれっきとしたネトウヨである。ちゃんと東京滞在中靖国神社に参拝し,遊就館も(3回目の)見学してきた。靖国神社参拝については,中国や韓国の反発について,全く根拠がない。A級戦犯だからというが,それを決めたのは戦勝国である。まあ,戦後死んだ人間が戦死者として祀られることに違和感がないわけではないが,靖国神社に眠る神々のほとんどは,国に命を殉じた英霊である。そういう英霊への思慕を外交カードとして使ってくる特定アジアの国々に対して,私は憤りを感じる。
ただ一方で,今回遊就館で,小学生くらいの子どもが「中国は最近調子コイてるな」という物言いをしていて,「うーむ」とも思った。ネット右翼がこの社会で市民権を得ているとは全く思わないが,日本全体で「ガンガンいこうぜ」みたいな空気が増えている気はする。それを「右傾化」というシンプルな言葉で矮小化する気はないが,このままプレカリオが広がる場合,こういう物言いも増えていくのかもしれない。
最近,ここで書く話が真面目な話ばっかりで,自分でも「うーむ」と思う。元々ここはオタクサイトで,オタクネタがメインだったはずなので,昔ながらの読者さんは面食らうかもしれない。自分の中では,「俺の興味のある話は何でもやる」というスタンスなので,立ち位置が変わったわけではないと思ってる。気を悪くされた方がいるなら,申し訳ない。
別に今日思ったわけではなくて,ここ2週間くらいかな,特に思っていることがある。私はオタクであるけれど,オタクをやっていて,楽しいと思える瞬間が減ってきた気がする。
ここではっきり断っておくが,オタク同士でつるむのがイヤになったわけではない。オタクに限らず,気の合う人と話をするのは誰だって楽しいと思う。私が「楽しくない」というのは,一人で道を究める,「オタク道」みたいな,求道者的な話である。
極端な話をしてしまうが,インターネットの発達は,オタクにとって楽園であるはずだった。インターネットとオタクの親和性は私が指摘するまでもなく,多くの有識者が指摘している。実際,自分もついこの間までは「ええ時代になった」と喜んでいた人間である。
インターネットの発達で,情報が非常に得やすくなった。たとえばWikipediaである。Wikipediaの日本語版は,オタクネタが非常に多いことで知られている。こう言ってはなんだが,ヘタなファンサイトよりWikipediaを見た方が早いという現実がある。もちろん,真偽の怪しい情報もあって見極めは必要だが,たとえばアニメのサブタイトルリストなんかは,Wikipediaの方が早い。特撮もののサブタイトルリストを掲載している有名なウェブサイトがあったが,ここ数年更新が止まっている。自分もファンサイトを運営しているから分かるが,「どうせ俺のサイトよりWikipediaの方が早い。」と思うと,更新する意欲は少なくなるものである。(まあ,だからといって放置するのはよくないが…)
Wikipediaができる前…というかインターネットが発達する前は,ムック本を買うとか,何らかの関連商品を買う必要があった。今はよっぽど好きな作品でなければ,買う必要はない。
CDやDVD,本,マンガは,Amazonのマーケットプレイスの発達が非常に大きい。確かにプレミアムがついているものもある。だが,こう言ってはなんだが,「金さえ払えば絶対に手に入る」のである。昔は,いくら金を積んでも手に入らないものは多かった。
もちろん今でも,入手が難しいものはある。私の部屋にはヤフオクで競り落とした井上大輔氏のサイン色紙がある。真贋は分からない。もしかしたら偽物かもしれない。井上大輔氏関連のグッズでは,「FERMENT」のCDも入手が難しかった。ヤフオクでそれなりのお金を使った。でも,それだけだ。昔は手に入れることそのものが絶望的だった。「FERMENT」に限って言えば,今後もヤフオクをこまめにチェックし続ければ,出品されないとも限らない。いや,復刻されないとも限らない。何年か前にオタキングこと岡田斗司夫氏が,「オタクはすでに死んでいる」という本を上梓したが,その中に「レアグッズ自慢とか,所詮金で買えるもの」という一言があった。実際その通りで,金さえ払えば買えるのである。
そのお金だって,払う金額はその気になれば減らせる。実は少し前にオンラインレンタル大手DMMの会員になった。ここのDVDレンタルの充実っぷりには目を見張るものがある。少し前に「超人機メタルダー」のDVDを買おうかどうしようか悩んでいたが,ここのレンタル在庫にメタルダーがあるので,「ああ,買わなくていいや。」と思った。近所のTSUTAYAよりは高いが,買うより遥かに安く見られる。そしてDVDは,その気になれば…まあ,そういうことである。詳しくは言わないが,そういうことをする人だっているだろう。そういうことができるから安く上がるのである。
いや,もしかしたら金すら払う必要がないかもしれない。YouTubeやニコニコ動画だ。数年前に,「超獣機神ダンクーガ」のサントラが復刻された。予約限定で,3枚。全部買ったら1万円くらいだったか。結局買わなかった。買っておけばプレ値がついただろう。ただ,興味があったのは主題歌だけだ。主題歌の音源だったら,多少音質が悪いが,ニコニコ動画やYouTubeに落ちている。その気になれば,mp3ファイルでダウンロードできる。
アニメ本編だって,その気になれば違法なアップロードを探せる時代だ。探し方さえ知っていれば,楽しめる。その深夜アニメだって,HDDで同時に3番組録画できるから,録画ミスをする心配はない。
世の中は,オタクにとって過ごしやすくなった。15年前と比較して,今はオタクにとって楽園の時代である。
しかし,である。楽園であればあるほど,私は何か,虚無を感じてしまう。「あれ欲しいなあ」という欲求が,一瞬でかなえられることに,違和感を感じる。
もちろんそれは,贅沢な悩みである。願いがすぐに叶うことは,本来ならば喜ばしいことだ。だが,人間は,「達成感」を求めることがある。やり遂げた喜びを感じたいことがある。今の時代は,オタクにとって,オタク的な欲求について達成感を感じることは非常に少ない。したがって,オタクをしているけれども,「最近,オタクやっていても楽しくないなあ。」と思うことが増えてきたのである。
これが「自由からの逃避」ならぬ,「楽園からの逃亡」なのかもしれない。だが,そうかもしれない。アダムとイブが,あのままずっとエデンの園にいたらどうだっただろう。結局自堕落な生活をして,惚けていただろう。
世界の文明は,自然環境の厳しい場所で起こっている。エジプト,インダス,メソポタミア,黄河。みんな苛酷な環境だ。その苛酷な環境を克服するために文明が発達してきた。一方,タヒチでは文明が発生しなかった。それはちょっと事例が違うので極端な話であるが,オタク道には不自由さが必要である。そして,今,オタクの世界には不自由さが非常に少ない。(金と時間の多寡は個人の問題である)
岡田斗司夫氏の指摘の通り,オタクはやっぱり死んでいると言わざるを得ない時代が,いずれ来るかもしれない。
Twitterやってると日記(テキスト)なんて全然書きませんね。映画レビューコーナーを作ったのは成功だったと思います。
昨年のテキストの中で,著者本人から好評を得たのが「ネットと愛国」関係のレビューだった。その後,著者の安田浩一氏に「私はあなたのストーカーです」と,気持ちの悪いリプを送り,なぜか快諾されるという快挙に至った。その後,安田氏の原稿は一通り追っていたつもりだったが,SAPIOやWiLLの原稿は見落としていて,Wikipediaのネット右翼の項目に「こういう原稿があった」と書いてあった。というわけで,今,Amazonのマーケットプレイスで取り寄せている最中である。
「ネット右翼の矛盾」は読了したが,「韓国のホンネ」「ナショナリズムの誘惑」はまだ読んでいない。本業の仕事がちょっと忙しく,本とDVDとCDとプラモデルが自室に積み上がっている。仕事がないとこういうのも買えないので,致し方ない。
それはともかく,安田氏の「ネットと愛国」読了時,何か物足りなさがあった。それを私は「桜井誠氏へのインタビューがないから」ということで片づけたが,最近色々な本(安田氏のものだけではなく)を読む中で,ふと,「ネット右翼について,詳しい考察が少ないのでは?」と思うに至った。一応Amazonで調べると,「ネット右翼の逆襲」という本があったが,ネット右翼を肯定するという物言いに引っかかりがあって,まだ買っていない。
私は,ネット右翼,すなわちネトウヨである。Wikipediaで調べると,ネット右翼とか,ネトウヨ(打つのがメンドイのでこれから先はネトウヨで統一します)はある種蔑称みたいな物言いであるとのことだが,言い換えようにも自称愛国者とか電脳愛国戦士とか,そのうち「ロシアがたちまち攻めてくる〜」とかサンバルカンの替え歌で歌い出しそうな名称になりそうなので断念した。
調べてみると,ネトウヨになって11年くらい経っている。私がインターネットに参入したのは1999年。それ以前にもネット環境はあったが,一般的には古参のユーザーになる。すなわち,ネトウヨ歴も,かなり古い。Wikipediaにもネトウヨの発生についてはあまり書かれていないし,安田氏も取材でネトウヨがどのように出てきたのかについて詳しく書かれてはいない。というわけで,ネトウヨがなぜ出てきたのか,なぜ拡大したのか,整理してまとめたいと思う。
まず,ネトウヨが出現する以前の話からはじめる。ネトウヨを生み出した存在として,「よしりん」こと小林よしのり氏と,その著作「ゴーマニズム宣言」がある。おそらくよしりんは「わしが在特会を作りだしたと言うなんて迷惑千万」と反論されるだろうが,よしりんとゴー宣なくして,ネトウヨは生まれなかったと言っていい。それは,五島勉氏「ノストラダムスの大予言」なくして,オウム真理教が生まれなかったことと同じである。
よしりんのゴー宣については色々語り尽くされているので割愛するが,彼のタブーに挑戦する姿勢と,「虐げられている日本」というストーリーは多くの読者の心をつかんだ。それは,掲載が始まったころというのは不景気で,「この先どうなるのだろう」という漠然とした不安感が社会に蔓延し,さらにオウム真理教による前代未聞のテロ活動が起きたことにも深い関係がある。「ネットと愛国」にも,在特会関係者のインタビューすると,ゴーマニズム宣言を読んでいた人が多いことが指摘されている。ゴー宣については,実はあまり読んでいないので(おぼっちゃまくんの作者に,したり顔で社会のことなど言われたくはないよ!)あるが,ネトウヨを生み出した大きなきっかけは,1998年の「ゴーマニズム宣言 戦争論」であろう。この著作をきっかけに,よしりんは下ネタギャグマンガ家から,保守派論客の文化人へと華麗なクラスチェンジしたわけで,「戦争論」はよしりんにとってダーマ神殿だったと言っていい。
「戦争論」というのは,早い話が「学校で教える歴史が正しいとは限らない」という背徳的な魅力を備えた本であり,当時高校生だった自分の周りにも,賛同している人が何人かいた。「戦争論」がネトウヨになったきっかけだったと言う人もおそらく多い。その後も「台湾論」「靖国論」といったスペシャル版が出て,多くの支持者を得るに至った。かくいう私がよしりんのマンガを読まなかったのは「おぼっちゃまくん」のイメージが強すぎたせいであるが,何より彼のけんかっ早さに引いてしまったことが大きい。私はネトウヨであるが,平和主義者で,ケンカは嫌いなのである。(よしりんのけんかっ早さについてはWikipedia参照)
そして,ネトウヨを生み出したもう一つの存在。それが「ネット掲示板」である。主として1999年に誕生した匿名掲示板「2ちゃんねる」(2ch)と,翻訳掲示板「Enjoy Korea」(エンコリ,2009年閉鎖)である。
2chについては,安田氏は言説についてタブー破りの傾向があることを指摘している。実際,2chにおいて,初期の段階から在日コリアン,同和地区などへの差別的な書き込みはあった。そして「それは差別では」と指摘した人間が逆につるし上げられることが多く,差別的な言説を止めにくい雰囲気があったことは確かである。在日コリアンや,韓国・朝鮮への悪口はしばしば「ハングル板」といわれる掲示板で行われていた。
エンコリは日本と韓国の間で使われた翻訳掲示板で,おそらく開設当初は友好や相互理解を目的としていたはずなのだろうが,結局フタを開けてみると韓国人に歴史ネタで話を振って,感情的にさせて楽しむような話題が多かった気がする。安田氏は「ネットと愛国」の中で,在特会関係者の考える韓国人像について言及していないが,おそらくある程度インターネット使用歴のあるネトウヨにおいて,韓国人のイメージはエンコリの中で煽りにマジギレしている人がステレオタイプのはずである。
とはいうものの,2002年まで,韓国に対する否定的な考え方はネットの主流ではなかった。ワールドカップ共催への期待感や,韓国人プロ野球選手の活躍,韓国への観光客の増加など,むしろ韓国に対する親しみや,融和が主流だったといっていい。
では,2002年に一体何が起きたのか。ネトウヨが2002年に増えたことには,三つの理由が存在する。一つ目が2002年日韓ワールドカップ,二つ目が日朝首脳会談と日本人拉致事件の発覚,三つ目がブログの普及である。
ワールドカップと拉致事件については「ネットと愛国」でも触れられているので割愛するが,実際問題私がネトウヨになったのも,この二つの事件が大きかった。特にワールドカップは,エキシビジョンマッチでフランスのジダン選手を破壊し,韓国側に有利な誤審が相次ぎ,また日本が敗退したことに喜ぶ韓国市民の様子がネット上に流れ,「俺たちは韓国を応援したのに,こいつらは日本の敗退を願ってたのか…」という失望感をもった。さらに,この韓国の微妙な判定に対して,正面切って採り上げないメディアの姿勢も批判された。
安田氏は「ネットと愛国」のフジテレビデモについて宮崎あおい氏の元夫俳優・高岡蒼佑氏のTwitterが原因であるとしか触れていない。確かに実際問題あれがきっかけだったが,それ以前から,特に2002年のワールドカップ報道においてフジテレビへの不信感は凄まじいものがあった。その結果起きたのが,フジテレビの27時間テレビにおける「2ch湘南ゴミ拾いオフ」(詳細はニコニコ大百科参照)だった。
フジデモとごみ拾いオフに直接的な繋がりはないが,ごみ拾いオフというのは,メディアへの不信感が非常に高まったきっかけである。フジテレビでデモが起きた時,年季の入ったネットユーザーは,「ごみ拾いオフの時もそうだったなぁ」と思っただろう。安田浩一氏はフジテレビが売国企業ではないと述べているし,おそらくフジテレビに政治的な意図はなかったと思うのだが,状況証拠が悪すぎた。その後もTBSサンデーモーニングをはじめとする「反日報道」がネットを騒がせることになった。ネットが普及する前は,報道の一つ一つを検証されなかったが,今はきっちり検証される時代なので,メディアの人々にはやりにくいだろうと思う。
安田氏は著書の中で,ブログの普及について述べていないが,ネトウヨの増加にブログの存在は絶対に欠かせない要素である。このウェブサイトはブログでなく,昔ながらのHTMLで作成した,いわゆる「ホームページ」である。ウェブサイトというのは,意外と作るのが面倒くさい。この原稿だって,エディタで入力して,校正して,フォントをいじって,FTPで送信し,更新を確認して公開になる。このエディタはシェアウェアだ。ちゃんと2000円払った。ウェブサイトは一応,メモ帳にタグ打ちでも作れないわけではない。ただ,ある程度専門知識が必要である。ところが,ブログというのは,ネット掲示板のように,ちょこちょこっと書いて「書き込む」ボタンを押せば,あっというまに更新が完了する。
さらに,ブログはHTMLサイトと違って,検索エンジンにヒットするまでの期間が短い。多くの嫌韓ブログが誕生した。さらには,「まとめブログ」というブログも誕生した。私自身,「とりかご」というまとめブログを読んでいたが,ネトウヨによる嫌韓まとめブログによって,また新しいネトウヨが誕生するという図式ができあがっている。
次にネトウヨが増加したのが2005年である。この年に何が起きたかというと,島根県が竹島の日を制定したのである。それに伴い,韓国からは異常とも言える拒否反応が示され,それがネトウヨにとって興味をかき立てられることになった。韓国の反応が,ネトウヨのオモチャになったのである。さらに言えば,竹島の領有権問題も,ブログなどを通じて広まり,韓国に対する失望と嫌悪感が拡大するに至った。この少し前に「冬のソナタ」で韓国への融和ムードが高まっていた中での事件だった。
そこで発売されたのが,「マンガ嫌韓流」だった。竹島の日騒動の記憶も新しかった時期で,出版は非常にタイムリーだった。内容については,従来のネトウヨの主張をそのままマンガにしただけだったのだが,とにかく売れた。2013年現在でシリーズ累計90万部売れたらしい。そして,「マンガ嫌韓流」に対するメディアの黙殺も,ネトウヨにとって「メディアは韓国や中国に寛容すぎる。在日に支配されているのでは?」という疑念が強まるに至った。そして,マンガ嫌韓流の出版からおよそ1年後に誕生したのが「在日特権を許さない市民の会」(在特会)である。
その後の在特会の拡大については,ブログ,Twitter,動画サイトなどのインターネットメディアを駆使してきたことは,承知の通りだろう。今では,「ヘイトスピーチ団体」として,国会で議論されるまでになった。ネトウヨなんて2006年当時バカの代名詞だったのだが,たった7年弱でとんでもない勢力になった。
かくいう私は,在特会に当初こそシンパシーを感じたが,最近は全くシンパシーを感じない。ネトウヨの中にも,在特会の発想とは距離を置いている人もいる。というのは,ネトウヨが嫌いなのは韓国という国家そのものであって,在日コリアンはあくまでもその外側にある付属物なのである。在特会は確かに「在日特権を許さない」ことを掲げているわけだから,在日コリアンを攻撃するのは確かにその通りなのだが,在日コリアンを攻撃するよりも,韓国政府に対してダメージを与える方法を行うべきではないかと考える人だっていると思う。
安田氏が著書でインタビューした在日コリアンの中に,在特会よりも彼らを支持する人々に不安を感じると述べた人がいたが,そうだろうと思う。推測でしかないが,嫌韓感情は,若い世代を中心に,かなり広範囲に広がっているような気がする。もちろん,嫌韓派が主流であるとまでは行かないが,少なくとも20年前に比べて,嫌韓派は大きく増えているし,この先減ることはない。
そういう意味では,日本と韓国の未来というのは,あまり明るくないのかもしれない。もちろん,韓国ドラマやK-POPなどで韓国を好きになる人も出てくるだろう。しかし,多くのユーザーが「これが真実だ」「真相はこうだ」と韓国のネガティブな情報を書き立て,それを広める限り,必ず誰かは嫌韓派になる。
もちろん,韓国そのものの政治姿勢や言説が嫌韓派を作り出していることは否定できない。韓国の主張を分析するに,彼らは日本を格下の国だと思っている(と感じられる)。ところが,日本からすれば,経済規模や文化的側面から言って,韓国の方が格下であると捉えている。おそらくこの「どちらも格下だと思っている」という部分に,相容れられない原因があるのだろう。そして,真の日韓友好というのは,双方がお互いを対等だと認識したとき,始まるはずである。したがって,現状では,非常に難しいのではないかなと思っている。
仕事で「文章がうまい」と言われることがある。うまいといわれてイヤな気はしない。「なんでそんなうまくなったんですか。」と言われて考え込む。別に元からうまかったわけではない。今だってそれほどうまい実感はない。たぶん,14年間もウェブサイトをやっていると,そうなるのかなと思う。
元々このウェブサイトは小説を書くという建前で始めた。小説を書く。その宣言がどうなったかは,この日記をお読みの方すべて,ご存じだと思う。
だいたい,絵も描けない,音楽を作るわけでもない,せいぜい筆くらいしかできない男だった。「ラノベ作家にでもなろうか」とアニメ学校に入る人がいるらしいが,彼らを笑う気はない。私と同じ,何か表現したいけれど,その手段が文章しかあり得ない。年齢が30にもなると,社会的な責任が先に来て,もう表現云々はどうでもよくなるのだが,高校生の頃はそういう思いがあったことは間違いない。中二病をこじらせていたのだと思ってくれていい。
先日,Twitterのフォロワーを見ていたら,懐かしい名前を見つけた。私はTwitterのフォロワー数は無頓着なのだが,一応,どういう人がフォローしているかだけは確かめるようにしている。その人とは,直接やりとりした経験はないのだが,ある時期,本田透氏のウェブサイト「しろはた」に,ともに投稿していた方だった。
「しろはた」,懐かしい響きだ。私が文章がうまくなったきっかけは,ここで日記を書いていたことも大きいのだが,「しろはた」の投稿が大きかった気がする。もう10年以上前……2001年の同時多発テロとか,そのちょっと後あたりかな,私は「しろはた」の投稿選手だった。
初めて「しろはた」を訪れたのは1999年。同級生が「このホームページが面白いよ」と言って,紹介してくれたのだ。本当に面白かった。当時は「プロ野球景気の悪い話」がメインコンテンツで,阪神の監督をしていた野村克也氏を徹底的にこき下ろしていた。ほかにも,「エヴァンゲリオン」「ガンダム」など,オタク的な要素をすべて取り込んだ,サブカル系ウェブサイトの大御所として,当時はかなり有名なサイトだったと思う。
初めは読んでいるばかりだったが,ある日,ふと「カズ山本選手の今月のドカベン」というコンテンツに気が付いた。あの頃はネットの怖さを知らない純真な少年だったから,「カズ山本選手は練習の合間にこんな原稿を書いてるヒマがあるのか。」と思っていた。お恥ずかしい限りだ。
それがカズ山本選手というペンネームで投稿されたものであることに気が付くまでには,それほど時間がかからなかった。というのも,カズ山本選手のほか,福井啓治選手をはじめ,プロ野球界で一癖も二癖もある(といわれている)選手ばかりだったからだ。そして,それぞれの投稿に大笑いしながら,私はふと,こんな事を考えた。
「俺も投稿しようかな。採用されたらうれしいなあ。」
それからというもの,ネットのニュースや,サブカル関連のトホホな話題にアンテナを高くした。あの頃はニュースまとめサイトなんてなかった(ブログもなかった)から,自分が集めた話題をネタとして提供することには,それなりにニーズがあった。当然,投稿なので,つまんないネタは採用されなかった。だから投稿するからには,何度も文章を読み直し,「言いたいことは伝わるか」「ネタとして面白いか」「しろはたの読者層に合っているか」ものすごく考えて投稿した。
ただ,「しろはた」は人気サイトだったので,「SaToshi」名義で投稿するのは色々まずかった。「荒らし」が来るかもしれない。「しろはた」では,野球関連の選手名(投稿名)を使うのが多かった。そこで,私は「仁村弟」という名義で投稿を繰り返した。そんな理由はない。仁村弟こと仁村徹氏が好きだったからだ。もちろん,「しろはた」には,「仁村兄選手」なんていない。
色々考えて投稿していたので,ある時期は投稿したらほぼ全部載った。最終的な採用率は7割弱だろうか。「スパモエ大戦データベース」が多かったかな。本当にしょうもないテキストばかりだったが,まあまあ載った方だと思う。「しろはた」の投稿で得た技術を生かして,このサイトの日記もトホホ系コンテンツをそろえた。私の文章がもしもうまいとすれば,それは「しろはた」投稿選手だった頃の名残だ。メール投稿があの頃の生き甲斐だったというと実にちっぽけな人生だが,確かにあの頃投稿するのは楽しかった。充実していたと言っていい。
その「しろはた」投稿選手時代は,2〜3年くらいで終わった。理由は簡単で,管理人だった本田透氏が,本格的に作家活動をスタートさせたからである。投稿しても,多忙を理由に載らなくなった。また,「二次元の嫁こそ至高!」という「キモメンの主張」にも,ちょっと賛同できなかった。
確かにイケメンの方が色々有利なんだろうが,本田透氏が著書「電波男」で主張していたことは,どう読んでも彼のルサンチマン(怨念)を吐いていただけだと感じた。「面白い文章を書く」と尊敬していた本田氏への思いも,急速に薄れていった。そして,私=仁村弟を含め,多くの投稿選手がその時期に「しろはた」から離れていった。
「しろはた」が,投稿サイトから,本田透氏の個人サイトになって数年が経つ。最近ではほとんど見に行かなくなった。「しろはたの投稿選手だったんですよ。」と言って,通じることも少なくなった。
でも,今の自分を作ってくれたのは,間違いなく「しろはた」のおかげだ。今の自分の文章は,「しろはた」が作ってくれた。だから,「しろはた」にも,本田さんにも,ほかの投稿選手にも,今でも感謝している。「しろはた」で培った技術を忘れず,これからもいい文章をたくさん書いていきたいと思っている。
今年もよろしくお願いします。
前々から言っているけれど,森達也さんのファンである。
といっても「A」「A2」は見たけど「A3」は読んでいない。中途半端なファンである。でも,映画「311」は見たし,著書にサインをしていただいて,その本はこの先も手放すつもりはない。家宝である。
どうしてファンになったのかというと,彼特有の「鈍くささ」に惹かれたのだと思う。知名度はまあまあ,ある方だと思う。でも,自信はない。
「森達也さんが好きなんですよ」っていうと,微妙な本好きはきっと森博嗣氏と混同するに違いない。
ネトウヨの僕と,「サヨク」とされる森達也氏。相容れないところもたくさんある。彼は死刑廃止論者で,護憲派なわけで,この時点で僕との親和性は相当低い。
でも,彼の朴訥とした文章と,ヒューマニズムにあふれた視点は大好きである。
週末から,彼の本を何冊か読んでいた。森達也・著「視点をずらす思考術」(講談社現代新書)だ。
で,読みながらあれこれ考えて思うのは,チノパンの事故の話。
別に僕は千野さんのファンじゃない。フジテレビ見ないし。
今回の件で初めて,福田元総理の甥と結婚したことも知った。
ネット上では,千野アナが逮捕されないのは,夫の親族に福田元総理大臣がいて,警察に何らかの圧力がかかったのではないか,という意見があふれている。
確かに,本当のように感じる言説だ。僕も最初はそうかもしれないと思った。
ただ,冷静に考えれば「ん?」とも思う。
仮にそういう圧力があったとしよう。それがもしも明るみに出たら,どうなるだろう。
想像するに,とんでもないことになる。
今,名古屋では市議会議員が嘱託職員採用試験で圧力をかけた,かけてないというニュースがあるが,仮に元総理大臣の一族がその地位を利用して逮捕を免れさせようとしたら,スキャンダルになると思う。
(ただ,森喜朗元総理の長男みたいなこともあるので,世の中は色々始末に負えない)
もちろん僕は圧力が間違いなくなかったとは言わない。あったかもしれない。
ただ,あった「かもしれない」のであって,結局は邪推の域を出ない。でも,間違いなくあったとも言えない。
歯切れが悪いけれど,世の中なんてそんなものだ。僕みたいな物書きが断言できることなんて,限られている。
ところが世の中というのは恐ろしい。
「かもしれない」はいつしか「それが事実」にねじ曲げられてしまう。
「チノパンを逮捕させないように圧力があったかもしれない」は,「チノパンを逮捕させないように圧力があったに違いない」に変換される。
そうなれば5秒後には「チノパンを逮捕させないように圧力があった」となる。
もちろん,交通事故はよくない。亡くなられた被害者遺族の心情はいかばかりかと察する。
千野アナはもちろん責任を取る必要がある。
ただ,この件で千野アナを非難するのはどうだろう。
もちろん,「事故を起こすのはよくない」という指摘はその通りだが,「旦那の血筋で圧力をかけやがって」というのはちょっといいがかり過ぎやしないだろうか。
千野アナ自身,わが子が乗っている車で死亡事故を起こしてしまった。僕は親ではないが,母親として子どもに傷を負わせた悲しみは察するにあまりある。
森さんはよく「暴走する正義」という言葉を使う。人は優しい,それゆえに暴走する。今回の件も同じだと思う。
千野アナを叩いている人間が冷たい,優しくない人間だとは,僕は思わない。
僕と同じか,それ以上に優しい心を持っているし,社会正義について自覚している人ばかりだと思う。
逆に言えば,だからこの問題は難しい。
ネットメディアが発達した現在の世界では,「暴走する正義」に対して歯止めをかけるものは少ない。
これも森さんがよく言っていることだが,正義が暴走すると,人々は「思考停止」に陥る。
あんまり考えるのは頭に優しくないのだけれど,暴走する正義に呑まれる前に,ちょっとずらした視点で世の中を見つめるというのは大切なことだ。
そういう意味では,読書というのはなかなか有意義だ。
インターネットのコラムだけでは読みとれないものが,読書で読みとれることが多々ある。
だからもっと森達也さんは売れていい。っていうか売れて欲しい。
「森達也って誰?」って言われると,慣れているとはいえ,地味に傷つくんだよぉ。