Things We Said Today
〜今日の誓い〜
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ブルーレイの未来 | |
1年ぶりの「カリーナの林檎」 | |
ドラフト | |
差別と否定のメカニズム | |
日本と韓国と〜安田浩一・著「ネットと愛国」〜 | |
ブラック化する企業たち | |
大津いじめ問題を斬る | |
雇用の現状についての考察 | |
13th Anniversary | |
去稚心〜“子ども大人”の時代〜 | |
ファンレター〜森達也監督と映画「311」〜 | |
感動を押し売りする | |
追悼・神代警視正=二谷英明さん |
最近の文章を読み直してみると,「だ」「である」でかっちりした文章ばかりな上に,内容もずいぶん硬派なので,久しぶりに「です・ます」文で,かつ柔らかい内容で文章を書こうと思い立ちました。
きっかけはこの前のボーナスでブルーレイレコーダーを買ったことです。もう少し先にしようかと思ったんですが,ハードディスクレコーダーが欲しかったんですよ。ハードディスクレコーダー機能があるなら,ブルーレイレコーダー機能があった方がいいよなと思い,ブルーレイレコーダーにしました。今,安くなりましたね。5万円でおつり来ました。
ブルーレイレコーダーということは,ブルーレイプレイヤー機能があるわけですよ。ブルーレイプレイヤーがあると言うことは,ブルーレイが見られるようになったというわけです。せっかくブルーレイが見られるならブルーレイが見てみたい。というわけで,TSUTAYAでブルーレイソフトを借りて,見たわけです。
確かにきれいです。もちろんHDMIケーブルを液晶テレビ(レグザ)に接続しました。ブルーレイとDVDと見比べてもみました。DVDの場合,顔の輪郭が若干粗いのですが,ブルーレイはナチュラルで,映像というよりもモニタの向こうにそのままの世界が広がっているようにも感じました。もちろん,それにはハイビジョン撮影をした映像であることが条件になりますが,古い映画でもブルーレイ向けのリマスタリングを施すことがほとんどですから(それが売りですので),「ブルーレイの意味がないブルーレイソフト」というものは存在しないのではないかと思います。
ではこのままブルーレイが普及するかというと,どうなのでしょうね。ビデオソフトがVHSがDVDになった時は衝撃的でしたが,その時の衝撃に比べると25%くらいになっている気がします。それではわかりにくいですね。つまり,
VHS→DVDの時「すっげえええええ!映像きれええええええ!これからはDVDだな!」
DVD→ブルーレイの時「あーあーあーあー……確かにきれいだわ………うん。」
っていうわけですよ。(どういうわけだ)
この反応の違いというのは,やはり大きいといわざるを得ません。DVDになった時は「これからはDVDだ」と思いましたが,ブルーレイの時は「これからはブルーレイだ」とはなかなか思えませんでした。
そもそも,VHS→ブルーレイならまだよかったんでしょうけどね,DVD→ブルーレイというのが分が悪いんですね。VHSからDVDには,メリットが色々ありました。
VHS→DVDのメリット
・製造コストが安い。(単価が安い) |
もちろん,デメリットもあります。「わずかな傷でダメになる」「複製が容易」などがあげられると思います。
複製に関して個人ウェブサイトで言及するのはマナー違反なところもありますが,ちょっと知識がある人ならばDVDの複製が簡単にできてしまうのは事実です。これは「パソコンとの相性がいい」というメリットとセットになったデメリットで,たとえばレーザーディスクは普及できなかったわけです。
DVDが普及した最大の功績は,プレイステーション2だと思うんですね。だいたいプレステ2が発売されたあたりからレンタルビデオ屋にもDVDが並ぶようになったんですけど,そこには「プレステ2で再生できます」ってシールが貼ってあったはずです。そのシールを見ながら,内心「プレステ2で再生できないDVDはあるのだろうか……」と思ってました。初期のDVDの設置は映画より,アダルトコーナーの方が充実していたような気がしますが,それは私の思い過ごしか,近所の店だけの話かもしれませんので,断言はできません。
さて,ではブルーレイを置くメリットというのはなんでしょうか。実はあまりない気がするんですね。強いて言えば,複製がDVDに比べて難しい(といってもブルーレイドライブがあればできてしまう話なのですが)くらいでしょうか。DVDの仕入れ値と,ブルーレイの仕入れ値を考えれば,おそらくブルーレイの方が仕入値は高いはずです。同じということはないでしょう。では,ブルーレイだけ高く値段を設定できるかというと,それは無理なんですね。仮に同じ映画を見たいと思ったとして,300円のブルーレイと100円のDVDなら,DVDを借りるでしょう。「いや,俺はブルーレイを借りるよ。」という人も中にはいるでしょうが,おそらく大部分の人は「じゃあDVDでいいや。」となるわけです。
これは結構重要な問題です。せっかく高い仕入値を出してブルーレイを仕入れても,その分売り上げが伸びないと置く意味はありません。VHS→DVDと違って,ブルーレイはDVDと同じサイズですから,かさばらないというメリットはありません。とはいえ,全く置かないとそれはそれで客のニーズには応えていませんから,多少は設置して来店してもらうわけです。いわば,レンタルビデオ屋にとってのブルーレイというのは,客寄せパンダちゃんみたいなもので,お店的には金食い虫なわけです。だからあまりブルーレイソフトは増えないわけです。ブルーレイソフトが増えないということは,一般ユーザーがブルーレイの良さを実感する機会がないということですし,仮に実感したとして「へえ,きれいだね。」でオシマイになることもあるわけですから,やはりブルーレイを増やすというのは難しいわけです。
そうなるとブルーレイ普及に関しては,メーカーの本気が鍵を握るように思います。つまり,レンタル映像ソフトに関して,仕入れ価格をDVDより安くするのです。これは非常に難しいと思うんですね。ブルーレイの方が製造コストが高いのですから,ブルーレイの値段が下がるより,DVDの仕入れ価格が上がるなんてことにもなりかねない。でも,それくらいしないと,店側はブルーレイを置かないと思うんです。
さらにいえば,プレイヤーもまだ普及してないんですね。ぼちぼちDVDプレイヤーがレコーダーに置き換わるので,その時にブルーレイ対応レコーダーが選ばれ,普及していくと思います。ただ,DVDのような爆発的な普及は,難しい。さらには,ブルーレイ対応レコーダーだけど,DVDも対応している機種なんかの場合,DVDばかりになる可能性もあります。
だから個人的な感覚ですが,ブルーレイディスクが普及する前に,さらに次世代のメディアが出てきて,そっちの方が広まることになるのではないかなとも思っています。これはあくまでも仮定の話ですが,マイクロSDカードくらいのサイズで,ブルーレイ並みの画質と音質を維持できるような技術が開発されたとしたら,光学ディスクである必要はないわけです。それでカード1枚の値段が光学ディスク並になれば,みんなそっちを使うようになるわけです。そんな技術は難しいと思いますが,HDDだって小型化されてきているわけですし,そういう技術だって可能かもしれません。
もちろん,確かにブルーレイは美しいと思います。映像も,音声もクリアです。ブルーレイ上映する映画館も増えていますし,ブルーレイプレイヤーとプロジェクタ+ホームシアターシステムを組み合わせれば,100万円足らずで自宅を映画館のようにすることもできるのです。
ただ,多くのユーザーは,そこまでの映像や音質を求めていないわけで,ここら辺,技術者の熱意と,一般ユーザーの思いに乖離が見られるような気がします。
※容赦なくネタバレをしていますので,ご了承下さい。
このサイトをはじめる前から,多少なりとも映画を見ることが好きだという自意識はあった。ただ,それはアニメ・特撮・ドラマとセットな意味合いで,明確に映画を見ることを趣味としたのは社会人になってからである。その理由はアニメや特撮を見続けるというのが大変になったこと,かつての作品のように楽しめないことが理由として挙げられる。「機動戦士ガンダム」なんかだと,結局ファーストガンダム。これ以後も新作は作り続けられるのだろうけれど,自分の中でファーストガンダムを超えられるガンダムは,ないと思う。
同じように,「仮面ライダー」にしても,子どもの頃に見ていた「仮面ライダーBLACK」を超える感動はないし,今,YouTubeで配信されている「世界忍者戦ジライヤ」を,僕はものすごく感慨深く見ている。よく富野由悠季監督が「アニメや特撮は,子どものものだ!」と言われているが,確かに子どものものだ。少年の心を失えとは言わないが,自分の中には,少年の心と,大人の心というふたつの心がある。大人ならば,ふたつの心は持った方がいい。
で,映画の話。映画はいい。2時間ちょっとで1本見終わるので,気楽だ。ある程度評価の定まった作品ならば,見始める前からそれなりの覚悟もできる。黒澤明作品で言えば,つまんない映画だと覚悟して「七人の侍」を見る人はいないだろうし,めちゃくちゃ面白い作品だと予感しながら「まあだだよ」を見る人もいないだろう。(「まあだだよ」が好きな人はごめんなさい)
色々映画を見てくると,自分の映画を見るクセも分かってくる。僕は,せっかちな性格なのか,早いカット割りでテンポよく進む映画が好きなのである。したがって,小津安二郎さんの作品は,見ていて退屈なのである。
これは,小津作品がダメというわけではない。卵焼きに塩を入れるか,砂糖を入れるかの違いみたいなものだ。洋画でも「この監督の絵はワカランなあ」ということは何度かある。
で,今日の話。1年前,僕は「カリーナの林檎〜チェルノブイリの森〜」という映画を見た。これについては2011年のログにまだレビューが残っているので,そちらを見て欲しい。
「カリーナの林檎」については,この日記で好き放題書いた。尺が長い!もっと切った方がいい!ということを書いたあげく,今関監督も読んでいるTwitterのタイムラインにぶちまけた。
ただ,映画そのものの論評とは別に,この「カリーナの林檎」という映画を,このまま埋もれさせてはいけないという思いを感じたのも事実である。1年前「カリーナの林檎」を見てから,僕は原発関連の映画を何本か見た。「100,000年後の安全」「放射性廃棄物」「チェルノブイリ・ハート」「イエロー・ケーキ」だ。(ほかにもあるのは知っているが,すべてを見尽くすことはできなかった。)
今,挙げた4本の映画は,すべてドキュメンタリーである。ドキュメンタリーは生々しい。特に「チェルノブイリ・ハート」という映画は,見ているうちに涙が止まらなくなって,一度停止ボタンを押した。それなりにグロテスクなものに耐性がついているはずの僕でこれなのだ。子どもには絶対に見せられない。
その点,「カリーナの林檎」はマイルドである。ソフトである。子どもにも見せられる。特に2003年に撮影され,フクシマへの思いが過剰に入っていないところもいい。このまま「カリーナの林檎」を埋もれさせるのはマズイ。
そういうわけで,度々Twitterで「カリーナの林檎」についてコメントしてきたし,映画の写真絵本も買った。(子どもの未来社より発売中。Amazonでも取扱中)それをあちらこちらに見せて広め,「カリーナの林檎」という映画を口コミで広めてきたつもりだ。
その後,7月には日本語吹き替え版が作られることになり,プロアマ問わずオーディションがあった。「ここまで広めた以上,ワシもオーディションを受けたい!」と,厚顔無恥だけど,僕も参加した。落ちたけど。
これが大手映画会社が製作している映画なら,ここまで入れ込むことはなかっただろう。自主制作で,今関あきよし監督自身が熱意を持って広めていることに心を打たれたと言うこともある。心の底から応援したい気持ちになった。(きっとAKB48の人気投票で末端メンバーに熱を入れてる人も同じ気持ちだと思う。とはいえ,絵本は1冊しかかってないので,そっちからすると「一緒にするな!」って言われそうだ)
去年の11月,「カリーナの林檎」を見てから1年が経過した。今,書いたように,この1年,「カリーナの林檎」は何かと僕の周りにあった。きっと一生忘れられない映画の1本だと思う。そして,この1年,フクシマに対する思いも,変わった。
福島の原子力災害については,どのような立場であろうと,迂闊な論評をしようものなら「危険厨」「安全厨」「放射脳」といったレッテルが貼られ,発言そのものよりも発言者の人格が無条件で否定される傾向にある。だから僕も迂闊なことを書くつもりはないが,大手マスメディアは果たして真実を伝えているのかという懸念は,この1年,大きくなっている。この1年,メディアはフクシマについて,意図的に論評を避けているように見える。一応,震災関係の話をするとき,「フクシマ」も被災地でひとくくりにされて報道されるが,「フクシマ」として大きく報道はされない。これを「隠蔽である」と声高に非難するつもりはない。記者だって仕事で記者をやっているのだ。電力会社とその関連会社という広告主と,一般国民の知る権利を秤にかければ,広告主の方が重いに決まっている。そういう事情も薄々感じられるからこそ,真相はどうなのか,自分自身強く知りたいと願っている。
で,今日,愛知県東海市(名古屋市の隣)で,「カリーナの林檎」のチャリティ上映会があった。吹き替え版と言うことと,今関あきよし監督がいらっしゃると言うことで,行くことにした。同じ映画を(字幕と吹き替えという違いがあるとはいえ),1年経って,再び映画館で見るというのは生まれて初めての経験である。
字幕版を見てから絵本を読んで吹き替え版なので,話の違和感はなかった。初めて見たときは最初少女カリーナがアレーシャとも呼ばれていて戸惑ったが,今回は戸惑わなかった。
1年前映画に抱いた感情は,明確に変わったわけではない。「いい映画だけど,尺が長いなー。もっと切ればいいのになー」という思いは今回も感じた。これは,僕がせっかちで,クロサワ的な早いカット割りを好むからだ。そういえば,僕の好きな監督って黒澤さんに,キューブリックに,フランク・キャプラなんだけど,3人ともテンポのいいフィルムを撮る。「カリーナの林檎」はゆったりした映画なので,そこら辺人を選ぶかもしれない。
ただ,ベラルーシの風景は絵になるなと思った。去年「バビロンの陽光」という映画を見て,絵作りに感動したが,「カリーナの林檎」も絵がいい。夏休みから冬景色まで,長い間撮影したことも分かる。こういういい風景を持っている場所が,放射能に汚染されているという事実に愕然とするし,それが同じ日本でも起きているということに衝撃を改めて受けた。
あと,1年前に見たんだけれど,勘違いしていたところがあった。ラストシーン,雪の中に倒れていた少女カリーナが立ち上がり,また歩き出すところは覚えていたんだけど,なぜか僕は「また倒れる」と記憶していた。実際には,そのまま歩き続ける。とはいえ,子犬のぬいぐるみは落とすし,荷物も捨てているし,カリーナは一度死んだのかもしれないとも感じられるシーンだ。ただ,あそこでカリーナが立ち上がり,そのまま倒れないのは,「少女カリーナは死なない。生き続ける」という今関監督のメッセージだろうと僕は解釈している。
今関監督は,上映前のトークで,福島県の飯舘村の放射線量について「チェルノブイリ原子力発電所4号炉手前300メートルと,ガイガーカウンターの数値が同じ」と断言。(飯舘村の線量については,ネットや週刊誌などでも,政府の発表した数値と実際の数値が違うことが指摘されている)フクシマの現状についても「チェルノブイリとは比べられないほど悪い」とも言われていた。実際に何度も福島に行かれているから,きっと本当だろうと思う。1年前,この映画を見たとき,僕は「フクシマはスリーマイルより悪いけど,水素爆発で核爆発じゃないから,チェルノブイリほどひどくはない。」と思っていたが,あれから1年,「もしかしなくてもフクシマは人類史上最悪の災厄を引き起こした」と捉えている。
そういう意味では,上映開始前,今関監督が「皮肉な映画」と言われたのは納得できる。もしも,2004年に公開していたとしたら,おそらく話題になることもなく消えていっただろう。僕も見なかったし,ここまで口コミで広めることもなかっただろう。12月24日にはDVDがビクターから発売される。自主製作映画が,ビクターという大手のソフトメーカーからDVDリリースされるなんて,あんまり聞かない。(というか自主製作映画自体,下北沢でちょろっとやって,すぐ消えていくのが普通である)
そういう意味では,僕だけでなく,多くの人々が「カリーナの林檎を埋もれさせてはいけない!」という声を挙げているのだと思う。そういう声が挙がっているのは言うまでもなくフクシマが原因である。今関監督はとんでもない映画を撮ってしまったのである。
今回の上映会では,続編として制作された短編アニメーション映画「SACRIFICE〜水の中のカリーナ〜」も上映された。こっちは初めて見る。(ちなみに前述のDVDには収録されている)
これは実によかった。僕は子どもの頃,ディズニーの「ファンタジア」と手塚治虫先生の「ジャンピング」を見て育っているのだが,そのせいか,この手の実験アニメーションは好きなのである。最初アニメーションを作ると聞いたとき,失礼ながら「どうやって?」と思った。コンピュータの進化はすごい。限られたスタッフでここまで作った。わずか12分の映像であるが,最後に南相馬市の現在が出てきて,胸が痛んだ。
かつて,日本人を「戦前」と「戦後」で分けてカテゴライズすることがあった。同じようなことが,「震災前」「震災後」という言葉に凝縮されつつあると思う。映画にしても,園子温監督の「希望の国」をはじめ,今後原発を題材にした映画は出てくるだろう。それは「震災後」の表現者の動きとして,ごく自然なことだ。
だが,「カリーナの林檎」は,震災前に作られたという厳然たる事実が存在する。これだけは,これ以後作られる作品が束になっても,勝ち取れない称号である。過去に作られながら,現在という未来を予言していた映画である。ファンタジーである。フィクションである。しかし,ノンフィクションである。こういう映画が,もっと世の中の人に見てもらえると,もう少しマシな世の中になるのではないかと夢想してしまうのである。
そういうわけで,是非,12月24日に発売される「カリーナの林檎」DVD,是非お買い求め下さい。Amazonで絶賛予約受付中です。ステマ乙。
日本における「ドラフト」とは,ほとんどの場合,日本プロ野球機構新人選手選択会議,通称ドラフト会議のこという。ドラフトというのは別に野球選手だけに限ったことではないが,ここでは「ドラフト」=「プロ野球」で話を進めさせてもらう。
大学生だったころ,教育史の授業を取っていた。その時に読んだ本だったと思うが,プロ野球選手について言及された文があった。どんな本だったかすべて失念したし,もしかすると記憶違いがあるかもしれないので,そこはご容赦いただきたいが,こういう内容だった。「教育というのは難しい。プロ野球では,一流選手を見抜くスカウトが一流の素材をもった選手を獲得するが,すべてがプロ野球で成功するわけではない。名馬は多くても名伯楽が少ないということは,プロ野球を見ても明らかである。」この本ではこのあと,つまり読者はこの本を読んでよりよい教師になってもらいたいみたいな言葉が続いていたように思うが,肝心の中身はすべて忘れてしまい,この冒頭部分だけしか覚えていない。
だが確かにその通りだ。スカウトがリストアップしたり,試合で結果を出したりした選手を獲得する。高校の恩師が槙原投手(元読売)の大府高校時代を知っていたそうだが「あいつだけものが違った。」と言っていた。大成しなかった選手だが,知り合いの知り合いと同じ地域に住んでいたある選手も,小学生のころから「めちゃくちゃ野球がうまい」と近所で評判だったそうだ。
プロ野球選手になった人の少年時代の話を聞くと,しばしば「ものが違う」という話を聞く。つまり,ドラフト会議にかけられる選手というのは,「ものが違う」選手ばかりなのである。にもかかわらず,全員がプロ野球で「もの」になるわけではない。
それにはいろいろな理由があると思う。技術的なものだけでなく,けがであるとか,精神的・性格的なもの,頭のよさなど,スカウティングでは測れないものはあるし,チーム事情だとか競争相手だとか,そういう事情も理由として考えられる。
さて,近年中日ドラゴンズのドラフトは,おおむね成功を収めているように思える。複数球団が競合するアマナンバーワン投手を避け,3番手くらいのそこそこの投手を獲得している。この戦略は今のチーム事情を考えると,おおむね正しい。中日の投手陣は,現在,充実している。そのため,ドラフトで獲得した選手を,むやみにすぐ使わなくてもいい。つまり,じっくり育成することができるのである。
これはスポーツトレーナーの人の話の受け売りなのだが,同じ投手でも先発型と,中継ぎ・抑え型では体の作り方が違うらしい。「この投手はいずれ先発ローテに入れる」という長期的な戦略を描いたら,そういう風に育成できるチーム事情がある。大野雄大投手や,伊藤準規投手がシーズン終盤に化けてきたが,それはここ数年の育成のめあてがあったからだと思う。(これは落合博満氏が長期にわたって監督を務め,また,育成方針が的確だったことも示している。だから早く中日球団は落合博満氏を監督に戻せ)
また,ナゴヤ球場周辺にある屋内練習場の整備も大きい。落合博満氏就任後,ナゴヤ球場敷地内に選手寮と屋内練習場が併設され,24時間練習に打ち込める環境が整った。ドラフト指名選手を見ると,屋内練習場の整備前と後では,ドラフトでものになる選手の数が違うように思う。だから中日球団は早く落合博満氏を監督に戻せ。
これが横浜DeNAベイスターズではどうだろうか。前監督の尾花高夫氏が夕刊フジのインタビューに答えていたが,あの戦力では試合が壊れるので,どうしても猫の目継投になると言っていた。やる大矢スレでおなじみの「マシンガン継投」である。マシンガン継投は投手陣への負担が大きくなる。その結果どうなるかというと,大学・社会人入団1年目から,マシンガンの弾丸(タマ)になることが求められるのである。
今回,横浜ベイスターズのドラフト選手を見ると,即戦力投手3人を獲得している。正直,数が少ないと思う。あと2人は投手を獲って,マシンガンの弾丸にしないといけない。それか,トライアウトで金剛投手あたりを獲得するのかもしれないが,とにかく横浜DeNAベイスターズにはマシンガンの弾丸が必要である。
それと同時に,数年後のマシンガンの弾丸になる高校生を確保しておく必要がある。もっと育成ドラフトを活用するべきだ。また,練習環境を整え,二軍ではしっかり練習をさせることが求められる。
…………だが,結局「球団にお金がない」という問題がすべての根元なので,横浜DeNAベイスターズにとっては,来年以降も茨の道が待っていると思う。ベイスたんに幸,多かれ。
先日「ネットと愛国」の記事を書いたあと,日記に書いた二つのことを実行した。一つ目はJKT48の推しメンを紹介するということだ。公式サイトで全員の顔と名前をチェックしたが,どの子も同じような顔雰囲気で,「この子」と言える子はいなかった。というわけで,私はJKT48で記事を書くのをあきらめた。
もう一つは,著者の安田浩一氏にTwitterでこの日記を紹介したことだ。半分ちゃらけたような文章だったので,怒られるかなと思っていたのだが,「ていねいに本を読んでいただけて,感激しました」というコメントをいただいた。これまでこの手のレビューで作者に喜ばれるなどということはなかったので大変うれしかった。前回のテキストは著者公認レビューになったといっても過言ではない。(←図々しい)
さて,私はこの機会にTwitterで安田浩一氏をフォローさせていただいた。自分にとって関心のある問題を多く取り上げられている方で,今後の著書の情報などAmazonからのメールより先に知りたいと思ったのである。
ところが,フォローしてから安田氏のTwitterを見ていると,粘着質のネトウヨが,よくわからないリプを送り,安田氏が反応するというツイートがすこぶる多いことに気が付いた。「ネットと愛国」のAmazonレビューも,「安田浩一は半日サヨクで在日だ」などという,本の内容と全く関係ないレビューが多数投稿されていた。
私は,在特会の主張すべてをでたらめであるとまでいうつもりはないが,彼らにシンパシーを感じていない。なんてことを言うと彼らから「ブサヨ」「在日」「非国民」といわれそうだが,私はれっきとしたネトウヨだ。韓国の反日的姿勢や,中国の帝国主義的政治姿勢には大変な嫌悪感をもっている。サヨクの方々が絶対に行かない靖国神社にもきちんとお参りをしている。サヨクの方からすると,どう見てもネトウヨだ。
在特会の主張にいちいち反駁すると時間がかかるので,最も納得のいかない主張だけ取り上げると,「在日朝鮮人は差別を叫び,特権を享受している。もはや差別ではなく,逆差別の時代だ」というものがある。「在日特権」云々の反駁は,安田氏の「ネットと愛国」を読んでいただくとして,本当に差別ではなく,逆差別の時代なのか。私はこれは明確に嘘だと思っている。だって,私たち日本人は,在日コリアンを差別しているからだ。
確かに,かつてに比べれば,差別的な物言いや見方は減ったと思う。芸能界でも,在日コリアンであることをカミングアウトする人も増えた。だから,在日一世の頃を考えれば在日コリアンはそれなりに住みやすくなった気はしている。もしかしたら在特会はこのことから「差別がない」と言っているのかもしれない。だが,差別がなくなったわけではない。
私自身,差別はよくないことだと思うし,在日コリアンが目の前にいたとして「ゴキブリ」「朝鮮に帰れ」などとは言わないだろう。蔑視的に見ているとは思わない。だが,冷静に自分自身に置き換えてみると,根強い差別があることに気付く。
例えば,もしも交際している女性がいざ結婚というところで「実は私は在日なの」と告白してきたらどうだろう。葛藤しないとは言い切れない。あるいは仮に妹の彼氏が在日コリアンで,結婚しますという状況になったら,兄として「頼むから帰化してくれ」と言うだろう。明確な差別が否定された今,差別は目に見えないところ,無意識の中に溶け込んでいる。この差別は,差別している当人でさえ,差別しているという自覚がないまま存在しているのである。
ここら辺,在特会をはじめとする人々は,「逆差別と戦うのだ」という大義名分を掲げてはいるが,その実態は明らかな排外主義で,レイシズムで,差別をしている。在特会を支持する人の中には「いや,俺は差別してないよ」という人もいるかもしれないが,差別をしていないという時点で怪しいものである。
さて,安田氏に粘着するネトウヨの様子を見ながら,いろいろなことを考えた。同じネトウヨとして恥ずかしい,ネトウヨの風上にも置けない連中だ。だいたい,たかだかフリージャーナリスト(安田さんごめんなさい)にTwitterで威張ってどうするんだ。もうちょっと建設的にそのエネルギーを使えばいいのにという思いも感じた。自分ならスルーするのだろうが,ご丁寧に反応するあたり安田氏の誠実な人柄が表れている気がして,ほほえましくも思った。と,同時に「なぜネトウヨはここまで粘着するのか」という疑問がわいた。
まず考えられるのが,単純な敵に対する攻撃である。安田氏は在特会を非難する記事を書いた。(※「ネットと愛国」は冷静に読むと非難というより,本質を明らかにしていく内容なのだが,安田氏への批判を聞いているに,彼の文章をきちんと読んでいるとは思えない。彼らにとって,敵対的な本を書いたという事実だけが重要なのである。)徹底的に攻撃するべきだ,という思考プロセスである。
在特会は何か政治思想を成し遂げようとするより,攻撃そのものが目的化しているような組織だ。絶えず敵を探している感じがする。その敵は在日コリアンであり,韓国政府であり,民主党政権であり,脱原発デモであり,チャンネル桜であり,安田浩一氏なのである。何かと戦って,何かを得るのではない。戦うことそのものが目的なのだ。言葉は悪いが「けんか屋」である。
けんか屋だから,常にけんかをふっかける。しかもインターネット上だ。ぶん殴られる心配は全くない。どんどんけんかしよう。こうして粘着性のある攻撃が続く。
また,純粋に「行動する保守運動をじゃまするな」という思いで発言している人もいるかもしれない。安田氏の著書を読んでから,ニコニコ動画やYouTubeで在特会のデモの様子を動画でいくつか見た。どれもこれも品がないのだが,この品のなさがある種芸術的というか,鮮烈な印象を残すことに気付いた。下品で卑劣な物言いは,確かにインパクトがある。昔でいうなら「死刑!」とか「アフリカ象が好き!」であり,私が小さな頃なら「ともだちんこ!」や「開けるッス!コーモンを開けるッス!」である。下品なギャグはインパクトが大きいのである。(ちなみに電撃ドクターモアイくんはJコミで全部読めるぞ!いい時代になったもんだ!)
そういう動画ばかりを見ていると,世の中がだんだん変わってきたと感じることがあり得る。実際,これまで腫れ物にさわるような扱いだった朝鮮学校や朝鮮大学に対し,「ここはテロ養成機関だ」「スパイの子どもだ」と切り込むデモが起きるようになったのは,(いいか悪いかは別にして)ある種時代の変化だと思う。そういう変化を喜ばしく思っている人々にとって,「ネットと愛国」のような本で在特会の活動がじゃまされることは,疎ましい。世の中が正しい方向に変革されるのを邪魔するな。そういう論理なのである。
どうでもいいけど,ネトウヨは中国共産党が大嫌いな反面,サヨクにたいしては言論統制を厭わない物言いをしていて,主張してることは中国共産党とあまり変わらないので,ここら辺ネトウヨとして反省しております。
しかし,それよりも粘着している理由が考えられる。それは,「ネットと愛国」は,レイシスト否定の書だということである。
ネトウヨは無知で不勉強で馬鹿だという指摘は,これを書いている人間がその通りなので,だいたい合ってるのだが,同時にネトウヨがものすごく無能かというと,そんなことはない。少なくとも「弱者を差別することはよくない」という倫理観はある。
ということを言うと,今度はサヨクの皆様から「そんな倫理観があるわけねーよ!」とツッコミが来るのだが,冷静に考えていただきたい。少なくとも小中学校の9年間は学校に通い,高校にも概ね通っているはずだ。多かれ少なかれ人権教育は受けている。「弱者を差別してはいけない」という倫理観は持っている。
では,なぜ,在日コリアンを差別し,排除し,罵倒するのであろうか。
私を含め,ネトウヨには韓国・北朝鮮に対する反日意識や拉致問題に対する嫌悪感と憤りが存在する。その中で,拉致問題に朝鮮総連が荷担していた可能性が指摘され,さらに朝鮮学校に金日成の肖像画が存在することから,憤りはいつしか在日コリアンへの嫌悪感へとすり替わる。この段階では,まだ差別的言動には及ばない。差別的発言が正当化されないからだ。
ここに,在特会は「在日特権」という,差別を正当化する旗印を掲げた。在日コリアンは差別されているといいながら特権を享受し,むしろ我々日本人は逆差別をしている,と。この瞬間,嫌悪感を堂々と表出させられる免罪符が誕生したのである。
嫌いなやつに向かってお前が嫌いだと言えるなんて,気持ちのいい話だ。在特会の動画を見ていると,なるほど,こんなに品のない言葉を連呼しているなんて,さぞ言ってる人たちは気持ちがいいだろうなと思う。これは悲しい話なのだが,「お前らが嫌いだ!」と言うことで自我を保っていられる人もいるのである。それがネトウヨなのである。(じゃあなんで私はそうではないかというと,嫌いなことを叫ぶより,好きなことを叫ぶ方が好きだからである。つまりネトウヨである以前にオタクなのである)
ところが,「ネットと愛国」は,その在日特権がまやかしだと暴いてしまった。ほかにも在日コリアンの人のブログを読んだが,「そんな在日特権は存在しない」と言い切られている。百歩譲って,平均的日本人よりお金持ちの在日コリアンや,北朝鮮の工作員である在日コリアンが存在するとしても,それは全体から見れば小数であり,多数の在日コリアンは差別され,苦しい生活を強いられている事実が明らかになった。
これは,差別的な言動が正当化されなくなったことを意味している。ネトウヨにとって,それは何物にも認めがたい事がらなのである。憎しみによって自我を保っていた人にとって,それはアイデンティティが崩壊したような衝撃なのである。
つまり,自分を崩壊させるような言説をばらまく安田氏は,否定されなければならない。それがネトウヨの論理なのである。したがって,有りもしない論拠を安田氏に示し,自分の差別を正当化しようとしているのである。
ネトウヨ諸君。韓国や北朝鮮の政府は嫌いでいい。日本の政府ですら好きになれないのに,隣の国の政府なんてもっと好きになれないに決まっている。
だが,在日コリアンを差別するのはやめてはどうか。たかだか50万人しかいない人を追い出したところで,何が解決するというのか。そんなありもしない敵と戦うより,もう少し存在感のある敵と戦った方がいい。
まして,ジャーナリストの本1冊で自己否定されたと逆上するのは見苦しい。そんなことに怒るくらいなら,靖国神社にお参りして,自分の器の小ささを英霊に詫びればいいと思うのである。
夏休みも終わりに近づく昨今,道ばたで出会う日焼けした小学生は,残りわずかな夏休みを惜しむかのように楽しんでいるように見える。私のような勤め人は盆休みが終わると,夏休みなんてオシマイであり,現状の課題は盆休みにぱーっと使ってしまったがために発生した金欠病対策であり,それの唯一の解決策である次の給料日を一日千秋の思いで待っているのである。
さて,そんな金欠病の最中,Amazonから「ネットと愛国」という本が出たというメールが来た。Amazonというのは実に親切な会社で,その昔「マンガ嫌韓流2」を買った人に,「こんな本が出てます」と教えてくれたのだ。(ちなみにその次に届いたメールには,舘ひろし氏主演の「ただいま絶好調!」DVD-BOXの紹介があった)
安田浩一・著「ネットと愛国〜在特会の闇を追いかけて〜」は,講談社の雑誌に掲載された文章を改稿して出版された本である。「在特会の正体」という記事は,ネットに載っていたので私も読んだ。非常にていねいに書かれたルポタージュで,惹きつけられた。折しも金欠病の最中だったので,どうにか図書館で借りられないものかと手を尽くしたのだが,悲しいかなどこの図書館も予約が入っていて,すぐに読みたいという私の欲求はかなえられなかった。私は近所の本屋で1785円払って,この本を買った。そして読んだ。
常々言っていることだが,私はどんな本だろうと,映画だろうと,金を払った人間には評論したり,文章で言及する権利があると思っている。買って読んだ本で読書感想文を書く権利は,誰にも止められないのである。だって僕は1785円を払ったのだから。
そういうわけで読書感想文なのだが,ここでまず「在特会」という団体の話と,私の在特会に対するスタンスについてきちんと書いておきたい。
在特会というのは,正確には「在日特権を許さない市民の会」という団体だ。会長は桜井誠氏。10年くらい前に韓国に関するウェブサイトをやっていて,ネット上では割と有名な人だったと思う。桜井氏のやってたウェブサイトは,「差別的だ」としてプロバイダに削除されたため,有志がミラーサイトを立ち上げ,同じ内容のウェブサイトが一時期ネット上のあちこちにできたと記憶している。
正直,その管理人だったDoronpa氏が桜井誠という名前で活動しているなんて全然知らなかったし,あの在特会の会長さんだったというのも安田氏の記事ではじめて知った。
在特会という組織の存在はもちろん知っていた。私自身,世の中の人々と同じく,ワールドカップと拉致事件がきっかけでネトウヨになり,「嫌韓流」も買って読んだ。もうブックオフに売ったけど。
在特会は「行動する保守」という名前を使っていたが,早い話が町に出たネトウヨと認識していた。とはいうものの,彼らが町に出るというのは,彼らなりの危機意識の現れだし,私が物理的に忙しくてできないことをやっているらしいので,えらいなあと思っていた。
だが,フィリピン人のカルデロン一家に関する行動あたりから,私は在特会に違和感を覚える。カルデロン一家というのは忘れてしまった人も多いと思うので書いておくと,密入国したフィリピン人の親と,日本で生まれた娘がいて,強制送還するのか,どうするのかという問題があった数年前の事件である。
入管法に違反した不法入国者を,子どもがいるからという理由で在留させれば,これからも不法入国者が増えてとんでもないことになる。フィリピンに返せ!というのがネット上の大半の論調だった。その意見にも一理あるとは思いつつ,人道上ちょっと気の毒な感じもしたのは覚えている。
そのカルデロン一家が住む地域で在特会がデモをしたという一報はネット上を駆けめぐった。正直驚いた。彼らは朝鮮半島問題が専門であって,この問題に出てくるのはお門違いではないのか,と。ところが,この事件をきっかけに在特会はネット上で大きな地位を獲得していく。……のだが,実はその話は後から知った。彼らが武器にしている動画サイトは私も利用するのだが,私が見る動画といえば「西部警察」や「太陽にほえろ!」などの動画が中心であって,彼らのデモの様子をわざわざ動画で見たいとは思わなかったのである。だいたいデモを起こしたところで世の中変わるわけでもあるまい。デモで世の中変わるなら,軽井沢の山荘に1週間立てこもった時点で世の中が変わってるはずだ。
そういうわけで,安田氏の雑誌記事で「京都事件」の言及があって,はじめて私は京都事件の動画を見た。京都事件というのは在特会から逮捕者が出た初めての事件で,京都の朝鮮人学校前で差別的な言動をした会員が,朝鮮人学校側から訴えられている。
京都事件は,30年近くに渡って,朝鮮学校が勝手に公園を不法占拠しているというのが発端だった。この話が明るみに出ると,ネット上では「けしからん」という話で埋め尽くされた。私は,なぜこの29年近くは問題にならなかったのか,何か裏があると思ったのだが,同時に「将軍様の肖像画を公然と掲げる朝鮮学校なら,当局の要請に対し,差別を盾に拒否してたかもなあ。」と感じたのをよく覚えている。
その動画を今回この文章を書くにあたって見直したが,とてもじゃないが見てられない動画だった。この動画での在特会はすさまじかった。罵倒という言葉もはばかられるほど,ものすごい勢いで朝鮮学校の関係者に迫っていた。はっきり言って,「引いた」。そんな言い方はないだろうと思った。
「カルデロン一家」と「京都事件」で,在特会は信奉者を次々獲得していくのだが,私はむしろ違和感が勝ってしまい,支持することにためらいを感じるようになった。この「ネットと愛国」は,自分が感じていた在特会への違和感を確信に変えてくれた。在特会の行動力やエネルギーはすごいけれど,支持まではできない。
とはいうものの,在特会に違和感を感じつつも,私がネトウヨであることは変わりがない。
例えば,最近の韓国の対応。韓国の大統領は支持率が下がると対日パフォーマンスをして支持率浮揚を目指すことが多いので,対日強硬姿勢くらいは毎度おなじみだったのだが,竹島訪問と,天皇陛下への侮辱で温厚な私もさすがに怒った。ここら辺,「越えちゃいけない一線を考えろよ」という誰かの発言を思い出す。李大統領は,越えてはいけない一線を越えてしまった。その後の対応はみなさんご存じの通り,親書の返送をはじめ,外交上前代未聞の事態が起きている。
韓国の対応に腹が立つかと言えば,もちろんイエスだ。竹島問題を抜きにしても,韓国側の外交上の非礼は目に余る。このような非礼を許すことはあり得ない。この件に関してはこちらで譲ることは何もない。この件では腹が立ったので,Twitter上で「ふざけんな韓国」とツイートした。韓国に立腹することそのものがレイシズムなら,きっと私もレイシストなんだろうなと思う。
さて,「ネットと愛国」であるが,講談社の雑誌記事と同様,本当にていねいな取材の末に書かれた本である。在特会批判というのはネット上にもあふれているが,大体「レイシスト」「人種差別論者」「品がない」といった批判である。実際その通りなのだが,桜井誠氏をはじめ,在特会の会員はこの手の批判には強い(ように見える)。
この本は,そういった批判ももちろん交えているが,何より「なぜ在特会に人々は引きつけられるのか」「在特会の本質は何か」というものを幅広い視点から捉えようとしている。買ってから一気に読み切ってしまった。文章も読みやすい。
在特会を上から非難するのでなく,普通の人と捉えながら,本質に切り込む姿勢は一級のルポタージュだ。この本に賞を与えないなら,正直,日本の出版業界はセンスがないと思う。
在特会の本質を考える中で,フジテレビデモにも言及されている。フジテレビデモは,私自身Ustreamで見ながら興奮した。偏向報道に怒っている人々が,数千人も集まった。すごいことだ。感動という安っぽい言葉では言い表せない,何か熱いものがこみ上げてきた。つまり,在特会に対して共振する何かは私にもある。安田氏ははっきり書いていないが,在特会がなくなっても,次の在特会的なものは出てくるだろうと思った。
さて,おおむねおもしろかった「ネットと愛国」であるが,ちょっと残念なところがあったので言及したい。それは,桜井誠氏へのインタビューがなかったことだ。これは桜井氏側が一方的に拒否したかららしく,安田氏の責任ではないのだが,ここまでていねいにつくってあって,桜井氏の言葉がないのは物足りない。これがあったらもっと面白かっただろうに。桜井氏には改めて安田氏へのインタビューに答えることを期待したい。(※)
※とはいえ,それは難しいだろう。在特会をレイシストと非難する取材ならば,桜井氏は怖くない。桜井氏と在特会の本質や正体を明らかにしようという動きに対し,桜井氏は大変な拒否反応を見せた。批判ではなく,丸裸にさせられることに恐怖を感じたのだ。それは推測だが,「会長」「大先生」と持ち上げられるほど立派な人間ではないという,桜井氏の劣等感の裏返しではないのかと思う。
しかし私を含め,ネットの住民の怒りはどこから来ているのだろう。自分自身,韓国や中国にここまで腹を立てている理由はよく分からない。言葉は悪いが「なんかむかつく」のである。別に不幸な人生を送っているわけではないのだが,中国と韓国に対してはかなり反感を持っている。
「反日国家だから」「敵だから」という人もいるが,そういう簡単なものではないと思う。この国の人々の根幹に存在する,「怒り」の正体を解き明かせたならば,ものすごく感動したと思う。安田氏には次回作ではこの「怒り」の正体に切り込んでいただきたいと思っている。貧困問題への著書もあるようだし(私個人の見解では,この怒りの背景には貧困が内在していると思っている),ここまで丁寧に取材ができる人なので,きっとやってくれるだろう。
さて,ここまで書いてなんだが,このテキストは安田氏のTwitterにリプを送って紹介させていただこうと思う。インターネットの発達というものは,在特会のようなものも生み出すが,同時に,著者と読み手の距離も縮めてくれる。実に便利である。
とはいえ,ここ最近,書く文章がどれもこれも硬派でよくない。このサイトはこんな社会派じゃなかったはずだ。少し薄めないと。次回はJKT48の推しメンについて熱く語りたいと思う。ところでJKT48には誰がいるの?
この間,高校時代の部活の同窓会があって,先輩や後輩の近況を聞いた。その中に,「うちの会社が少しブラックになってきた。」という嘆きがあった。
ブラックというのは黒字経営のことではない。ブラック企業とか,ブラック会社ということだ。過酷な労働を強いたり,労働環境が劣悪な会社のことを言う。大学の後輩が就職活動をしているとき,どういう企業がいいかという話になったところ,「ブラック企業でなければこの際何でもいいです。」という返事が返ってきた。このように,就職を意識する世代にとって,自分が受けている会社がブラック企業か否かは,人生までを左右する大問題である。
さて,ブラック企業というのは日本だけで起きている現象だろうか?調べたところ,どうも違うらしい。英語でもブラック企業に該当する単語があるらしいし,中国語にもある。世界的に「ブラック企業」に類する会社というのは存在するようだ。
だが,以前は「ブラック企業」というのは,暴力団のフロント企業のような意味で使われていたはずなのだが,今は暴力団との付き合いはあまり重視されない。たとえば先日行われた「ブラック企業大賞」では,大賞が東京電力で,特別賞がワタミだった。少なくとも東京電力はやくざのフロント企業ではないわけだが,多くの人々は東京電力(というか,ある場所で働いているその下請けや孫請け)の労働者はブラック企業であると認識しているのである。(ただ,東京電力の劣悪な労働環境というのは,皆まで言わずとも分かる,あの場所での労働に限られると思う。)
こういうブラック企業についてコメントすると,よくあるのが経済団体のおじいちゃんや,政治家のおっちゃんが「最近の若者はこらえ性がない」「最近の若者にはハングリー精神がない」という,「近頃の若者は」的な反論が出てくる。ブラック企業に勤務した結果心身の体調を崩し,ワーキング・プアに陥る人もいるのだが,このワーキング・プアは働く会社を選り好みした結果で,自己責任であるとコメントする政治家もいる。こういうおじいちゃんたちを老害とか認知症のご老体と批判するのは易しい。
先日私は「労働の質が変わってきた」という文章を載せた。その延長線上で考えていることなのだが,資本主義がブラック化してきたというか,企業がほぼ例外なくブラック化してきたと考えている。ここで確認しておくが,資本主義は元々ブラック化する要素がある。ブラック化した資本主義に対する方策が労働基本権であり,社会主義だった。私を含めてネトウヨは共産主義や社会主義は反日サヨクで敵だー!とネットで書き殴っているのだが,そういう「反日サヨク的な価値観」が資本主義の暴走を抑えていた側面は否定できない。
冷戦終結後,資本主義は暴走している。ブラック化している。グローバリズムだとかボーダレスといった横文字に踊らされ,賃金は減少し,労働時間はちっとも減らない。雇用は非正規化・不安定化し,非婚化が進み,「明日はいい日だ」なんて口が裂けても言えなくなってきている。
確かに,祖父の世代も,我々と同じか,いや,それ以上に働いたことは否定しない。そういう世代が「近頃の若者はその程度でへばるなんてだらしがない」と指摘するのは当然だ。
仮にだ,「今月残業は100時間な。でも,来年は給料を倍にするぜ!」と言われたらどうだろう。きっとみんな喜んで残業に身を投じると思うのだ。一時期ホリエモンの「金がすべて」発言に批判があったが,労働者にとって結局のところ賃金の多寡はモチベーションに直結する。同じ仕事なら金が少ないところより,多い方がいいに決まっている。
祖父が現役だった時代,それは「来年は給料が倍」が現実にあった時代だった。つまり,今時の若者を「こらえ性がない」と非難するおじいちゃんたちは,厳しい労働に身を投じて,それなりのお金をもらってきたわけである。
だが,今の日本において,「来年は給料が倍」は現実にあり得るだろうか?残念ながらあり得ない。グローバル社会の到来で,企業体力の温存が何よりも優先される。「会社が潰れたら,君たちも食えなくなるんだから。」と,内部留保の還元は先延ばしにされる。
結論から言えば,すべての企業はブラック化する因子を包含している。「うちの会社が少しブラック化してきた」というのは,決して不思議な話ではない。よくある話なのである。と,同時に,「ブラック企業でなければこの際何でもいいです。」という後輩の発言は,現状認識が甘いように思うのである。
もちろん,誰もが就職に成功して,幸せな人生を送ってほしいと思っているのだが,今の社会情勢を見ていると,幸せな人生を送るというのは,難しい時代になってきたように思う。企業のブラック化を止めるには,好景気が到来するか,新しい価値観の確率を待たなければならないと思うのである。
ここ連日騒ぎになっている大津市立皇子山中学校のいじめ自殺問題。面倒なので「大津いじめ問題」と略すが,もはやインターネット上だけでなく,週刊誌や新聞にも書かれ,テレビのニュースでもトップで報道されるようになってしまった。
ネット炎上事件はこれまでも多数あったが,今回の大津いじめ問題は,ネット炎上事件としては過去最大級の事件であると感じている。その理由は三つある。
ひとつ目は,炎上箇所が3箇所あり,さらにはそれぞれが激しく炎上していることである。炎上事件で言えば,先日あったお笑い芸人・次長課長の河本準一氏の生活保護不正受給問題が思い出されるが,あれは基本的に河本氏のみが炎上していた。ところが,大津いじめ問題は,加害者,学校(担任や校長),教育委員会(教育長,大津市)の3箇所が炎上している。これまでの炎上事件では,2箇所の炎上まではそこそこあった気がするが,3箇所も炎上している事例はぱっと思い出せない。
燃やしている側も,加害者への怒り(いじめた怒り),学校への怒り(いじめを許した怒り),教育委員会への怒り(いじめを隠蔽した怒り)がごちゃ混ぜになって怒っている節があり,それがさらなる炎上を招き,泡を食って対応した学校や教育委員会側の態度がさらなる炎上を招いている。
ふたつ目は,解決の糸口が見えないことである。せめて被害者が生きていればまだ解決のしようがあったのだが,残念ながら自殺してしまった。加害者とされる少年は,週刊誌によれば,自殺の一報が入った教室で「やっと死んでくれよった」と言い放ったそうだが,今ではその言葉を悔いているのではあるまいか。被害者が自殺した場合,加害者はどう謝罪しても,謝罪しきれない。解決方法が見つかる炎上事件は,解決すると鎮火する(例えば謝罪会見とか,賠償表明とか)のだが,今回の大津いじめ問題は解決の糸口が見付けられない。
解決の糸口を自分なりに考えてみたが,まず加害者3人を逮捕し,少年院に送致し,加害者側の親族がいじめを認めて被害者遺族に謝罪し,賠償金を支払うこと。学校側は対応のまずさを被害者側に謝罪し,社会的に謝罪会見を開き,校長と担任教師は辞職すること。教育委員会側は,調査の隠蔽の事実とその理由を被害者遺族に謝罪,説明し,社会的にその失策を認め,謝罪し,教育長は責任を取って辞職する。ここまでやれば鎮火される可能性があるのだが,現実的にはどだい無理な話である。つまり,鎮火できないのである。
三つ目は,ここまで盛り上がったところで夏休みに入ってしまったことである。これはタイミングとして,炎上される側からするとここまでにない最悪のタイミング(燃やす側からすれば最高のタイミング)である。学校側は夏休みに入り,子どもを守ることができると安堵しているかもしれないが,残念ながら事実は違う。「夏厨」という言葉があるとおり,夏休みになって暇になった学生諸君が,格好の「夏祭り」の標的にしてくるだろう。
この手の炎上事件の場合,だいたい,炎上される側には後ろめたいことがあり,燃やす側からすればそれを攻撃できる材料がある。今回の大津の事件は,加害者,学校,教育委員会の3箇所それぞれに後ろめたい(と思われる)物事があり,さらには定期的に攻撃の材料(「燃料」と呼ばれる)がでてくるので,夏休みと相まってますます燃えるだろう。
では,大津いじめ問題は今後どのように展開していくだろうか。これはなかなか難しいが,少なくとも加害者少年が逮捕されるまでは過熱した報道が続くように思われる。逮捕されるのか疑問はあるが,政治家にまで「処罰すべし」と言われてしまうと,警察も立件を前提に動くのではないかと思う。
問題は学校と教育委員会である。教育委員会に関して言うと,大津市長が教育委員会に対し不信を抱き,「教育委員会制度はいらない」と発言している。これだけなら単なる発言なのだが,その後,「たかじんのそこまで言って委員会」の辛坊治郎氏も「教育委員会制度はいらない」と言い出した。辛坊氏のバックには,橋下市長と大阪維新の会がいる。橋下市長はコスプレ不倫疑惑で大ピンチなので,手っ取り早い人気取り政策をチョイスすると思うのだが,この「教育委員会改革」というのは魅力的である。文部科学省を巻き込んだ騒動に発展する可能性がある。
学校に関してもピンチは続く。担任教師の自宅周辺で鼻歌デモをしようぜという動きがある。校長解任を求めるデモ行進も,具体化こそされていないが,提案はされている。昨年あったお台場のフジテレビ反韓デモ行進も,はじめは「デモやろうぜw」というささやかな提案から始まったことを考えれば,実現する可能性がないわけではない。そしてもし実現されれば,ニコニコ生放送やユーストリームでデモの模様が全世界に発信されるだろう。去年のフジテレビデモの様子を見ていて思ったのだが,祭りに参加しない人々も動画サイトを通じ,祭りを共有することが可能になってきた。さっきも書いたが,夏休みである。デモ行進を企画,実施する時間と暇が多くの人に存在する。大津市が夏祭りの本場になる可能性が大いにあるのである。
もしも報道が事実ならば,加害者,学校,教育委員会を許すことは難しいと思っている。特にいじめに気付きながら黙認した担任教師と,校長をはじめとする他の教師たちに対し,私は大きな憤りを感じている。もちろん加害者も悪いし,隠蔽した教育委員会も腹立たしいが,助けるべき責任のあった学校側がいっさい機能しなかったことは,正直言って信じがたい思いがある。
と,同時に,過熱する報道と,インターネット上の暴露についてはかなり行き過ぎな気もしている。誤情報による人権侵害はかなり広範囲にわたる。「デヴィ夫人」こと,デヴィ=スカルノ氏のブログに加害者の少年として,「チャリで来た」のコラ画像が載っていた。(現在は削除)さすがに「チャリで来た」の少年は多くの人がネタだとわかったのでそんな騒ぎにはならなかったが,別の加害者少年の親族として病院関係者や警察関係者の名前が挙がり,大きな騒ぎになった。実はこの親族とされる人物は偶然同じ名字の別人だったらしく,とんでもない迷惑を被ったことになる。
京都府に転校したとされる加害者少年Aについても,父親のFacebookから流出したとされる画像が出回っているが,本当にこの少年が加害者なのか,検証できないのである。仮にこれが無関係の少年だった場合,誰が責任を取るのか。
もちろん,加害者少年は許し難い。報道が事実ならば,少年院に送致した方がいいと思う。だが,この正義の暴走は,本当に大丈夫なのか。そんな危惧をもった。
世界経済の減速が著しい。東京株式市場の平均株価は大きく下がり,世界経済の先行きが懸念されている。
これまでこの手の話をすると,必ず最後は「世界経済の先行きより,自分の将来の心配をしましょう。」というおきまりのオチをつけて終わってきたのだが,さすがにギリシアやイタリア,スペインなどを見ていると「俺の将来の心配と世界経済の心配はリンクしているのでは」という至極真っ当なことを書かざるを得なくなってくる。
こういうことを言っては何だが,景気が良ければ収入が増えるから,生活が潤うわけで,当然先行きも明るく感じられる。
なんてことを言った場合「カネがすべてなのか」と批判されそうだが,実際問題お金があるかないかというのは切実な問題で,こういうことを書いている自分は,お金はそれなりにあった方がいいと思う。衣食足りて礼節を知る。金がすべてではないが,お金はあると便利である。
では,あると便利なお金はどのようにして手に入れるのか。それはやはり労働である。ごくまれに犯罪を犯す人もいるわけだが,多くの市民は国民の義務である「労働」の対価として金銭を得ている。
ところが,この経済を回す,労働の対価であるお金をもっている人が少なくなってきた。カネがないから安いものを買う。売り上げは落ちるので賃金は減る。賃金が減るので安いものを買う。負の循環,いわゆるデフレ・スパイラルである。
雇用に関しても同じで,経済状況の悪化から採用を控えるようになり,雇用が安定せず,多くの新卒学生が「就職難民」となった。
就職できないのなら経済的に安定しないから,当然結婚できない。少子化は進行し,高齢化社会は進行し,税収は減り,社会保障費だけが増大する。
したがって雇用環境を改善せよ,学生を雇え,働かせろという訴えは一理ある。
しかし,である。雇用状況を改善させれば,現代日本の諸問題が解決しうるにもかかわらず,一向に改善しない理由は何だろうか。
政府が無能だから,企業がけちだから,いろいろな事由はあるだろうが,どうもこいつは単純な善悪で割り切れる問題ではない気がするのだ。
ここからの意見は自分の私見で,事実か否かよくわからないから,あまり声高に言いたくないのだが,近年,労働の形が変わってきたように感じる。
具体的に何年頃からとは言えないのだが,労働の質,形が以前とは全く違う。
では,どう変わってきたのか。それには職業の話からする必要がある。
職業には,職種のような細かなものではなく,おおざっぱな分類として,総合職,一般職,専門職の3種類が存在する。(本稿ではそのように分類する)
総合職というのは営業や総務担当など,年齢や経験とともに賃金や地位が上昇していく人。一般職というのはいわゆる事務方で,総合職の支援をする人。専門職というのは資格が必要なポジションで,警察官や消防士,教員などの一部公務員もここに入る。
まず感じることは一般職の消滅である。いや,消滅してはいない。一般職の仕事は存在している。しかし,近年,一般職は派遣社員や契約社員となり,正規雇用が非正規雇用に置き換えられるようになってきた。一般企業で,事務などの一般職を正規職員で採用することは控えられる傾向にある。
考えていただきたい。簿記の資格を持っていれば就職できるのか。コンピュータ・ソフトウェアを使う能力があれば就職できるのか。そんなことはなくなった。
仮に一般職の採用があったとして,給料は低い。テレビドラマでは,一般職が大活躍しているけれど,実際の企業ではそれほどでもない。
IT革命により,一般職の仕事は減少した。その結果,一般職の人数や給与は削減された。一方で,事務系の仕事を希望する,いわゆるホワイトカラー志望者は増えている。就職難の一方で,人材難の分野もある。採用のミスマッチが起きているのである。
また,総合職の専門職化が進行していることも見逃せない。
総合職というのは,いわゆる営業職をはじめとする企業の前線で戦う社員だが,近年この総合職に求められるスキルが,専門職並みになってきた気がするのだ。
分かりやすい例だと,例えば英語である。社内の公用語を英語にする企業はまだ少ないが,TOEICが何点以上必須という企業はずいぶんあるようだ。日本人は英語ができないから中国人を採用するなんて企業もテレビで見かけた。グローバル経済の進行により,かつてのような「英語ができると就職に有利」という時代は過去のこと,「できて当たり前」になりつつある。同様にコンピュータのスキルも,「できて当たり前」になってきた。そしてできる,できないが目に見える「資格」で判別されるというのも,大きな特徴である。
資格が必要なのが専門職で,総合職にこれといった資格は必要なかったはずなのだが,これでは総合職も半ば専門職である。それだけスキルがあれば,普通の人は敢えて総合職を選ばず,専門職に就職するだろう。かくして,人材難は進行するのである。
現在の日本における最大の問題は少子高齢化である。少子高齢化が進行するから税収は減るのに社会保障費は増える。じゃあ税収を増やしましょうとするから消費税が上がる。少子化を止める方が先だ。ところが,政府の少子化対策は男女共同参画社会の推進だとか,保育所の増設をしようという。官僚という専門職の人間が考えてるのだからこの程度である。少子化の根本には非婚化・晩婚化があり,非婚化の原因には就職難がある。そして,就職難の背景にはIT革命やグローバル経済の進行があり,雇用の変容がある。ギリシャ,イタリア,スペインをはじめ,若者に仕事がない国はかなりある。アメリカだって若者に仕事がなく,地方では軍人になるのが手っ取り早い就職だという話を聞いた。少子高齢化が進行し,財政状況が逼迫している国も日本に限ったことではない。
世界の進歩に人間がついていけなくなってきている。
かつて『成長の限界』で指摘されたとおり,世界の限界は見えてきたように思う。
雇用の環境ひとつ取ってみても,ものすごい変容である。
この現状を理解している人は少ないだろうし,現状を理解したとして,どんな対策を立てたらよいかも分からない。
ただ,今,闇雲に立てている対策のほとんどが的はずれで,現状理解に欠けていることは確かである。私の述べた現状理解も,どこまで正しいかは分からない。
ただ,この先のことを考えるなら,闇雲に対策してお金と時間を浪費するよりも,冷静に現状を把握し,じっくりと策を練るべき時ではないかと考えている。
仕事でカレンダーを見ていたら,6月13日の文字に引っかかるものがあった。そう,6月13日はSaToshi’s HomePage開設記念日である。あわてて指折り数えてみたら,今年で13周年になることがわかった。「ええ,もうそんなになるの!?」と自分でも驚いてしまった。この文章とて,どれほどの読者に読んでいただいているのかは分からないが,未だに読んでくださる読者がきっといると信じているから謝辞を書いている。ひとえに読んでくださるみなさまのおかげである。
13年間を振り返ると,このサイトのカラーは,自分で言うのも変だけれど,全然一致していない。一貫していないと言うか,ブレブレである。13年間同じなのは作者だけで,開設初期の面影は全然ない。
始めた頃は高校生。こじらせた中二病が完治していなくて,毎週鬱日記を書き散らしてばかりだった。確かはじめは小説を載せるはずだったんだけど,この13年間小説なんざ載せたことがない。
浪人から大学にかけて,鬱日記は影を潜め,いつしか痛いオタクの日常というか,自虐ネタで笑いを取る日記サイトになっていた。
折しもその当時流行していた「侍魂」や,よく読んでいたウェブサイト「しろはた」の影響もあり,フォントをいじって薄ら寒いネタを書きまくった。数年前に日記の過去ログを整理した際,「おもしろかったものだけ,別のログで残そう」とすべて読み返した(がんばって読んだが,2階の窓から飛び降りないために私は大変な忍耐を要した)が,書いた本人もびっくりするほど中身がなくて愕然とした。
それから文章がとんでもなく下手くそだった。いや,今でも文章が上手だという自意識はない。(文章を書くのが好きだという意識はある)あの当時だって,文章をそれなりにうまく書いてるつもりだった。読み返してみると,主語と述語がぐちゃぐちゃだったり,助詞がおかしかったりした。
レビュー的なものは比較的中身があったのでTEXTのコーナーに残したが,ある文章はほぼ全面改稿した。それ以外の文章も10%〜80%程度改稿している。もしかすると改稿から数年を経ているので,今TEXTを読み返したら,また改稿したくなるかもしれない。イラストや漫画と違って文章は改稿が容易だし,少し改稿したところで気付かれないことも多い。
とはいえ,文章の技術を差し引いても中身がなくて唖然とした。あの数年,それなりにネタを練り,がんばって書いてたはずなのに,どうしてこんなに中身がないんだろうと,自分で自分に失望した。
それから大学を出てからは,更新回数がものすごく少なくなった。書く時間やゆとりがなくなったこともあるが,それまで「日常」がネタだった手前,書けない日常が多くなった。世の中には守秘義務というものがあって,仕事上知り得た内容をインターネット上に書くことはあり得ない。それ以前に,大学時代から「公人はともかく,他人をネタにするのはやめよう。」という方針があって,守秘義務を差し引いた部分も私のポリシーで書かなかった。
何よりHTMLが時代の流れから取り残されてきたこともある。更新回数が少なくなった期間でも,mixiやTwitterは更新されてきた。今だとTwitterの更新回数はとても多い。自分のその瞬間の感覚を,リアルタイムで反映できるTwitterの存在はとても大きい。
では,なぜ,このサイトを閉じないのか。折々にこうやって,HTMLに日記を書き記すのか。それは,こうやって時間を掛けてものを書くことに意義を見いだしているからである。リアルタイムの感情が反映されるツールは確かに便利だ。だが一方で,その場の勢いで言ってはならないことを言ってしまうことだってあり得る。こうやってものを書き,丁寧に推敲し,アップロードしたものの方が,文章としてまとまっている。
また,Twitterでは文章がうまくならないと言う意識もある。この13年,多少は文章が上達したのはこのウェブサイトに文章を載せてきたからだという思いがある。日常的に書く訓練をすることは,文章の上達につながる。訓練を怠れば能力が落ちる。当たり前の話である。
では,今後このウェブサイトはどうするか。私個人としては,今後も,細々と文章を書きつづるウェブサイトとして,残していきたいと思っている。読んでほしいから書くのもあるが,仮に読み手がいなくても書き続けるつもりだ。私にとって書くことが最高のストレス解消なのだ。自分の思いを書きつづり,人前に出すことで,自分自身が落ち着くのである。
この先,社会情勢のような硬派なテーマで文章を書くこともあれば,読んだ漫画や映画の感想を書く軟派な文章を書くこともあるだろう。これまでテーマは一貫してこなかったのだから,この先も一貫する必要はない。自分の書きたいものを,自分の方針に従って,つれづれなるままに書き記す。それをもしも誰かに読んでいただけるならこの上ない喜びである。
13年間のご支援本当にありがとうございます。
今後ともSaToshiならびにSaToshi’s HomePageをよろしくお願いします。
2012年6月13日
SaToshi 拝
いきなり私事で申し訳ないのだが,今年で30歳になる。
気持ちはまだ若い(未熟な?)つもりだが,30歳ともなると,社会的には色々やらねばならないことができてくる。
この間の話だが,他人様の前で5分弱,スピーチをする羽目になってしまった。
他人様の前で話せるような立場ではないのだが,そういう年齢なのだと言われて,苦笑するしかなかった。
何を話すか,かなり悩んだ。
与太話なら何とでもなるが,ある程度かっちりした話ともなると,意外に難しい。
悩んだ末に,幕末の志士・橋本左内の「啓発録」について話すことにした。
橋本左内と言われて,誰のことか分かる人は,かなりの歴史好きではないかと思う。
幕末・明治維新期の動乱においては,あまり目立った活躍をしていない。
橋本左内は福井県の人で,松平春嶽の側近として仕えたが,将軍継嗣問題の責任を問われ,安政の大獄で獄死した人物である。
この説明もわかりにくいのだが,早い話が,幕末初期で亡くなっている。幕末ものの大河ドラマならば,出番は少なく,5話くらいまでで退場してしまうはずである。
それくらいマイナーな存在である。
その橋本左内は,短い人生の中で,1冊の著書を残している。それが,「啓発録」である。
これは橋本左内が数え年15歳の時に,自分自身を励ますために書き記したものである。つまり,人に読ませる本ではない。本と言うより,作文に近いかもしれない。
その「啓発録」に,「稚心を去る」という一節がある。
稚心を去る |
ここのところを引用し,稚心を去る大切さについて話をした。
これを書いている自分自身も,まだまだ稚心を去れていないことも話した。
思うに,近年の日本は,稚心を去れないと言うか,大人になることが難しい社会な気がする。幼稚な人が増えた気がしてならない。テレビメディアの報道する内容が幼稚だから,受け手の大衆が幼稚なのか,それとも大衆の幼稚さに合わせてテレビも幼稚になっているのかはわからないのだが,「幼いなあ」「未成熟だなあ」と感じることが近年,特に多くなった。
自分がオタクだから,オタクへの偏見はないはずなのだが,どうも最近のオタクを見ていると違和感がある。
オタクはオタクなんだけど,大人じゃないというか,“子ども大人”とでも言うのか,見た目は大人,精神は子どもという逆名探偵コナンみたいな人が増えているような気がしてならない。
ちょうど今,AKB48の「総選挙」と呼ばれるイベントがあって,好きなアイドルの順位を上げるためだけに100万円以上のお金を使う人がいるそうだ。
程々に楽しんでいる人もいると思うが,ここまでお金を使うというのは,はっきり言って金銭感覚が普通じゃない。どう考えてもおかしい。
今度規制されることになったけれど,ソーシャルゲームにおける「カード集め」もそうだ。
普通のカードじゃない。携帯電話の画面の中にある,電子データだ。
それに毎月10万円くらい課金して払う。
ソフトウェアそのものではなく,ソフトウェアに付随するただの電子データごときに10万円とは,これもおかしい。
冷静に考えると,子どもの頃に流行したビックリマンチョコのシール集めに似ている気がする。
思考が,金銭感覚が,お金の使い方が,子どもじみているのではないのか。
稚心を去っていないのではないのか。そんなことを思ってしまう。
稚心を去ることが大切なのだから,社会の幼児性は糾弾されてしかるべきだ…と思うところもあるのだが,同時に「大人になることを強いる社会」というのは不安定であることも指摘しておきたい。
つまり,橋本左内の生きた時代というのは国難の時代である。それこそ,国が滅ぶか否かという時代である。そういう時代は,「大人」になる人が多いようだ。
決して戦争を美化するつもりはないし,現在の価値観では否定的にとらえられがちだが,かつての「軍人」の中に,現在では考えられないほど立派な考えをもっていたり,気骨のある人がいたりする。(もちろん,どうしようもない軍人もいた。)
現在も確かに国難の時代なのだが,明日の命もしれない切迫感は社会全体にはない。
そうなれば,成熟の必要性は薄いから,未成熟な人が増える。
35歳にしてまだフリーター,ぬくぬく暮らしてますというのが通ってしまう。
そして,未成熟な人が自然に成熟していく分にはあまり問題はないのだが,無理矢理成熟させようとすると,かなり悲劇的な結果を招く。
ニートの青年が,働けと言われたことがきっかけで口論し,家族を殺害した事例がある。人間が未成熟のままでいられる社会は,ある意味平和なのだ。
だが,このまま未成熟なままの人間がごろごろいて,いいわけがない。
教育で,家庭で,稚心を去る大切さを,早くから子どもたちに伝え,成熟した若者を増やすことが大切かなと思う。
森達也監督のファンである。なんて書くと違和感があるが,事実だから仕方がない。ファンであると自覚して,もう数年が過ぎている。でも,自分ではあまり人様にファンであることを公言しない。それは,まず多くの場合「誰?」という反応が返ってくるということもあるし,僕自身「ファン」を自覚しながら,監督の著作を全部買っているわけでもなければ,映画「A」も「A2」も見ていないのに「ファン」を名乗るのもなあ……という思いがあるからである。
でも,森達也監督のことはファンである。彼の書く文章の,朴訥とした味わい,人々への優しく,鋭い視点,自身の不勉強や鈍くささを隠そうとしない誠実な態度が好きなのである。
インターネット界における森達也監督の評価は,残念ながら,あまり芳しくない。曰く,「サヨク」だとか,「リベラル」だとか,そういうイメージで語られることが多い。実際,僕と森監督は主義主張にずいぶん隔たりがある。僕は9条改憲論者だし,北朝鮮や中国,ロシアに対する驚異論者だし,死刑存置論者だ。平たく言えばいわゆる「ネット右翼」だ。別に「2ちゃんねる」に書き込んでるわけではないし,在特会に接近するわけではない。一応「マンガ嫌韓流」もPART2までは買った。自分がネット右翼だと言われるのに違和感はあるが,実際,「ネトウヨ」と思想は似ているから,最近は「もうネトウヨでいいや」と思うようにしている。だが,自分がネトウヨといわれる違和感,要因のひとつは森達也監督への奇妙な尊敬にある。それは,いわゆるネトウヨの主張する「森達也はブサヨ(不細工なサヨク)だ」という主張に,賛同できないからである。
僕はその人の主義・主張よりも,その人と分かり合えるかどうか,ということを大切にしている。僕と同じ主張をしていても,分かり合えない人はいる。僕と違う主張をしていても,分かり合える人はいる。森監督は,おそらく,きちんと話せば分かり合えるタイプの人だろうなと思った。それが,ファンになった理由の一つだ。
森監督を知ったきっかけは,文庫本「放送禁止歌」である。僕は名古屋のローカルタレント・つボイノリオ氏のファンだ。つボイノリオ氏は,今はラジオのDJだが,昔は歌手で(今も歌手だと本人は主張している),「金太の大冒険」や「極付!お万の方」という歌を歌っている。前者は「金太」という少年の次に「マ」を,後者は「お万」という女性の後ろに「コ」を付けることによって,卑猥な言葉になるようにした曲だ。これらの曲は発売後数日で放送禁止になった。どうして放送禁止なのか,誰が放送禁止にしたのか,ずっと疑問だった。そこに森達也監督の本だ。すぐに買って,読んだ。その本自体につボイノリオ氏の記述は数行しかなかったが,岡林信康氏をはじめとする多くの歌手の「放送禁止」歌謡のエピソードや,日本人全体への思考停止への警鐘は僕の心を捉えた。
それから,森監督の著作を少しずつ読むようになった。偶然手に取った雑誌に対談があって,気になって買ったこともあるし,ネットのインタビューも森監督の筆ならば最後まで読むようになった。
だが,一方で「A」や「A2」は見なかった。見るチャンスはあった。数年前,ニコニコ動画に全部アップロードされていた。冒頭部分は見たが,結局見ないまま時が過ぎた。YouTubeなんかは,「職業欄はエスパー」や「放送禁止歌」のドキュメンタリー版がまるまる載っている。だが,見ていない。見る時間がないと言い訳しつつ,こういう原稿を書く時間は作っているから,見る気がないんだろうなと思う。森達也監督の文章は読みながら,「監督」の敬称の由来である映像作品を全く見ないのは,ファンとして少し奇妙であった。
そんな森監督が映画を撮ったことを知ったのは,1ヶ月ほど前のことだった。評論家・前田有一氏の映画レビューサイトで映画「311」が紹介されていたのだ。酷評と言うほどではないが,あまり芳しい評価ではなかった。一部引用すると,「本作最大の見どころは、森達也という日本を代表するドキュメンタリー作家でさえ、あの被災地ではこの程度の取材しかできなかったという、その一点にある。」と,指摘されている。
YouTubeで予告編を見てみると,ものすごい否定的なコメントがならんでいた。この映画が遺体を映した映画であるというところから,多くの人が拒絶反応を示していた。大まかな意見は「遺体を映して金儲けをしている」「最低の映画だ」「被災地の人たちの心を傷つける」といったことだ。脊髄反射的に書き込んでいるのだなあ,と思って苦笑いした。別に森監督のファンだから彼を擁護するつもりはないが,まず,ドキュメンタリー映画で金儲けなんてできるわけがない。過去,興行収入50億円以上の日本映画にドキュメンタリー映画は存在しない。公開される映画館も,名古屋では「名古屋シネマテーク」という,おんぼろビルの2階にある,小汚い映画館だけだ。だいたい,森監督のことだから,被災地の人々を傷つけることを承知の上で公開したに違いないし,それで森監督自身も傷ついているだろう。だから,否定的なコメントを見るたびに,違和感が募った。
個人的な信条だが,僕はどんな作品だろうと,きちんと見たり,読んだりした上で批判をするようにしている。「最低の映画」と書いた人は果たしてこの映画を見て書いているのか。たぶん,違うだろう。ならば,本当に「最低の映画」なのか,見てやろう。そう思った。あまり楽しい映画でないことは承知だが,地震があり,津波があり,原子力災害が起きたことは事実なのだし,その現実から目を背けてはいけないだろうとも思った。そして,名古屋シネマテークに森達也監督が来られると言うことも大きかった。僕は,「311」の鑑賞を決断した。
3月31日,夜8時半からの会に森監督の舞台挨拶があるという。家族から当日の朝10時から整理券が配られることを知らされ,朝10時に映画館でならんだ。そして,当日。ふだん,50人も入ればいっぱいになる名古屋シネマテークは,100人近い観客で埋まった。僕は3番目の整理券だったので,2列目の真ん中という特等席で見ることができたのだが,中には立ち見の人もいた。ここでもしも火災が起きれば,僕は死ぬなと,なんとなく思った。
そして映画が始まった。この映画はネタバレしたところで,見る人は見るだろうし,見ない人はきっと見ないから,ネタバレさせてもらうが,前半と後半に別れている。前半は福島県に潜入し,警戒区域内部に入り,原発を目指すところ。後半は,岩手県の陸前高田と大船渡と,宮城県の石巻といった被災地を見て回るところだ。震災発生から2週間後,とりあえず確認するために,福島原発を目指した森監督はじめ4人の映画監督たちのドキュメントだ。原発が近づくにつれて,どんどん上がるガイガーカウンターの数値に驚きを隠せない男たち。「怖い」と言いながら,どこか楽しそうにも聞こえる。高いところに登って,下を見ながら「うわー,怖い」と言っているように近い感覚だ。
ワークマンで防護服やゴーグルを買い込み,車の内部をビニールで防護して,さあ原発まで5kmと迫ったところで,事件は起きた。タイヤがパンクしたのである。スペアタイヤに取り替えて「とりあえず戻ろう」と戻ってタイヤを修理したところで,テロップが出て,後半の物語に切り替わる。あまりの唐突さに場内では失笑が漏れた。
そして後半,陸前高田から始まる被災地の映像。これには圧倒された。被災地の映像はニュースでイヤと言うほど見たはずだが,大きなスクリーンで見ると,改めてものすごい圧迫感を感じた。何となく目頭の熱くなる思いがしたし,上映終了後に見渡すと,目の赤い人が何人かいた。ホテルの屋上から見渡した,陸前高田の町。白黒にすれば,そのまま焼け野原になった戦後の日本のような映像だ。一瞬で,町が焦土になったのだ。
そこからの映像は圧巻だった。特にクライマックスである大川小学校の場面はすごい。大手メディアでは流れなかった映像だと思うが,泥まみれになったランドセルや,学習用具が整然と並べられている。ほとんどのものが,持ち主ではなく,遺族の元に返るのだ。「孫ふたり……ひとりはまだ見つかってねえ」と,力無くつぶやく男性。74人の死亡・行方不明という文字ではなく,一人ひとりの悲しみが記録されていた。
この大川小学校の裏には,山があった。母親たちは「何であの山に逃げなかったんだろう」「この憤りをぶつける場所がない」と嘆く。遺体のあると思われる場所を掘る重機は1台だけ。「もっと重機が必要」と,母親たちは訴える。その訴えに,掛ける言葉を見つけられないまま,かみ合わない言葉しか発せられない森達也監督の,「カッコワルイ姿」が生々しく記録されていた。
問題の,遺体が映る場面はラストシーンにある。といっても,そんなに騒ぐほどのシーンではない。収容された亡骸を,遠目から撮っただけで,近くからまじまじと撮影したわけではない。フォーカスもずれている。その後,関係者との口論は迫力があったが,正直言って,このシーンはカットしても差し支えなかったと思う。そして,92分の映画は終わる。
僕の感想は,見てよかった,である。喜びや,さわやかな感動ばかりが感動ではない。重い感動,悲しい感動というものが,必ずある。「311」は,重い感動を見た人に感じさせる映画だと思った。
一方で,編集はもっと練ってもよかったのかなと思った。結局原発に突入できないのなら,いっそ福島のカットは没にして,ファーストカットは陸前高田のホテル屋上からはじめるとか,いろいろ手はあったと思う。
上映終了後,森監督と,安岡監督のトークショーがあった。僕も僭越ながら質問した。前半と後半の切り替わりがあまりにも唐突なこと,福島原発への取材を諦めた本当の理由は何か。森監督の答えは正直で誠実で,そして素っ気なかった。「タイヤのパンクだけが原因です。」場内は再び失笑に包まれた。安岡監督がフォローする。「もし,トラブルがあっても,携帯電話は通じないし,JAFも来られない。撤退を決断したのは僕です。」森監督も続けた。「原発に行って,何かしたいわけでもなかったし……。」確かにそうだ。見るだけなら観光である。とはいえ,いまさら福島に行き,何が伝えられるのだろうか。この映画だけでは何か足りない,やるからにはパート2を作るのかという質問は,封印した。
森監督と,安岡監督のトークは面白かった。「この映画はOKとNGが逆なんだよね」と話す。確かにそうだ。その気になれば,当たり障りのない映像だけで90分の作品を作ることは,安岡監督や森監督の技量なら必ず出来るだろう。それを敢えて選択せず,当たり障りのある映像で仕上げたことには,メディアの問題点を提起する森監督の「らしさ」があった。
詳しくは本がありますので…というので,『311を撮る』(岩波書店)を迷わず買った。森監督と,安岡監督にサインを頂いた。
「ファンです。見てよかったです」と僕。「本当ですか?」と森監督。「んー,まあ,もう少し編集は練った方が…」馬鹿なことを言ってしまった。好きな人の前で素直になれない小学生みたいな発言である。
家に帰って,すぐに森監督のところの原稿を読んだ。監督自身の戸惑いが,いつもの文章で書かれていた。買ってよかったし,映画の足りないところはこの本に書かれている。映画で憤った人も,冷静にこの本を読んでほしいと思う。
Twitterで何かつぶやこうと思ったが,140文字でこの映画の感想を書くことは不可能だった。それならば,ウェブサイトで,コラムとして,堂々と書こう。そして,書くからには,この文章をそのまま森監督に,ファンレターとして送ろう。そういうわけで,僕はこの文章を書いた。見る人を選ぶとは言え,すごい作品を作った森監督への賛辞と,サインを頂いた謝辞である。願わくば,原発の警戒区域が1年経ってどうなったかとか,被災地が1年経ってどうなったかといった,「311」のパート2を作ってほしいと思うが,ドキュメンタリー映画がどれだけペイしないかということもあるので,ルポタージュという形でも有りだろう。森監督の次回作に注目していきたい。
この前,殺人事件のニュースを見ていたら,被疑者の動機が「押し買い」だった。
「押し売り」は聞いたことがあるが,その言葉は聞いたことがなかったので,記事をよく読むと,被害者の指輪やネックレスなどを,被疑者は無理矢理安く買いたたいていたそうで,それを「押し買い」と言ったらしい。
「押し売り」という言葉を最近聞かなくなった。
電話はよく掛かってくるが,わざわざ家に来てどうのって話はずいぶん少なくなった気がする。
だが,一方で,私たちはテレビを通じて様々な押し売りを受けているとも言える。
そう感じたのは去年の大晦日だった。
私は大晦日に出かけていて,夜の9時くらいからテレビをつけたのだが,まず見ていたのが「ガキの使い」の「絶対に笑ってはいけない空港24時」である。
これはわざわざ書くことでもないが,ダウンタウンのふたりをはじめ,いろいろな笑えるシチュエーションでも笑ってはいけない,笑ったら笑った芸人がお仕置きを受けるという番組だ。
確かに面白いし,私も笑った。
だが,冷静に振り返ると,ある意味で「笑いの押し売り」だった気がする。
シチュエーションで笑っていると言うよりも,ダウンタウンが笑うか笑わないか,お仕置きが来るか来ないかで笑っていたようなところもあって,笑いという意味では少しベクトルの違う笑いではないかと思った。
実際には笑っていたのだし,つまらない時間よりは,押し売りの笑いでもいいような気もするが,いわゆる「落語のおかしさ」ではない笑いに,違和感は消えなかった。
チャンネルを変えると「紅白歌合戦」である。
こちらでは,「絆」や「歌の力」という言葉がものすごく使われていた。
予想はしていたことだが,東日本大震災の被災地での中継があり,「がんばろう日本」的なフレーズが何度も出てきた。
これは,「感動の押し売り」である。
よくよく考えてみると,近年の日本では感動が押し売りされている気がしてならない。
映画でも,テレビドラマでも,あるいは本屋でも,「感動」の言葉がならぶ。
そして,多くの場合は「人との絆」が強調されたり,人が死んだりする。
感動とは何であろうか。「感じて動く」と書く。何が動くのか。当然,「心が感じて動く」という意味であろう。
では,心が感じるとはどういうことであろうか。
最近,その人,つまり受け手の人生にオーバーラップするものが感動ではないかなと思うようになった。
たとえば,私は年末年始に「ロッキー4」を見た。
私は,ラストシーンでロッキーが叫ぶ「誰でも変われるはずだ」というセリフに感銘を受けた人なのだが,あのセリフは「安っぽい」「興ざめする」と否定的な人も多い。
それは,自分自身が「変化への渇望」みたいな感情を抱いているからであり,その感情と,スタローンのセリフが被るので感動したのだと思う。
したがって,「別に今のままでいいじゃん」的な考え方の人が見れば,あのシーンは蛇足だと思うだろう。
だから,「ロッキー4」の否定的な意見も然りだと思うし,反論をするつもりはない。
第1作「ロッキー」のような感動ではないわけだし。
創作作品で人を感動させるには,受け手の人生にオーバーラップさせる必要がある,ということは,作品を当てるためには,多くの人の人生にオーバーラップさせる,普遍的な物語をやらねばならない。
そういうわけでここ最近の日本映画で行われるのは,「人死に」映画である。
私も今年で30歳になるのだが,30年も生きていれば身近なところで「死」が出るようになる。
友人に父や母を亡くした人もいるし,祖父母を亡くした人もいる。
映画の中での「死」と,その人の持つ「死の記憶」が被さると,涙腺は崩壊し,号泣することになる。
その映画が決して名作だったわけではないのだが,その場で泣いてすっきりすると「なんかいい映画だった」という気分になる。
そうして,「愛と感動の」みたいなキャッチコピーが巷にあふれることになる。
実際にそういう映画が名作ではないことは,たとえば「世界の中心で愛を叫ぶ」や「今,会いにいきます」や,そのほかの「人死に映画」の現在の評価を考えればわかることである。
その時売れている物でも,未来永劫残るような名作にはなり得ない。
そりゃそうだ。ある意味で感動を押し売りされているのだから。
もちろん,「押し売りする」作品が全くダメなわけではない。
事実,あの紅白歌合戦で感動した人は少なからずいたらしい。
「絶対に笑ってはいけない」も,大笑いしながら見ていた人がほとんどだろう。
その時,押し売りだろうと,喜んで買う人は確実にいるし,その人のために今後も押し売り作品は作られ続けるだろう。
だが,私のように「押し売り」に辟易している人がいることも確かなのだ。
そのためにも,「押し売り」ではない作品を,少しは続ける努力を欠かさないでくれたら,と思う。
2012年も当サイトをよろしくお願いします。
今年こそは「年3回更新」なんてことを言わず,隔月更新くらいはしたいなあと,正月早々福袋に関するネタを書き始めて,同じネタが「さよなら絶望先生」で使われていたことに気付いて没にするという,今年の当サイトを暗示するような滑り出しをしております。
二谷英明さんの訃報が入ってきまして,ここ数年療養生活をされていたことは知っていたんですけれど,亡くなられたというのは本当に残念です。
DVDがはじめて出たとき,特捜最前線は物故者がいなかったんですが,夏さん,長門さんに続き,二谷さんまで…。
Twitterに書いたんですが,亡くなられた7日夜に偶然,「特捜最前線」の第2話「故郷に愛をこめて」を見ていて,やっぱり二谷さんはダンディだなあと思ってみていました。
もしかしたら,世界中のファンに,二谷さんが挨拶回りをされていたのかもしれません。
二谷英明さんといえば,「特捜最前線」の神代恭介警視正役が真っ先に思い出されます。
特撮ファン的にはマイティジャックを挙げるべきなのかもしれませんけど,子どもの頃から「特捜最前線」を見ていた自分にとって,二谷さん=神代警視正でした。
あれは小学生でしたか,はじめて見たときのオープニングで「神代警視正」って出たときは驚きました。
推理小説では普通,出てくるのは「警部」で,「警視正」なんて,レスキューポリスシリーズくらいでしか目にしない階級なんですよね。
だからなんだか,「格好いいなあ」って思って見ていました。
はじめて見たエピソードが177話「天才犯罪者・未決囚1004号!」で,2回目に見たエピソードが179話「面影」。
この「面影」は二谷さん演じる神代警視正の主役エピソードでした。
ファンの間では人気が高くて,DVDにも収録されているんですけど,「天才犯罪者〜」はすごく面白かった反面,「面影」は今ひとつな印象がありました。
小学生には長坂脚本のスリリングな展開はわかっても,石松脚本のわびさびはわからなかったんですね。
その次に何を見たかはイマイチ覚えてません。
確か「特捜最前線」の再放送を録画してたら,家族に「やめなさい」とたしなめられてしばらく「特捜最前線」から遠ざかったんじゃなかったかな。
今は「相棒」を見てますけど,「特捜最前線」は本当に面白いドラマでね,いろいろなドラマを見たけど,すべてのドラマの中でベスト・ワンですよ。
そうでなかったら,DVD-BOX全部買ってませんって。
あれは貧乏なときに出たから,お金を工面するのが実に大変で,出るのは嬉しい,買うのは苦しいっていう思い出があります。
でも買ったことは後悔してません。
神代警視正演じるエピソードはいろいろありますが,個人的に印象深いのは「凶弾」ですね。
娘さんが殺されちゃう話。
娘さんが撃たれて死んだ直後に,部下の津上刑事(荒木しげるさん)が「あんたが殺したんだぁ!」と怒る。
「特捜最前線」っていうと,部下が上司に食ってかかるシーンが多くて,神代警視正もよく食ってかかられていました。
「西部警察」だと大門部長刑事(渡哲也さん)に食ってかかろうもんなら即座にぶっ飛ばされてますけど,「特捜最前線」は違う。
なんて言うか,「大人の刑事ドラマ」ですよね。
「西部警察」も面白かったんだけど,「特捜最前線」は噛めば噛むほど味の出る,するめみたいなドラマなんですよ。
メイン主役の刑事は毎回違うけれど,その「味わい」を支えていたのは,やはり主演である二谷さんだったと思います。
石原裕次郎さんや,丹波哲郎さん,渡哲也さんとは違う,アダルトな風格は二谷さんしかあり得なかったと思います。
今は若いことが正しいことみたいな価値観があって,女性で言うと「美魔女」とかね,男性も若々しくが合い言葉で白髪を染めたり,若者の服装をしたりで,二谷さんみたいな「美しい加齢」をする人が減ってきた気がします。
ロマンスグレイの俳優さんって今,減りましたよね。
個人的な感覚なんだけど,いつまでも若く,ではなく,年齢とともに変化する美しさを受け入れていくべきなんじゃないのかな。
DVDのブックレットに二谷さんの昔のインタビューがあって,「40過ぎたら男は中身」っていう言葉が印象に残っています。
これを書いている人間に中身が伴っている…とは思わないんだけれど,少しでも中身が伴えるように,今後もがんばっていきたいとは思います。
そういうことを感じさせてくれた,「特捜最前線」との出会い,二谷さんとの出会いには,感謝しています。
二谷英明さん,すばらしいドラマをありがとうございました。
お疲れさまでした。
天国で長門さんや,夏さんと,新しい「特捜最前線」を作っていただければと思います。
心よりご冥福をお祈りします。