Things We Said Today
〜今日の誓い〜
今日のはちと書きにくい。
自分の中ではそれなりに勇気がいったことだが,家族や他の人にとっては「当然のこと」だろう。
別にジマンするつもりがあるわけでもない。
ただ,今日やったことに至った心境を,自分の中で残しておこうと思ったから書いておく。
だから,これを読んだ人が僕と同じことをしたって,しなくたって,それはその人の自由だろうし,それを強制するつもりはない。
身の回りに色々なものがあふれるようになった。
デスクの足下には文庫本が積み上がり,本棚はあふれそうだ。
天袋の中はプラモデルが大量にある。
「そのうちなんとかせんとなぁ」と思いながら,「そのうち」が来ないまま時間だけが流れた。
「きっかけ」は些細なことだった。
仕事上のトラブルがあって,周りの人にアドバイスを求めたとき,「まず自分が変わらないと,周囲も変わらないよ」と言われたことだ。
自分の何をどう変えればいいのかよくわからなかったが,上司から冗談交じりに「人としての魅力に欠けるね」と言われた。
「うまくいかないということは,なにかあなたに足りてないんだよ。」と。
「いや,そんなことはないよ」という人もいるだろうが,現実,半分冗談でもそういうことを言う人がいると言うことは,なにがしか自分に問題があるのだろう,なにが問題なのか,まず自分でわからなければいけない。そう考えた。
そんな時に出会ったのが,話題の僧侶・小池龍之介氏の著書『考えない練習』(小学館)だった。
昨今話題になっているので知っている人も多いと思うし,同時に「うさんくさい」と思う人がいることも承知している。
その本の中に「捨てる」という項目があった。
その項目のところで私の心をとらえたのが「無自覚的にものを増やしていくと,必然的に人格も悪化します。」という言葉だ。
くわしくは書けないが,これにはすごく思い当たることがある。
僕は「無自覚的にものを増やし,人格がどんどん悪化していった人」を知っている。
もちろん,ものが増えただけが原因ではないのだろうが,少なくともその人の「ものの増え方」と「人格の悪化」が正比例していたことを考えると,僕は大変怖くなった。
もしかすると,ものをため込むことによって,僕は知らず知らずのうちに,どんどん人格を悪くしていたのではあるまいか。
気づかぬところで,人様にいらぬ迷惑や,心配や,不快な思いをさせてしまったのではあるまいか。
現実問題,ため込んだプラモデルは家族の迷惑になっていたし,本棚に入りきらない本も家族にとっては迷惑なものだった。
家族だから迷惑をかけてもいい,という道理はないだろうし,このプラモデルをすべて作り上げるまでに果たしてどれほどの時間が必要であろうか,と思った。
そういえば亡くなった今敏監督も,生前,身の回りのものを捨てたらすっきりしたとブログに書いていた。
よし,捨てよう。
…と思うのだが,そこでまたオタクゆえの強欲なカルマが鎌首をもたげて「でもなぁ〜」と突っ込んできた。
「作った奴らは残そうぜ」「組み立て途中の奴らは残そうぜ」実に現実的なところで突っ込んでくる。
まあ,確かに,一度に全部,何もかも捨てることはできないだろう,とは思った。
今監督だって全部捨てたわけではなかった。
プラモデルにしても,マンガにしても,今回で何もかもすべて捨てることは無理だ。
それこそ,本当にお坊さんになるとか,結婚をするためカミさんからそういうものを捨ててと言われるとか,そうでもないと無理だろう。
いきなり100%でなければというのも極端だ。多少は残っても,まず,目の前のものを減らそう。
だから,ごく一部は残すことにした。
たとえば,友人が誕生祝いに贈ってくれたMGガンタンクは残したし,「せめてこれは組み立てたいな」と思ったキットも,3つくらい残した。
ただ,完成品や組み立て途中の奴らは処分した。
完成した奴らは所詮素組みである。その気になれば,もっといいできばえで作れる。
改造途中の奴らも,見ていると「ここはこういう改造じゃない方が」「ここはしくじっている」とアラが目立って,耐えきれなかった。
プラモデルは改造途中で放置してはいけない。改造したら,早いところ完成させないとダメだ。
マンガも大量に売った。
その中で,特に気に入った作家さんとか,気に入った単行本を数冊だけ残した。
何年も読んでいなかった作品は思い切った。
「MMR」はもうよかろうと思ったし(だいたい1999年は10年以上前に通過したのだ),「シャインズマン」や,「ガンダム」のムック,映画のパンフレットも処分した。
一方で「めぞん一刻」や,「かってに改蔵」は残したし,まだ完結していない「絶望先生」や「ケロロ軍曹」は残した。
ひとまず本棚からあふれた文庫本はすべて本棚に収まったから,目的は達せたと思う。
すっきりしたかと言われるとよくわからない。今感じているのは疲れが多少あるくらいだ。
考えてみれば,お金を出して集めたものばかりだ。どうしても必要ならばまたお金を出せばいいことだし,ここ数年必要でなかったから,たぶん必要ないだろう。
そう考えると,なんだか「捨てる勇気」が沸いてくるようだった。
マンガをしばりながら,「コレクションだったのかな」と,ふと考えた。
いや,別にマンガコレクターではないが,そういえば作家をそろえるみたいなことはしていたなあ…と思った。
作家がひとりとか,ふたりのうちはよかったが,いつしかそれが増えた時,本棚がえらいことになったわけで,自分の無自覚さに反省した。
敢えて書くが,僕はきっと,またものを増やすだろう。
現代は無自覚にものが増える社会だ。
雑誌,服,CD,マンガ,書籍,プラモデル,書類……。
買わなくたって送られてくるものもあるし,買う必然に迫られて買うものもきっとある。
何より,これまでもものを増やしてきた男が,「もうものは増やしません」なんて書いて,自分でも守れると思えない。
「もう覚醒剤はやりません」と言ったタレントがまた捕まるのと同じである。
大切なのは,もちろん,ものを増やさないこともあるのだが,自覚的にものを捨てることにあると思う。
なので,こう書く。
「ものは今後も多少は増えます。でも,ちょこちょこ意識して捨てるようにします。」と。
朝方,朝食前の日課になっているニュースサイトのチェックをしていた。
興味があり,かつ新聞に載っていないようなトピックをさっとチェックするのだが,その中に「訃報:今 敏監督が死去か」という見出しがあった。
そんな馬鹿な。まだ若い。そういえば,「古谷徹さんが死去」ってネタが広まって,実は古谷さんのお母様だったと言うことがあったなあ。
実際,見るとニュースソースがTwitterのつぶやきだった。
今 敏(こん・さとし)監督の訃報についてツイートしているものがあった。
そのツイートの主が,たとえガイナの武田さんとゆうきまさみ先生であろうとなにかの間違いに違いないし,なにかの間違いであって欲しいと思っていた。
事実,8/23までブログも書いているし,Twitterもツイートがあるのだ。
仕事をしながら,ちょくちょくネットのニュースを見た。
さすがにゆうきまさみ先生が「死去」と断言されていると本当だろうが,いったいなぜだ,なぜなのだと気が急いた。
事故か。事故ならば救いきれない。自殺か。それだけはダメだ。卒中か。それはあり得るなあ。色々,覚悟をしていた。
そして午後15時,「今 敏監督,膵臓癌に死す」との一報を知った。
言葉を失った。
2002年9月28日。
映画のタダ券を使うために母とふたりで出かけた映画館で,何気なく見た映画が「千年女優」だった。
衝撃だった。
同時期にやっていた「千と千尋の神隠し」が,かすんでみえた。
オタクのタワ言かもしれないが,「千と千尋の神隠し」では感じなかった,背筋の奥がゾクゾクする感覚を,映画館で味わった。
「東京ゴッドファーザーズ」は都合が悪く劇場で見られなかったが,DVDを買った。
アニメ映画のDVDを買ったのはこれが初めてだ。
「パプリカ」は,冒頭,平沢進先生の音楽に合わせて,スタッフクレジットの中を主人公が走り回る姿に感動した。
個人的には,「パプリカ」の冒頭はアニメ史に残る傑作映像だと思っている。
あまりにも感動したので,人生ではじめて(そして今のところ最後),映画館に2度行くということもやった。
どう考えてもその1800円を貯めてDVDを買えばいいのだろうが,DVDまで待てなかったのである。
それほどまでに「パプリカ」は私を熱狂させた。
その後も機会があるたびに,今 敏監督のすばらしさについて語らせていただいた。
「アニオタ名乗ってるなら千年女優は見ないと!」みたいなことを叫んだこともある。
「ジブリもピクサーも今 敏監督には叶わないぞ」などと,売れているものに悪態をつかせてもらったこともある。
ただ泣いて終わるのも…と思ったので,時間を作って「パプリカ」のDVDを見た。
ラッシュまで仕上がっているという新作「夢みる機械」がもしも(考えたくないが)お蔵入りになったなら,これが映画の遺作になる。
林原めぐみ氏を主役に抜擢し,ヒーロー声の古谷徹氏を巨漢の科学者にキャスティングしたことが話題だったが,改めてみて,本当に今監督は映画が好きだったのだろうなと思う。
随所に見られる名作映画へのオマージュやパロディ。
ラストシーン。
「夢見る子どもたちって映画,面白かったのでオススメです」
衝撃だった。
新作は「夢みる機械」。
すでに,「パプリカ」の頃から構想はあったのだろう。
見終わってからゆっくり読んだ監督の遺書。
泣けた。
涙が止まらなかった。
膵臓癌,骨転移,もって半年。飄々とした文章だったが,きっと,いくつもの絶望を乗り越えたのだろう。
力強い言葉に,私自身が励まされているようだった。
私がしたことは,情けないことに,神様に悪態をつくことだった。
いろんなものに悪態をつく人だけれど,とにかく悪態をつくことしかできなかった。
なんで今監督を連れて行くんだバカヤロウ。
もうちょっと,この世界で好き勝手に暴れさせてからでも,よかったんじゃないのか。
少しばかり早すぎるんじゃないのか。
才能のある人を,そんなに近くに留めたいのか。
監督と小学校の同級生だった漫画家の滝沢聖峰氏は,ブログで「ご冥福をナントカなんて書きたくない。なぜ死んだバカヤロウ」と述べた。
全く同じ気持ち。「ご冥福を」なんて,残念で,悔しくて,悲しくて,軽々しく言えない。
壮絶に,誠実に,一心に癌に向き合って,「じゃ,お先に」というメッセージを残した今監督。
漢字は違うけれど,偶然にも同じ名前「サトシ」を持つ私にとって,大好きな監督だった。
いま,今監督に言えることは,「すばらしい作品をありがとうございました」しか,ない。
そして,マッドハウスと「夢みる機械」のスタッフには,何が何でも「夢みる機械」を完成させて欲しいと思っている。
「夢みる機械」を劇場で見て,はじめて「ご冥福をお祈りします」と書ける気がする。
だから今日は「ありがとうございました」
そして,「あちらで予算を気にせず,たくさんの作品をつくってください。」
それだけを,書きたい。
オタクがライト化しているらしい。
実際,若い「オタク」と話していると,色々と違和感は感じる。
その違和感を「ライト化」と言われると,「まあ,そうかもね」という感じにはなる。
ただ,かくいう私も「ライト化したオタク」のひとりだから……みたいなことを言うと,周囲から猛烈な勢いで否定された。
友人曰く,「ライト化した今時のオタクとお前は違う」と。
いやいや,でも,私は特に「○○オタク」とか名乗れないじゃないのと否定するのだが,「○○オタクでカテゴライズできないほど,専門が広くて深いんだよ!」と言われた。
ライトオタクは広くて浅く,私は広くて深いらしい。
そこまで深いわけでもないと思うのだが,周囲が「深い」と思うのだから深いのだろう。
もっと深い人が世の中にたくさんいることは心得ている。
逆に,10代くらいの「オタク」的な人と話していると,「あなたは本当にオタクなんですか」みたいなことを言われる。
確かに,らきすた見てない,涼宮ハルヒ見てない,ガンダムOO見てない,けいおん見てない,「オタクじゃないんじゃね」となるのはむしろ当然だろう。
私がオタクであろうと,なかろうと,私が私であることは変わらないのだから,そういう質問(詰問か?)も気にならない。
「俺がオタクかどうかなんて俺が決めるわけじゃなくて周りが決めることだから,オタクじゃないなら,それでいいよ」と笑いながら言った。
全体的に感じるのは,アニメが好きというより,アニメについて話しているのが好き,という感覚だ。
私なんぞはどれだけマイナーで知名度が低かろうと「ブレンパワード」は名作であると信じているし,ビデオテープはすり切れるまで見て,見られなくなったので仕方がないからDVDを買って見まくった。
そこまでやったところで,周囲は誰も「ブレンパワード」を見ていないから,話しようがない。
でもいいのだ。私が好きなのだから。
最近の人を見ていると,人とつながる道具として「アニメ」を見ている感じがする。
別にそのアニメがそれほど好きというわけではないんだけれど,その集団で全員が見ているから見ている。
小学生時代のコロコロコミックやファミコンソフトみたいなものだろうか。
それでも,ほかのものより「アニメが好き」「マンガが好き」「ゲームが好き」なのだろう。
その「好きです」という気持ちは純粋なものだろうし,否定しない。
心の底から明るく,「俺,アニオタです!」って宣言できるのはすばらしいことだと思う。
よく言われる「その程度でアニオタかよ」みたいなことは思わない。
別に当人が「俺はアニオタ」と思ってるなら,それでいい。
個人的には,私も昔そんなことを言ってたなあ…アレは痛かった。むしろなかったことにして欲しいと思うが,そんなことは彼らには言わない。
アニオタを広言することで,世間様に色々迷惑をかけることもあると思う。
実際私もずいぶんかけたし,これからも生きている限り,大なり小なり迷惑をかけるだろう。
私だってまだまだ,年上の人から見れば若輩者だし,「この若造が!」と思われることもあるだろう。
だから,「オタクのライト化」について,批判的なことは言わない。
ただ,好きでもないものを人に合わせて「好き」などと言って欲しくは,ない。
自分の好きなものをとことん追求していけばいいんじゃないかなと思う。
何気なく今日知ったのだが,「星雲賞」の自由部門にて,「RG 実物大ガンダム」が受賞したらしい。
作品に対して受賞したわけではないのだろうが,これにはとにかく驚いた。
なにしろ,星雲賞のガンダム関係受賞はないだろうと思っていたからだ。
星雲賞とは,くわしくは検索してもらえればいいのだが,日本のSFファンが投票で選ぶもので,小説やメディアなどから「SFファンに認められたもの」が選ばれる。
このサイトの読者のどれほどがガンダムファンであり,かつ,「ガンダムとSF」の因縁を知っているかわからないが,とにかくガンダムファンとSFファンは仲が悪い。
元々「機動戦士ガンダム」は,「十五少年漂流記」を翻案した「フリーダム・ファイター」という宇宙戦闘機が活躍する冒険活劇だったのだが,スポンサーのクローバーから「ロボット出してください」の一言で「ガンボーイ」というロボットアニメになった。(「ガンボーイ」の名前が最終的に「ガンダム」になり,現在までに続編が作られていることは言うまでもない。)
その「ガンボーイ」が生まれるきっかけになったのが「ダーティペア」「クラッシャージョウ」で知られる,SF作家の高千穂遙氏。
高千穂氏がサンライズに貸した「宇宙の戦士(スターシップ・トゥルーパーズ)」に出てくるパワードスーツがモビルスーツのネタになったのだ。
このほか,ビームサーベルは「スターウォーズ」のライトセイバーが元ネタになっている。
つまり,ガンダムはSFにかなり深い関係を持って誕生したことになる。
では,なぜSFファンとガンダムは仲が悪いのか。
それは,この高千穂氏が,ガンダムブームの最中に発言したのが「ガンダムはSFではない。」という発言に原因がある。
この発言については,数年前にガンダムエースのインタビューにて「ガンダムはSFとは異質の作品だととらえていたのであって,ガンダムを否定したのではない」という高千穂氏本人の弁解が出ている。
実際,当時を知るファンがウェブサイトにて「あれは高千穂氏の発言が一人歩きした不毛な論争だった」と述べている。
私は当時を知らないが,高千穂氏は松本先生にも噛みついているらしいし,多少なりとも「売れている作品へのやっかみ」があったのではないか,だからこそ「ガンダムはSFではない」という,言葉が一人歩きしかねない文言を使ったのかなと思っている。
作家ならば,「一人歩きしかねない表現」について気を遣うだろうし,ある程度わかってて言ったのではないか,と思う。いや,深く考えずに言ったのかもしれないが……。
もちろん,高千穂氏は「ガンダムを質の低い作品だ」とこき下ろしたわけではないが,当時のファン(オタク?)曰く「SF=高尚」「SFでない=低俗」という不文律が存在したらしい。
結果として,「ガンダムはSFではない」=「ガンダムは高尚ではない」=「ガンダムは低俗で低質な作品」という論法が成立し,ガンダムの好きなファンからは「いや,ガンダムはSFだ」=「ガンダムは高尚な作品だ」という論争が起きてしまったのである。
そんなもの「俺はガンダムが嫌い」「僕はガンダムが好き」で済んでしまうはずなのだが,とにかく,あの当時からオタク同士で,今の掲示板みたいな不毛な論争が繰り広げられていたのだ。
その後,SFファンとガンダムファン,どちらがサブカルチャーにおいて多数派となったかは,わざわざ書くまでもない。
岡田斗司夫氏が自戒を込めて書いているが,古参のSFファンが新しいファンに対して「SFマインドがなってない」とシメたり,「設定がどうの」とご高説をたれて,新しいファンが逃げ出した。
結果,アニメにファンが流れ,SFファンは絶滅危惧種になった。
現にあなたの周りにハインラインやウェルズやブラッドベリやアーサー・C・クラークを全部読んでいる人がいないのと同じである。(俺は読んでるという人がいたらゴメンナサイ)
ここら辺はプラモデルファンも同じで,スケールモデラーの中の,ごく一部のミリタリーオタクが,「軍事設定」への文句をつけることから,スケールモデラーが絶滅危惧種になり,プラモデルをやる人がこぞってアニメモデルに流れ,ガンプラがプラモデルの頂点に君臨する結果を招いた。
現在,一部のガンダムオタクから,「一年戦争を知らないでガンダムオタクを名乗るのか」「ダブルオーはガンダムじゃない」みたいな言説を聞くが,歴史の流れを鑑みるに,そういう発言はガンダムを殺しかねない発言であると思う。
そういう流れがあって,生き残ったSFファンはとにかく,ガンダムを毛嫌いした。
星雲賞は「宇宙戦艦ヤマト」が受賞した時点で「科学設定がどうの」みたいなことを言えないはずだが(実際,黒歴史らしい),その後も「ウルトラマンティガ」「機動戦艦ナデシコ劇場版」「仮面ライダークウガ」「特捜戦隊デカレンジャー」「マクロスF」と,見事なまでに「ガンダム以外のメジャータイトル」が受賞する中,かたくなにガンダムを避けているのである。
星雲賞の年表を見ると,1982年メディア部門に「該当作なし」というのがあり,本来ここに「機動戦士ガンダム」が来るはずだったのだろうと思う。なぜ受賞していないかは,前述の通りだ。
実際,今年の星雲賞ノミネート作品に「機動戦士ガンダムUC」は見あたらない。(来年はノミネートされるのか?)
SFファンの中で主要なポジションにいる人にとって,「ガンダム」というのは複雑な感情を抱かせる作品だと思う。
あの論争から30年。「もうどうでもいい」SFファンもいるだろうし,「そんなこともあった」と思うSFファンもいるだろうし,その論争を知らないSFファンだっているだろう。
「ガンダムはSFではない論争」以後,あるSFファンによれば「日本のSFはダメになった」らしい。
そういう事情を知る人にとって,ガンダムが星雲賞を受賞したというのは,多少なりとも驚きを持って受け入れるニュースであると思う。
ところで,自由部門における「実物大ガンダム」の対抗馬なのだが,「神戸の鉄人28号」「セカイカメラ」「ラブプラス」だったらしい。
ラブプラスが星雲賞を受賞したら,別の意味で日本のSFが終了するところだったと思うのは私だけだろうか……。
※もちろんラブプラスがSFでない=低俗というわけではないので念のため。私はやっていませんが,私の友人は今度姉ヶ崎寧々さんと結婚する(結婚した?)そうです。お幸せに!
※公開前の映画だろうと何だろうと容赦なくネタバレするのが当サイトのポリシーなので,お気をつけ下さい。
いつだったか大学の後輩に言われたことがあります。
それは「先輩の頭の中は,未だに昭和だ。未だに80年代だ」というもの。
そのときの私の返答は,「2005年から昭和80年代に突入なんだよな」。
というわけで昭和80年代にふさわしく,1980年代に世界的にヒットした「特攻野郎Aチーム」が映画になって帰ってきました。
「え,公開は来週では」という人,正解です。
先行レイトショー行ってきたんですよ。来週から仕事やっちゅーねん。
Aチーム知らない人のために説明しておくと,「特攻野郎Aチーム」は,ぬれぎぬの汚名を着せられたベトナム帰りの特殊部隊が地下に潜り,道理の通らぬ世の中に,金次第で挑戦する「必殺仕事人」となって次々悪人をお仕置きしていくテレビドラマです。
隊長は「ハンニバル」ジョン=スミス大佐。変装の名人で,奇襲戦法の名人。自称天才策略家で,常にトンデモアイデアを思いつくナイス・ミドルです。
その副官が「フェイスマン」テンプルトン=ペック中尉。達者な口と甘いマスクで装備品を次々調達。女性も片っ端から口説きまくります。
チームの航空担当が「クレイジーモンキー」H・M=マードック大尉。精神病院から脱走した天才パイロットで,奇人・変人です。「だから何?」
メカニックと腕っ節担当が「コング」ことB・A=バラカス軍曹。メカの天才ながら,飛行機が嫌いという設定です。
シーズンごとに新聞記者がいたり,特殊効果マンがいたりしますが,そこら辺は忘れていても支障はありません。
本作ではベトナム帰りではなく,イラク戦争末期の現代が設定されてます。
また,原作では第1話から全員「Aチーム」でしたが,本作ではチームが結成されるところからはじまります。
チームのあだ名は,英語版で使われた「ハンニバル」と「フェイス」は使われてますが,「クレイジーモンキー」と「コング」は使われていません。
メガトロンは残ったけど,コンボイがオプティマスプライムなのとの同じ流れです。これは致し方ない。
本作では,チーム結成の際,コングがクレイジーモンキーのヘリにビビり,飛行機恐怖症になると言う設定が加わりました。
で,あとは……毎度おなじみAチームです。
自らの汚名をすすぐために奮闘する(ところで「汚名を晴らす」は違うらしいぞ。ATOKは賢いな!)Aチームが,所狭しと暴れまくる。
本作では完璧すぎるリーダー・ハンニバルではなく,フェイスの成長とロマンスにスポットが当たってます。
ここら辺,原作ファンからは不満が出るかもしれません。出番がないのは仕方ないものの,コングのバンもぶっ壊しちゃったしね。
脚本の荒唐無稽さ,原作との相違点などをあげつらって叩けばきりがないでしょうが,個人的には面白かったし,良かったと思ってます。
最近のハリウッドは「トランスフォーマー」「スタートレック」「ゲットスマート」など,昔の人気ドラマを映画にしていますが,それぞれ原作へのリスペクトと,ただ原作をなぞるのではなく,「新しい作品を創る」という意欲に満ちているのがすばらしい。
そして,エンドクレジットで流れる「特攻野郎Aチームのテーマ」!
いやあ,これこれ!これがないと!
非常に面白く,楽しめました。
そして,エンドクレジット後に登場するカメオ出演のダーク=ベネディクト(原作のフェイスマン)とドワイト=シュルツ(原作のクレイジーモンキー)。
ダーク=ベネディクトの吹き替えは,原作と同じ安原義人さんに演じさせるサプライズまでありました。
原作ハンニバルの羽佐間さんも出てました。
ドワイト=シュルツ氏は新マードックを見ながら「なんか似てるような…」とつぶやくのですが,もしも富山敬さん(95年に急逝)がご存命だったらなあ……と思わずにはいられません。
というわけで,エンドクレジット始まっても立ったらダメですよ!
「特攻野郎Aチーム」はいよいよ,来週公開。
毎度おなじみ「大当たりしたら続編ありそうなラスト」だったので,是非大当たりしてもう1本見たいと思います。みんな行っとけー!
今日の朝,ものすごい大雨で目が覚めた。近づいた台風の影響らしい。
昨日の夜,友人と飲んでいるときはまだ雨は降っていなかった。
そこで友人と話題になったのが,東海豪雨の話だ。
あれから10年になるんだね,と話した。
すでにこのウェブサイトはあったが,そのときの日記はちょっと今,見あたらない。
あったとして,特に書いた記憶はない。
それは,私は東海豪雨を体験していないからだ。
こう書くと多くの人が不可解に思われるだろうが,本当に私は東海豪雨を知らない。
東海豪雨は10年前,2000年9月11日夕方から12日早朝にかけて,東海地方をおそった豪雨災害のことを言う。
当時私は高校3年生。高校の文化祭が近く,多くの同級生や後輩が準備のために学校に残り,帰宅できない事態が相次いだ。
自宅から自転車で10分ほど行った場所では道路の冠水や浸水被害が発生したと記憶している。
その豪雨災害を,私は知らない。
その理由は,あの当時の私の精神状態にある。
このウェブサイトが開設されて11年。
11年間,ずっと見続けている人がどれくらいいるかわからないが,あの当時見ていなかった人がきっといると思うので書いておく。
私はあの当時,色々なことがあって,高校を「プチ不登校」していたのである。
「プチ不登校」とはなんというのか,1週間のうち,4日は学校に来るが,1日は休んだり,早退するような状態だ。
断続的に休んでいるわけではないので,同級生には「休みが多かった」と思われているだろうが,不登校という印象はなかったと思う。
忘れもしない2000年9月11日月曜日。朝,目が覚めると,雨が降っていた。朝の時点でかなり強めの雨だった。
当時,土曜日は第2・第4土曜日だけが休みで,ちょうど2連休の週末が終わった翌朝である。
学校が嫌いで行きたくなかった当時,窓の向こうの雨を見ながら,「この雨の中,行くのか」と,とても億劫な気分になった。
行きたくない,というか,行かない方がいい。そういう感覚だった。
そして私は,家族に「今日は体調が悪いから学校を休む」と伝えた。
そして,体調が悪いのだからもう一度布団に潜り込んで,そのまま意識を失った。
昼食を食べた後,またゆっくり寝て,起きると,夕方の18時を過ぎている。
相変わらず雨音は激しい。
テレビをつけると,なにやら雨がどうのとやっている。
ニュースを見ていたら,近所に土砂災害警戒情報が出たという。
自宅の電話が鳴って,家族の遠方の知り合いから「なんだか大丈夫か」などという。
意味がわからない。
そういえば雨音が激しいかなあ,なんて思いながら風呂に入って,そのまま寝た。
そして翌日,朝のニュースでとんでもないことになっていることを知った。
これが,私の覚えている東海豪雨のすべてだ。
つまり,あの日,私は学校をサボり,ずっと家に引きこもっていた。
多くの友人・知人から東海豪雨の想い出を話すとき,私は「いや,あの時学校をサボってたから」と正直に話すようにしている。
なにしろ,体験していない雨なのだ。
多くの人が「大変だった」「すごかった」と言われても,よくわからない。
今思えば,話の種に,玄関先くらいまで出ておけばよかったかな,なんて思う。
それと同時に,あの時は文化祭の直前で,もし学校に行っていたらなかなか帰れなかっただろうし,通学路に冠水した地域があり,私の安全という意味では,自主的休校は非常に正しかった。
あの時「行きたくない,行かない方がいい」という感覚は,直感的な「危機センサー」だったのかもしれない。
私はそう思うようにしている。
ガンプラ30周年だそうで,あちらこちらで祝賀行事(というか記念ガンプラ)の発売が聞こえてくる。
著名人のガンプラ遍歴もよく聞かれるようになってきた。
そういえば長年ウェブサイトをやってきて,さんざん自分のことを書いてきたのに,ガンプラ遍歴について,きっちり書いた記憶がないことに気づいた。
というわけで,祝ガンプラ30年,僕のプラモデル遍歴である。女性遍歴と書けないことが大変残念である。
ガンプラ雑誌で著名人にある「よくある質問」が,「最初に買ったガンプラ」だ。
買ってもらったものだと,「元祖SDガンダム RX-78ガンダム」だが,あれはボーイズトイ事業部の管轄なので,「玩具」に分類されてしまう。
そういう意味では,小学校2年生の時に買ってもらった1/100と,1/60のガンダムF91がそれだと言えるかもしれない。
とはいえ,小学2年生にはちと壁が大きすぎたみたいで,1/100はスナップフィットのピンが折れまくり,1/60は手をつけられず,それぞれ完成したのは小学5年生になったときだった。
その間,僕のプラモデルの腕を鍛えてくれたのはイマイ科学の「サンダーバード」シリーズだ。
同世代はBB戦士なのだろうが,僕は家族の影響もあってサンダーバードだった。
イマイのサンダーバードシリーズは,BB戦士や元祖SDガンダムに慣れた自分には衝撃だった。
なにしろ接着剤がいるし,色も塗らなければならないのだ。
「超特大サンダーバード2号」には,コンテナに格納できるミニモデルのジェットモグラが付くのだが,タンクとモグラを接着しろと指示されている。
僕は接着しなかった。
モグラと分離させて遊びたいからだ。
そうするとコンテナに格納するとき,ばらけてしまう。
あのころは「マスキングテープで仮どめする」なんて技を知らなかったので,不自由しながら遊んでいた。
イマイ科学のプラモデルは,今考えてもバリやヒケが多かった。
よくガンプラの旧キットにバリヤヒケがどうのと言うが,イマイ科学のサンダーバードシリーズの比ではない。
もちろんイマイのキットは名キットだが,合わせが悪いだとかヒケとかバリとか,そんなものあって当たり前で,今のガンプラがすごすぎるという意見は全く同感だ。
今の腕前なら,サンダーバード2号も,もっとうまく組めるだろうな……
あの当時は爪切りで作ってたもんなぁ。
ニッパーで作るべしとか,そういうことを教えてくれる父でもなかったし,近所の子どもは全員ファミコン狂いで,誰もプラモデルのイロハを教えてくれなかった。
今ではネットもあるし,ムックもあるし,カネもそこそこある。
作る時間だけがないのが残念だ。
前述のガンダムF91も,スナップフィットのピンが折れたガンダムに,サンダーバードで覚えた「接着剤」で組むと言うことに気づいて作ることができた。
サンダーバードはまさしく僕にとって,プラモデルの楽しさを教えてくれた原点である。
では,小学5年生の時のガンダムF91がはじめてのガンプラかというと,ちがう。
その少し前にガンプラを組んでいる。
それが,MSVの「1/144 フルアーマーガンダム」である。
僕の初ガンプラは,「フルアーマーガンダム」と言えると思う。
当時住んでいたアパートの上の階に,5歳位下の男の子がいて,その子のお兄さん(かなり年が離れている)が作らなくなったガンプラがいくつかあった。
でまあ,当時幼稚園児の彼では組めないからと言うことで,僕が組んであげたのだ。
だから,そのガンプラは残っていない。
色も塗らずに,素組みしただけだが,確か日曜日の朝方,偶然早起きして,何気なく廊下で小さな机を出して,そのまま組んでしまった記憶がある。
FAガンダムは,とても喜んでもらえた。
それで僕は調子に乗って,もう1個作る約束をした。
それが「ベストメカコレクション 1/144 ガンダム」である。
通称「旧キット ガンダム」あるいは「300円ガンダム」などと呼ばれるキットであり,世界で最も売れたガンプラである。
この当時すでにHGガンダム(絶版)は出回っていたはずだが,その存在を当時の僕は知らなかった。
そして,旧キット「プロトタイプガンダム」や「Gアーマー」はなかなか手に入りにくかった。
あの当時,1/144のガンダムと言えば,旧キットだったのだ。
1/144ガンダムを振り返って,多くのファンが語ることがある。
「難しかった」
「完成したけど,肩が動かなかった」
「肩関節の接着が特殊で,失敗した」
1/144ガンダム=「肩関節が難しい」である。
読者にどれほど300円ガンダムを組まれた人がいるかはわからないが,肩関節の接着は本当に特殊で,小学校高学年の僕でも手こずった。
というか,失敗した。
作ってない人のために説明すると,まず,ガンダムの胴体に肩関節になるプラ棒を通すための穴があいた円形の部品を接着する。
このとき,円形の部品は胴体の片方(たしか前側だったかな?)にしか接着しない。
次に,その円形部品の穴に肩を通し,その棒のところをプラスチックのストッパーで挟み,接着するのだ。
このストッパーがうまく挟めない。
「パックマン」みたいな形をしたストッパーで(このたとえでわかる人の半分は旧ガンダムを組んでいるに違いない),意外にかたい。
うまくはまらないのだ。
そして,接着しようにも,接着剤が多くても,少なくても大変だ。僕の場合は多すぎた。
あの当時は「流し込みタイプ」とか「瞬間接着剤」を知らなかったから,ストッパーは接着剤でどろどろに溶け,最後は割れてしまった。
今ならプラ板でパーツを自作するとか,それ以前にボールジョイントを仕込む改造をするとかするのだろうが,あの当時はそんな知恵はない。
父はプラモデルに興味がない(父の出身地は某県ド田舎村なので,ガキの頃,近所にプラモ屋がなかったのかもしれん)ので,リカバリの方法は聞けない。
仕方がなく,事情を話してプレゼントした。喜んでくれたことは幸いだった。
それから先は,何度かの中断期間を挟みつつ,ガンプラを作っている。
ほかにもスケールモデルなど,多くのプラモデルに手を出した。
僕の家は,小学校5年生の半ばまでファミコンがなくて,遊びと言えば,プラモデルだった。
目に悪いからというのと,手先を使うからまだマシだろうというのが家族の教育方針だった。
当然ながら友だちは少なかった。
ファミコン持ってないヤツはクラスのコミュニティに入れないのだ。
でも,僕は後悔していない。いや,むしろ,家にファミコンがなくてよかった。
面白いものがあるのも知っているし,やりこめるものもあるだろうが,ゲームは所詮,与えられたものだ。
与えられた範疇でしか遊べない。
最終的には,多くのプレイヤーが同一のエンディングを見ることになる。
そして,賛否あるだろうが,二進法のデータを修正することで,アイテムの種類や数,あるいは経験値やレベルまで,いじることができる。
プラモデルはそうではない。
確かに,誰でも満足のいく結果は得られないかもしれない。
だが,自分ががんばれば,自分なりに満足する結果が得られる。
どんどんうまくなる。
それはとても楽しいし,嬉しい。
僕の母は,ほかの母親たちから,刃物が危ないからプラモデルはやらせない方がいい,と言われたらしい。
ほかにも「接着剤はシンナーだから,中毒になる」とか,色々理由をつけて反対されたそうだ。
確かに危ない。
僕も何度か指を切っている。
でも,慣れるまでの話で,今では指を切ることはなくなった。
有機溶剤は確かに,クセになりそうな臭いだろうなとは思ったが,あの臭いは頭が痛くなって模型作りに支障を来すので,わざわざかぐことはなかった。
「刃物でケガをする」「シンナー中毒になる」などと色々言うけれど,結局のところ「長髪は不良のはじまり」「ギターを持ったらテロリスト」「ゲーム脳が人格を壊す」みたいなものと同じで,大人の過剰な危険予知妄想でしかなかった。
まったく迷惑な話だ。
僕はこれからもプラモデルを愛し,プラモデルを作ると思う。
なかなかじっくり作れる時間がないことだけが,悩みの種だ。
コピーロボットに仕事に行ってもらって,僕はプラモデルとかダメですか。そうですか。
先日の参議院選挙は民主惨敗で幕を閉じた。別に自民党が勝ったとか,みんなの党が勝ったのではなく,民主党が負けた。
去年の衆院選も「野党が勝った」のではなく,「与党が負けた」という言い方が正しい。
「菅直人総理大臣の消費税発言が要因」と言われているが,個人的にはその前の総理大臣と幹事長が惨敗の要因であると思う。
管総理大臣の支持率は高かったが,高いままで選挙をしてもきっと民主党は負けただろう。
理由は,世間の空気が「民主には投票しないでおこう」というものだったからだ。
政治家はよく「庶民目線で」というが,お小遣いが1500万円もらうような人もいるから,庶民の空気の味はちとわからんらしい。
その選挙で全然争点にならなかったのが,少子高齢化社会にどう対応するか,である。
本当にまずい話題は選挙の争点にしないのか,あるいは解決策がなくて絶望的だから見て見ぬ振りをしているのか,それとも「移民を入れればいいじゃん」と言い出しかねない御仁がいるからなのか,よくわからない。
財政再建をするにも長期的に少子高齢化社会へ対応した税制措置が必要であり,それに伴う社会保障の見直し,構造改革が必要になる。
それをどうするのか,どうすべきかは本職の議員さんに任せるとして,少子高齢化の原因を考える必要がある。
昨年2月に当サイトで書いた「結婚論」でも述べているが,少子高齢化の進行原因は非婚の進行。これに尽きる。
そして,非婚が進行した理由は,雇用の不安定化と賃金の低下,生活期待水準の上昇であると,山田昌弘氏の分析を引用しつつまとめた。
その後は「そんな文章も書いたね」程度でしかなかったが,昨年来「草食系男子」のヒットやらなんやらで,もう1本書こうかなと言う気持ちが出てきた。
前回は社会的な要因を,神島二郎氏と,山田昌弘氏の著作を引用して書いたが,今回はそれを踏まえて考察したい。
今回,このような文章を書く上で困ったことは,とにかく学術的に信頼できるアンケートというものが少ないということがある。
某ファッション誌で「好きなタレント」があるが,あれが果たしてどれだけ学術的に信頼できるかというと,皆無である。
「ジーンズの似合う有名人」だって学術的に信頼できない。
それを言うなら新語流行語大賞だって,学術的な信頼性はない。
メディア受けする題材ほどアカデミズムから敬遠されがちであり,また,調査結果が歪められる印象がある。
というわけで,私見で述べなければならないから,この文章も学術的に信頼できず,ただの「たわ言」の域を脱することができないでいる。
それはともかく。
多くのアンケート調査で「結婚できない理由」について聞かれた際,最も多い答えが「相手がいない」「出会いの場がない」というものである。
前述の通り,学術的な信頼性のないアンケート調査であるが,多くの調査で「相手がいない」「出会いがない」という答えが多いので,今回はこの「相手に出会えないから結婚できない」という理由が正しいものと仮定して論を進める。
では,なぜ相手がいないのか,相手に出会えないのか,と言う疑問が出てくる。
自分の生活空間に一切異性がいないという生活。たとえば,肉体を使う職業で,ひとり暮らしならば充分考えられる場面である。
そういう場合,「出会えない」のは当然だろう。
だが,ここ10年で非婚が進行した=そういう状況の人が増えた,とは考えにくい。
この10年で増えているものとなにか,相関関係を考えたい。
まず考えたのは,残業時間の増加である。
ここ10年で残業時間数は大きく伸びている。
実際にお勤めの人はわかると思うが,残業が多いと休日もなかなか出歩くというのが難しくなる。
雇用が不安定な人が結婚できない,収入が少ない人が結婚できないという山田の論に対し,「では,正社員で結婚しない人がいるのはなぜか」「公務員なのに独身者がいるのはなぜか」という反駁を考えると,残業の多さは充分あると思う。
仕事が忙しいから出会ってられないという声は,著者自身の声を含めて耳にしている。
次に考えられるのが勤務時間の変化である。
大昔ならば,毎週日曜日はみんなお休みだったのだろうが,近年は24時間365日,働く人がいる。
私の友人でも,週末は必ず仕事があるから,会えない人がいる。
「そういえば,大学のあいつとあいつ,社会人になって会えなくなったからって,別れたなあ。あのままならくっついたかもしれないなあ」
などと,思い返す人もいると思う。
社会状況の変化であるし,勤務時間がずれるというのはあまり大きくとらえられないが,個人的に見のがせない要因であると思う。
そして最後に,非婚の要因になっていると考えているものに,携帯電話の普及がある。
これは賛同されない人も多いと思う。
携帯電話の普及が非婚進行の要因のひとつだなんてテレビで学者が言えば,翌日には孫○義さんに訴えられるに違いない。
私自身,ケータイが非婚の進行の要因であるなんて思っていなかったが,先日,携帯メールによる誤解が大人社会でも存在することを知った。
また,以前から「携帯電話のメールはしばしば主語が省かれていること」「携帯電話のメールは書き言葉ではなく,話し言葉を使う人がいること。それゆえに,誤解やすれ違いが生じうること」を感じており,それについてなにがしかの文章を書こうと思っており,最近になってケータイの普及は非婚の進行にある程度の関係があると考えるようになった。
携帯電話の普及による弊害は,コミュニケーション難易度の増加であろうと思う。
対人コミュニケーションというのは多くの人にとって難しいもので,「俺は対人コミュニケーションが得意だ」と堂々と言える人は,あまりいないだろうと思う。
仮にいたとして,不得手なことを自覚していないだけだ。
普通に話すだけでも難しいのに,携帯電話というツールを使用して,メールや通話という,異なるスタイルの言語コミュニケーションが求められる。
昔は白魔法だけ使えればよかったのに,今ではひとりで黒魔法も召喚魔法も使えなければならないようなものだ。
かくいう私も,携帯電話のコミュニケーションは難しいと思う。
そして,女性と知り合ったとして,「携帯電話の番号を交換する」ことが自然にできるかというと,それが簡単にできる人と,できない人がいる。
そして,そのメールを上手に活用できるかというと,できない人もいるだろう。
主として筆者である。
それは冗談として,「忙しくなったから出会うヒマがない」「仮に出会ったとして,時間が合わない」「仮に出会ったとして,携帯電話のコミュニケーションに熟練する必要がある」という要因は,非婚の進行にある程度のかかわりがあると考えている。
2番目と3番目は行政の介入が難しい部分だが,「残業の減少」については,経済政策と景気対策で多少の改善が期待できると思う。
したがって,少子高齢化対策→非婚対策→経済対策となり,最終的には政治家の行動にかかってくると思う。
まあ,こんな辺境のウェブサイト,政治家が読んでいるとは思えないし,仮に読んでいるなら,そのヒマをもっと世の中のために使って欲しいと思う。
ブログを更新するより,やることはまだまだ,あるはずだ。
※ネタバレを含みますので,未見の方はご注意下さい。
パヤオこと,宮崎駿監督の作品はここ最近,王道から実に離れている…というのが私の印象である。
「ハウルの動く城」では,同時期に公開された「ローレライ」レビューマンガ(「ガンダムエース」誌)にて,「大砲が付いてるなら撃たないと!」と,徳光康之先生に皮肉られた。
「崖の上のポニョ」は,当サイトでも述べたが,なんだか黒澤明監督の「夢」みたいな作品だった。
ということは,今作はパヤオにとっての「八月の狂詩曲」になってしまうのだが,よく考えるとシナリオだけなので「雨上がる」に近いかもしれない。
それはともかく。
原作は,床の上に落としたものがなくなるという経験から「小人が持っていったに違いない」というファンタジー。
カエルフェイスのソープ嬢→ババアになった元少女→半魚人ときて,今度は小人。相変わらずジブリのヒロインはマニアックだ。
ただ,雰囲気は王道ヒロインだし,監督もパヤオではないのでそんなに奇怪な作品にはならないだろうと思って見に行った。
物語は,心臓を病んだ神木君が手術前に大おばである竹下景子さんの家に泊まりにくるところからはじまる。
竹下家の地下には,アリエッティという少女と,棒読みの大竹しのぶさんと三浦友和氏が住んでいた。
小人さんたちは「借り」といって,人間の家から色々と借りながら生活をしている。
「借り」といっても返していないから,ある種「借りパク」に近い。
ただ,借りられたのが露骨にわかるもの(ドールハウスの中のお皿とか)は借りていかない。
だから,人間は「なくした」と思うのであり,小人的には「借り」るということになる。
ここら辺の認識の違いは,竹下家のお手伝いさんが「泥棒」と言っているとおり,どういうものが「借りる」なのか,そのギャップを考えるのも楽しい。
(そうは言っても,借りるとはなんぞやみたいな議論は起きない)
序盤はなかなか面白く,普段生活している空間が,小人視点ではスリリングな冒険になるという映像が面白かった。
アニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」では,両津巡査長や大原部長がゴキブリになり,巨大なセットの中をレースするというギャグ回があったはずなのだが,それに近い感覚だ。
そういえば「ウルトラQ」で「1/8計画」ってあったなあ,あれも小人がネタだし,「ドラえもん」のスモールライト,「ファイナルファンタジーIII」の魔法「ミニマム」も思い出す。
「ガリバー旅行記」もそうだが,体のサイズが違う人間というのはファンタジーの王道だと思う。
ただ,ここで「現代日本」という,最もファンタジーから遠い世界が邪魔をする。
「耳をすませば」でもあったが,ファンタジックな人生を模索する主人公に「高校受験」が立ちはだかるのと同様に,アリエッティには「人間との禁断の交流」が出てくる。
「許されないもの同士が交流する」→「母親が悪い人に捕まる」→「協力しあって救出」→「別れ」という流れならば,普通に楽しめたという意見が多いだろうが,本作はちょっと楽しみきれない。
理由はふたつある。
まず,突然はじまる神木君の説教だ。
アリエッティに,いきなり「君たちは滅び行く種族なんだよ」「絶滅する運命なんだよ」と言い放つのだ。
そんなら化けるタヌキも絶滅危惧種やないか。
ファンタジーのキャラに「君たちはレッドデータアニマルです」というのは,ちょっと現実すぎる。
ファイナルファンタジーVで「ひりゅう」が絶滅危惧種であるというのとは,わけが違う。
あのシーンは違和感を感じた人が多かったと思う。
そして,「悪い人に捕まる」というところ。
ネタバレになるが,アリエッティの母親が捕まるのは神木君のお手伝いさんで,別段悪い人ではない。
そのお手伝いさんから「こっそり」救出するのが面白いのだが,今ひとつカタルシスがない。
なんだか,捕まってから物語の起伏があまり強くないからだろう。
大事件なのだが,どこか平坦だ。
やっぱり捕まるなら七三分けでサングラスをかけて,寺田農さんの声で喋るような悪役が捕まえないと,物語が盛り上がらないと思う。
「もののけ姫」以降のジブリ映画は変わったと多くの人が評するが,個人的には魅力的な敵役が不在になったから,と言うのがあるかなと思う。
クシャナ,ムスカ,カーチスまではいいのだが,「もののけ姫」のエボシは「敵役」にはちょっと弱い印象がある。
それ以降は敵役すらいない状態で,ユバーバにしろ,ハウルの魔女にしろ,ポニョのオヤジにしろ,どうも印象が薄い。
悪役の印象が薄いと,話しも今ひとつ盛り上がらない。だからだろうか,ハウル以降は話が今ひとつ思い出せない。
クシャナやムスカのような敵役,あるいは「魔女宅」における「もう飛べない→デッキブラシ」コンボのような物語の起伏。
作画スタッフはがんばっていたし,監督の絵作りも,少なくともジュニアの「ゲド戦記」より遙かに映画として成立するものだった。
それゆえに,今ひとつカタルシスの得られない作品になったゆえん,つまりはシナリオを書いた人の責任は,ちと大きい気がする。
1999年6月13日にSaToshi’s HomePageを開いてから11年が経ちました。
あの時16歳だったのが,今では27歳。
カウンターもついに150000を回りました。
11年で15万ヒットというのが,個人サイトとして多いか少ないかはよくわかりませんが,11年続いてる個人のウェブサイトというのはそれなりにレアなんじゃないのかなと思います。
なにしろ小説やイラストを公開するわけではなく,レビューをするでなく,誰かのファンサイトとか情報を公開するでなく,ただ著者の考えをだらだらと書いて垂れ流してるだけです。
特に専門がない。そういうウェブサイトが11年も続いたのはなぜか。
見てくださる方の応援と,やめる勇気のなかった著者にあります。
だいたい,HTMLでホームページ持つのがトレンドだったのに,今じゃ化石ですよ。
個人でHTMLのウェブサイト持ってる人って,なにがしか専門的情報を発信する人なんですよね。
この程度のテキストサイトだったら,ブログで充分じゃないですか。
SNSだってあるし,今じゃTwitterってものもあるわけですよ。
それでも,化石には化石の良さがあると思うんです。
国宝に指定されるまで続けていきますので,今後ともヒマなときにアクセスしてください。
よろしくお願いします。
Twitterをはじめた。
前々から周囲がはじめていたので,いずれはじめることになるだろうなあと思っていた。
はじめたきっかけは,先日報道された沢尻エリカ様の離婚だ。
こう書くと,エリカ様が独身に戻って私にもチャンスが巡ってきたことに対する喜びからの行動と思われそうだが,決してそんなことではない。
「エリカ様,離婚」(正しくは離婚協議なのでまだ離婚ではないが,どうせ次のテキストを書く頃には離婚してそうなので敢えて離婚と書く)の一報を聞いたとき,真っ先に思ったことは「やっぱり」ということだった。
これをどう書いたらいいだろう。
mixiの日記に書いたらいいか。いや,あそこに書くのはちょっと違和感がある。
どこに書こうか。このサイトか。
というわけでこのサイトに書いてみた(4/27付)が,やはり違和感がぬぐえない。
たった一言を書くのに,この手間はなんだろう。ちょっとばからしい。
こういうのはTwitterに書くようなネタじゃないのか。
というか,このサイトに書こうか検討して,エディタ開いて書き始めて「微妙だから,やっぱり没」になったネタも,Twitterなら使えたのではないのか。
よく考えてみると,以前からTwitter的なものはほしかったなあ,という感があった。
今ではあまり見かけなくなった「チャットルーム」が一行掲示板のようなものになるというのは,数年前までよく見かけた。
BBSが多くのサイトに設置されていた時代,一行BBSなんてものもあった。
友人がウェブサイトをやっていた頃,トップページには「今日のつぶやき」みたいなものがあった。
面白い企画だったが,そのつぶやきのログが残らないのが惜しい反面,別の友人がつぶやきのログをわざわざ残しているのを見てまた違和感を覚えた。
HTMLのウェブサイトにつぶやきのログを残すというのはなにか違和感がある。
CGIなら違和感がないが,CGIの場合は不特定多数の人が利用できるし,サーバエラーが起きてログが吹っ飛べば「ハイそれまでヨ」である。
ここで少し余談を。
CGIのログが吹っ飛んでフザケヤガッテ,コノヤロー!なんて叫んだ経験のあるWEB管理人もだいぶ少なくなった気がする。
ブログとかSNSとか,そういうものを使ってる限りはCGIスクリプトをどうのとか無縁だろう。
もしかするとこのテキストを読んだ人でも「CGIのログがサーバエラーで吹っ飛ぶって何?」という人がいるかもしれない。
Twitterというのはある種,私が以前からほしかったメディアだった。
だからはじめたのである。
一方で,Twitterというのは恐ろしいメディアであるとも思う。
先日,マガジンを耳鼻科で読んでいたら,「さよなら絶望先生」にて「春だからTwitterをはじめたよ」「なぜ自分からリスクを増やすのですか。迂闊なことを書くかもしれないのに」という会話が載っていた。
HTMLサイトというのは,自分でFTP送信するまではサーバ上にアップロードされない。
これがそれなりの安全装置になっている。
前述した「面白そうだったけど微妙だから没にした」ネタがあった。
つまらないだけならスルーされるだけだからいい。(世の中にはつまらないと読者に叩かれる人気サイトもあるが,幸か不幸かここはそんな人気サイトではない)
数年前だったか,書き上げた後「イヤな予感がする」と思って,敢えて一晩送信しなかったことがあった。
翌朝読み返して,「マズイ,これはマズイ」と思い,あわてて修正した文章がある。
どういうことを書いたか,細かい記憶はない。だが,あの辺から「他人をネタにすることはやめよう」という自分ルールができたので,たぶん,特定の誰かをネタにした内容だろうと思う。
CGIのBBSも,ブログも,SNSも,Twitterもそうだけれど,ちょこちょこっと文章を書いて,ろくな推敲もせず送信ボタンを押す。
それだけで文章がネット上にアップロードされる。
助詞の使い方がおかしいとか,誤字脱字とかならまだいい。
書き手が深く考えず,テキトーなことをつぶやいて,誰かとトラブルになると言うことは,充分あり得ることだろう。
HTMLサイト,BBS,ブログ,SNS,Wikiメディア,Twitterと,ネット上で意見を表明する機会が,多くの人に提供されている。
そして,WEBの進化とともに,より手軽になってきた。
同時に,軽薄で,ろくすっぽ考えのない発言がどんどん増えているのではないか。
それに伴うトラブルもまた,以前より増えている気がしてならない。
余計なトラブルを防ぐためには,「一晩寝かせる機能」とか,ネットメディアがその場の感情にまかせた発言をさせない安全装置を持つべきだろうし,同時にユーザーも書き手として,ある種のモラルを持つことが必要だろうと感じている。
最近アニメを見なくなったが,なんだかんだいいながら,「このアニメが人気がある」という情報は入ってくる。そういうことを知識として知っている。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」も見てはいないが,すべてが終わったあとでキャプチャ画像は見た。
それ以降ハルヒの話題は確実に減った。やっぱりファンは怒ったのだろう。
それと前後してよく聞くようになったのが「けいおん!!」というアニメだ。
このアニメは見たことがないからくわしく書けないし,知りたければファンサイトがいくらでもあるだろうからここでは書かない。
軽音楽部が舞台で,このアニメがきっかけでアニメファンが劇中登場するエレキギターを買ったというニュースを聞いた。
先日,その「けいおん!!」の主題歌がオリコンのデイリーランキングで1位2位を独占し,ミュージックステーションのランキングでも1位2位を独占したという話を聞いた。
これが3位と僅差ならともかく,かなりの差がついている。
では,一体何が原因なのか。それを書こうと思う。
…と言っても,CD不況の理由についてはさんざん議論が尽くされている印象があるので,あまり長く書かない。
基本的になにかが起きているとき,理由は複合的であるというのが基本だと思う。
CD不況で言えば,だいたい以下の理由がある。
1.主として作り手に責任があるもの
例:値段の高さ,楽曲の質の悪さ,業界の体質など
2.主として聞き手に責任があるもの
例:CDを買わずにレンタルする,動画共有サイトやファイル交換ソフトの利用,中古CDの購入など
3.主としてメディアの進化に原因を求めるもの
例:mp3プレイヤーの普及,パソコンの普及,着うたをはじめ携帯電話で音楽を聞くスタイルの増加など
これのいずれもが正しいと思う。
作り手は聞き手を非難し,聞き手は作り手を批判しているが,双方どちらにも責任はある。
そして,メディアの進化というものも大きな要因であると思う。
ここで,第4の視点というものを持ちたい。
第4の視点は,「CD購買層のコミュニケーションツールの変化」である。
CD不況の際にしばしば語られるのが「いい曲作っても売れない」「いい曲がない」なのだが,最近,「いい曲である」というのはあまり関係がないのではないかと思うようになってきた。
つまり,曲そのものはあまり関係ないのではないか,ということだ。
私が中学生の頃,CDがよく売れた。
小室ファミリー全盛期だった。中学の同級生の多くが,たくさんのCDを買っていた。
TKの曲は耳に残るし,カラオケで歌いやすい曲だったと思うから,曲そのものがよかったのは否定しない。
TK以外の曲もずいぶん売れていた。
売れたCDの中には,それほどいい曲でないものも多かった。
当時から「何でこれが売れてるんだろう」と思っていた曲は,いま,思い出されることもない。
それが可能だったのは,当時の中学生の「コミュニケーションツール」としてのCDの存在だった。
今日,友だちと話をするためには,昨夜のミュージックステーションを見て,アムロちゃんの新曲について話ができなければならない。
「昨日のアムロちゃん,かわいかったね」「キムタク,格好良かったね」それで盛り上がる。
音楽そのものが聞き手の心を満たすのではなく,音楽が聞き手と聞き手のコミュニケーションの触媒になっている。
CD購買層が無意識に,コミュニケーションツールとしてのみ「J-POP」の存在価値を認めていたとしたら,どうだろうか。
近年,高校生の多くが携帯電話を持っている。
知人のお子さんが高校生になり,「クラスで持ってないのは俺だけだから買ってくれ」とせがんでいるそうだ。
「あんな高いもの,ほしいなら大学生になってからアルバイトして買え」と言ったそうだが,「必要だから」ほしかったのではなく,「クラスで持ってないのは俺だけだから」ほしいと言ったことに気づいた人も多いだろう。
近年,携帯電話がコミュニケーションツールとして大きなウェイトを占めるようになった。
中学生や高校生が携帯電話を手に入れて,友だちとメール交換をするとして,携帯電話の維持費にお小遣いを使うとすれば,CDは当然買わない。
あるいはレンタルですませたり,友だちのCD−Rから自分のiPodに入れることになるだろう。
話題も,CDや音楽だけでなく,ファッションブランドやコミックなど,多岐に渡るとしたら,CDだけが売れることはあり得ない。
CD不況を語るとき,多くの人々はCDを音楽として議論する。
だが,CDを音楽としてではなく,触媒として考えたとき,単純な非難の応酬ではなく,新しい視点からの議論が必要ではないかと思う。
「けいおん!!」のランキング独占をどう捉えるかもいろいろあると思うが,触媒としての音楽の重要性はかなり低くなってきているし,今後も低下していくのではないかなと思う。
では,いい曲を作る必要はないかというと,そうでもない。
なんだかんだ言って日本人は音楽好きだ,と思っている。
「のだめカンタービレ」を見ていると感じるが,「いい音楽」への渇望感は多くの人が持っているはずだ。
そういう渇望感をいかに刺激するかが課題だろう。
それがいまの業界にできるかは別の話だが,それができるメーカーだけが生き残るのではないだろうかと考えている。
やっぱり。
去年一年間でよく感じたことがある。それは,私にとって「書く」という作業はある種のストレス解消であるということだ。
とにかく書く。書いて書いて書きまくる。それをしないと,ストレスがたまる。
もちろん,日常生活について書くことは立場上叶わないのだが,色々な物事について私見を述べると言うことが私にとってのストレス解消だと思う。
なので,毎日は難しいが,昨年よりは定期的に書いていきたいと思う。
そういうわけで今日は四月馬鹿について。
個人的な感想だが,日本の四月馬鹿は四月第1週の土日にしてほしいと思う。
平日は仕事があるから,日付が変わる直前に床につき,年度替わりは色々と引き継ぎがあるから,帰ってくると日付が変わる寸前だ。
そうなると,面白いウェブサイトがあっても,案外見られない。
特に,4月1日の夜10時くらいは,だいたいみんな仕事から帰ってきてサイトを見始めるらしく,円谷プロダクションはまず見られない。
円谷は特に気合いを入れて作っているし,あれはウルトラシリーズを見ている人はなおさら楽しめるので,もっとゆっくり見たいというのが偽らざる本音だ。
さて,こんな辺境のウェブサイトを見に来ている人は,エイプリルフールにウェブマスターがあの手この手で仕込みをして…というのはよく知っていると思う。
当サイトも10年たったが,この10年間でエイプリルフールネタのハードルは確実に上昇している。
開設当初に周囲がやっていた四月馬鹿ネタは,今考えれば実にショボかった。
ちょっと思い出すだけでも,こんなネタがあった。
・閉鎖ネタ(当サイトは今日限り閉鎖します!とか。惜しまれないと,ちと寂しい。)
・改装ネタ(当サイトは今日からガーデニング情報サイトになります!とか…。)
・VNIネタ(VNI=バーチャルネットアイドルのネタ。ちゆ12歳みたいなサイトを作ったり,そういう風になると宣言したりする。)
・管理者結婚ネタ(ウェブ管理人と閲覧者の95%が独身男性で彼女ナシだった時代によくあったネタ。)
VNIを「バーチャルネットアイドル」の意味だと知っている人は今,どれくらいいるのだろう?
それ以前に「ちゆ12歳」(あるいは「侍魂」)と言って共通理解が図られるとも思えない。
未だに残っているのは改装ネタで,気合いを入れて改装したコンテンツを作る,というものだ。
最初はHTMLファイル1枚で収まったのが,いつしか枚数が上がって,円谷プロダクションのような気合いの入りすぎたウェブサイトが登場している。
そういうわけで,私は4月1日にアホなウェブページが表示されたとしても,別に驚かない。
ところが,近年入ってきたニューカマーは,不慣れらしい。
四月馬鹿のギャグにキレているらしいのだ。
mixiの人気アプリ,サンシャイン牧場の四月馬鹿ネタは,「山火事が起きてすべてが灰になった。一からやり直しです」というムービーが流れて,「やり直し」をクリックするといつもの画面になるというものだ。
このほかに,変な作物や動物もいるが,メインは馬鹿なムービーだ。
これがどういうわけか,本当に一からやり直しになったと悲嘆にくれたり,度が過ぎるジョークだと管理者に苦言を呈したりするユーザーが続出しているのだ。
これには本当に驚いた。
考えられる理由としてはいくつかあるが,ユーザーが不慣れで,四月馬鹿になれていなかったというのが大きいだろう。
私なんかは山火事と言われても「ああ,エイプリルフール」とすぐにわかったが,サンシャイン牧場がはじまって初めての四月馬鹿で,急激に増えたmixiユーザーにとって「ウェブサイトのエイプリルフールはこういうものだ」ということがわからなかった人が多かったようだ。
騙された人は,ウェブサイトのエイプリルフールはこういうものだと知るべきだろう。
ウェブにおいて,山火事ネタよりもっときついエイプリルフールはたくさんある。
ただ,サンシャイン牧場の「一からやり直す」ボタンはしくじったところだと思う。
あそこは「今日は4月1日です」としておけば,ユーザーもすぐに「四月馬鹿」と気がついたに違いない。
その一方で,ずいぶん口汚く運営を罵るユーザーもいたようで,ちょっと気になった。
騙されて悔しいのはわかるが,それで相手にあたるのはどうかと思う。
かくいう私は,エイプリルフールどころか,日常的に面白そうなニュースをクリックするとバーボンハウスにとばされたことが何度もあった。
ダム板にも何度とばされたかわからない。
そういう経験をしていると,ちょっときついジョークにも,免疫というものが付くのかなあと思う。
いい加減なんか書こう、なんか書こうと思いながら、昨夜風呂で「おお、いいネタが浮かんだぞ!明日はこれで日記を更新だ!」と思って、一晩起きたら面白くも何ともないネタだったことが判明して断念しました。
最近の私は……
2月14日がバレンタインデーだったということを忘れてました。
周囲がチョコレートで騒いでいて「いったいどうしたんだろう?」と。
冷静に思い出して、ああ、バレンタインデーだった、と。
こう書いておわかりの通り、バレンタインデーに縁のない人生を相変わらず歩んでいます。
今年も不定期更新ですが、気長によろしくお願いします。