Things We Said Today
〜今日の誓い〜
これを書いているのは実は11月。
いやー,ボケッとしてるうちに映画館での公開が終わっちゃったよ!
というわけで,これはDVDで見る人むけということでひとつよろしく。
あらすじについては多くのブログでネタバレされているでしょうからそっち見ていただくとして,面白かったところと,残念だったところを書いていきたいと思います。
まず面白かったところ。
これはね,よりロボットプロレスが強くなったところですね。
ホントに次から次へとロボットアクションが出てきて,面白いです。
デバスターが口からマッドフラップたちを飲み込もうとするところなんか,ドキドキしながら見てました。
アニメ版トランスフォーマーのおもしろさというのはね,サイバトロンとデストロンの激しいバトルが見所なんですけれども,前作は序盤がファースト・コンタクトを描いていた反面,今作は序盤からどんどんアクションをやってくれる。
なので,CGでのロボットアクションは大満足です。
ただ,人によっては満足しすぎるというか,わけがワカランという感想を漏らす人もいるかもしれません。
たとえば,そこの読者のあなた!
「超電磁ロボ コン・バトラーV」と,「超電磁マシーン ボルテスV」の違いがわかりますか!?
わからない人は「こんばとらーぶい,ぼるてすぶい」とか読んじゃうわけですよ。
「コンバトラーブイ」と,「ボルテスファイブ」という,同じ記号だけど読み方が違うんだぜっていうことがわからないわけですよ。
(よくわからない人は,「∀GUNDAM」を読めない人がどれほどいるかってことで想像してください。)
筆者の友人(女性)は,MS-06ザクIIとMS-07グフの違いがわからない人がいます。
当然のことながら,ザクIIのFとF2の違いとか,高機動型の違いとか,全然わかってくれないわけです。
グフだって,ラルの使用したタイプと,ノリスのタイプは全然違うわけですけど,わからないわけです。
この違いがわからないなんて信じられないと言う人もいれば,わかるという人もいるでしょう。
で,この映画,ザクとグフの見分けがつかないあなたは見てはいけません。
たぶんわからないと思います。
特にこの映画,残念なところというか,CGデータを一部使い回していて,ビルドロンがデバスターに合体するビルドロンと,ピンで変形するビルドロンの2種類がいるんですね。
なので,片方でデバスターがバトルをしていて,もう片方ではイボンコとランページが戦うみたいなシーンが出てくるんです。
ビルドロンはややこしい映像の原因になっていて,惜しかったですね。
今作でのボスはメガトロンではなく,フォールン。
かつてプライム=コンボイだっただったというので,ポジション的には日本版ブラックコンボイ,アメリカ版ではスカージやネメシスプライムといった感じでしょうか。
このフォールンと戦うサムに示唆を与えるかつてのプライムたちが,これまた使い回しでデザインがフォールンと同じなんですね。
ちょっとやめて欲しいなと。
そこはひとつ,ほかのデザインを使って欲しかったです。
あとはクライマックス。
うーん,あれでもいいんですけど,どうせならね,ウルトラマグナスを出して欲しかったな,と。
大ピンチになるコンボイ。
あざ笑うネメシスプライム。
もうダメだ!
そこへ,突如現れる白いトラック。
「何者だっ!?」
「(速水さんボイスで)助けに来たぞ!」
「お前は!」
「白いコンボイだ!」
「違う,私はコンボイじゃない!私の名前は……」
そう,ウルトラマグナスだっ!
今,ここに!
ふたりのコンボイが並び立った!
「行くぞ,コンボイ!」
「おお!ウルトラマグナス!」
「トランスフォーム!」
みたいな展開だったら,3ヶ月以上放置せずに即日日記書いてたと思います。
次回作で完結だと思いますが,次回は是非!是非!ウルトラマグナスと,ホットロディマスを出して欲しいです。
あとパーセプターとホイルジャックとグリムロックにも出番を………
つーかGMがこんなことになってしまった手前,次回作はどうなるんでしょうね?
もしかすると,次回作ではアイアンハイドがランドクルーザーに,ラチェットがエスティマに,コンボイがいすゞ・ギガにトランスフォームするかもしれません。
うーん,アホみたいなアメ車が変形するから映えるのであって,普通に低コストで低燃費でコンパクトな日本車だと,映像的には今ひとつになっちまうだろうなぁ。
話題の映画「トランスフォーマー:リベンジ」を見てきました。
トランスフォーマーといえば,私の世代(1982年生まれ)にとっては,ガンダムより人気があったはずで,実際「Zガンダム」で変形モビルスーツが多数出たのはトランスフォーマーの影響が大きいといわれています。
ガキの頃,「トランスフォーマーV」のスターセイバーが欲しかったんですが,あれ,すごい値段が付いてるんですね。
ほかにも「ヘッドマスターズ」のライデンとか,だいたい欲しかった奴らはものすごい値段が付いてました。
同世代の多くが,トランスフォーマーに対してはリベンジ希望らしく,復刻されると次々に手を出す人がいるのもよくわかります。
私は……日本の住宅事情と,懐具合の双方が解決されないことには難しいですねえ。
(後者はなんとかなったとして,前者の解決には多くのオタクが困ってるんじゃないのかなと思います。)
さて,今回も前後編に分けます。
というのは,感想書くときに名前を統一しないとえらいことになるんですよ。
そもそも,前作「トランスフォーマー」が間違いの発端。
前作でM1エイブラムズ戦車に変形したキャラクターで「デバスター」を使ってしまったんですね。
本来はコンバットロンの「ブロウル」が正しかったはずですが,なぜか「デバスター」。
それを見ながら「おいおい,パート2でデバスター出せなくなったやないか」と思ってました。
でも,地雷除去車でボーンクラッシャーを使ってしまったから,デバスターは出さないのかなあ,なんて思っていたら,やっぱりデバスターが出るらしい。
しかし前作で出たから「ビルドロン(コンストラティクコンズ)」にするという。
実際,「トランスフォーマー マイクロン伝説」でデバスターが出て,次作「トランスフォーマー スーパーリンク」で「ビルドロン」にはしましたが,フタを開けてみたら「前作のデバスターとは別人ですがデバスターです」という訳のわからないコメント。
だからブロウルにしとけとあれほど(以下略
というわけで,当サイトでは今回,劇場映画のトランスフォーマーをこのように言い換えます。
オプティマス・プライム | コンボイ(イボンコ) |
サイバトロン星 | セイバートロン星 |
オートボット | サイバトロン |
ディセプティコン | デストロン |
バンブルビー | バンブル |
サイドスワイプ | ランボル |
ラヴィッジ | ジャガー |
サイドウェイズ | ダブルフェイス |
デバステイター | デバスター |
コンストラティクコンズ | ビルドロン |
前作のデバステイター | ブロウル |
インセクティコン | インセクトロン |
登場キャラは増えてます。
サイバトロンは前作に引き続きコンボイ,バンブル,ラチェット,アイアンハイド。
新登場がランボル,アーシー,クロミア,スキッズ,マッドフラップ,ジェットファイアー,ウィーリー。
デストロンは前作に引き続きメガトロン,スタースクリーム,メガザラック。
新登場がサウンドウェーブ,ジャガー,インセクトロン,プリテンダー・アリス,デモリッシャー,グラインダー,そしてビルドロンのスカベンジャー,ランページ,ロングホール,ミックスマスター,オーバーロード,ハイタワー,スクラッパーの7体が合体したデバスター。
デストロンが合体戦士を投入した反面,我らがコンボイもジェットファイアーと合体し,ジェットコンボイになります。
メンツとしては,前作は鉄板だったサイバトロンが微妙なメンツに変更。
スキッズはアニメで2話しか出番がなかった超マイナーキャラで,バイナルテック化されたとはいえ,ちょっと意外なキャラでした。
また,ランボルは「ランボル」って名前が付くほどカウンタックのイメージが強いんですね。
せっかくシボレーコルベットに変形するのだから,トラックスにした方がよかったのではないかと思います。
ランボル自体は割と出番の多いキャラなので,妥当なところでしょうか。
調べてみると,メインキャラクターで車に変形するメンツで,使えるキャラは案外いないんですね。
バンブルが出る前にスパイクと仲がよかったハウンドは,スポンサーがGM(ゼネラルモータース)の都合,ジープに変形するので,クライスラーですから難しそうです。
ホイルジャックはマッドサイエンティストのポジションがちょっと難しいでしょう。
プロール,インフェルノ,アラートは特殊車両なので難しい。
バイナルテックのように,グリムロックを車にしてもいいかと思うのですが,恐竜に思い入れがあるならば,没になるでしょう。
デストロンはというとメガトロンが復活したのでガルバトロンになる…と思ったらなりませんでした。
パート3でガルバトロンになるんでしょうか。
出ると思っていたのに出なかったのがホットロディマス,ウルトラマグナス,サンダークラッカーなどなど。
ウルトラマグナスやサンダークラッカーは,コンボイやスタースクリームの色だけかえて出すと思っていたので,まだ出ないのがちょっと意外です。
「しかし,キャラ多すぎじゃね?映画,どうなってんの?」と,心配の皆様むけに,次回は本編について書いていきますのでお楽しみに。
平成ライダー10周年、SaToshi's HomePageも10周年!
1999年6月13日、ウェブサイト開設以来10年が過ぎました。
いつも言ってますが、無駄に続ければいいと言うものではありません。
実際、もはや惰性で続けている側面がないわけではない。
しかし、それでも、10年は続けようという思いもあってここまで来ました。
10年。
長いようで短い、けれども思えば、やっぱり長い。
十年一昔とはよく言ったもので、10年前のことを考えると、感慨深いものがあります。
10年間で、カウンターは15万弱を指しています。
のべ15万人が見た…わけではないんでしょうけれども、カウンターが15万を回るくらいの回数、誰かが見てくださった。
アクセス数にこだわっているわけではありませんが、それだけの方が楽しんでいただけたのなら、それはそれで嬉しいものがあります。
ほとんどほったらかしなんですけれども、皆様にこれからも楽しんでいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願い致します。
テレビ朝日各局で放送される「西部警察傑作選」のラインナップがまとまったようです。
PART-1#1「無防備都市−前編−」
PART-1#2「無防備都市−後編−」
PART-1#48「別離のフランデーグラス」
PART-2#1「大門軍団・激闘再び−沖田登場−」
PART-2#10「大追跡!!静岡市街戦−静岡・前編−」
PART-2#11「大激闘!!浜名湖決戦−静岡・後編−」
PART-2#18「広島市街パニック!!」
PART-2#26「−北都の叫び−カムバック・サーモン!」
PART-2#38「決戦!地獄の要塞−名古屋編−」
PART-3#17「吠えろ!!桜島−鹿児島編−」
PART-3#19「決戦!燃えよ玄界灘−福岡編−」
PART-3#23「走る炎!!酒田大追跡−山形編−」
PART-3#25「長いお別れ」
PART-3#30「謀殺のタイムリミット」
PART-3#31「思い出さがし」
スペシャル「西部警察SPECIAL(西部警察2003改題)」
このすべてを放送しない放送局もあるようで、中には静岡前編は放映するのに、後編をやらない局もあるようです。
筆者の地元名古屋では、「無防備都市」は放映せず、48話からスタートし、PART-2の1話、18話、26話の順で放送されました。
(だいたい毎度おなじみのエピソードなので、あんまり録画してないですねぇ……)
このあとは「決戦!地獄の要塞」(煙突倒壊の回)以降、予定通りにやるようです。
「西部警察スペシャル」も放映されるらしいですよ。
DVDを買った(しかも初回限定版)自分にとっては、あんまり関係ないところですが……。
注目はパート3・23話の「走る炎!!酒田大追跡」でしょう。
ミサイルを使って大門軍団を脅迫する伝説の悪役「ヘンリー野口」が出てくるんです。
桟橋から海中ダイブのカーチェイスとか、見所の多いエピソードです。
なお、地域によっては「思い出さがし」のあと、「無防備都市」で終わる場所もあるようですので、「無防備都市」が今のところ放映されていない地域も、まだ希望は捨てない方がいいと思います。
「それでも無防備都市が見たい!どうしたらいいんだ!」という人もいるかと思います。
その場合は、7月からファミリー劇場に加入すればいいでしょう。
また放映がはじまるらしいですよ。(しかもニューマスター版)
7月に石原裕次郎さんの法要を国立競技場でやるそうです。
見に行きたいんだけれども、ものすごい人出が予想されますし、法事のためだけにわざわざ……というのもあって、尻込みしています。
そんな尻込みするアナタでも参加出来る裕次郎さん追悼企画がテレビではじまります。
毎度おなじみ、「西部警察」の傑作選です。
「またかよ」なんて声も聞こえてきそうですが、今回は前回2004年のラインナップとは微妙に違うようです。
それでも第1回が「無防備都市」なのは当然ですが………。
インターネットでは、後期、RSシリーズがそろってから「無防備都市」だったらどうなのかね、なんてつっこまれてました。
名古屋地区の再放送詳細がわかり次第、またここに書いていきたいと思います。
皆様、ハイグレードビデオテープをご用意の上(※著者はまだHDDではありません)、新聞にご注目下さい。
いよいよ世間では定額給付金がスタートするらしい。
私はというと、家族にプレゼントするのでまったく関係ないのだが、この定額給付金に関連して胸焼けしそうなニュースが飛び込んできた。
というのは、マクドナルドがプレミア商品券を販売するというのである。
1万2000円でクーポンを販売し、2万円分使えるというこのクーポン。
一見するとお得であるが、「うまい話には裏がある」というのが我が家の家訓であり、必ず裏があるに違いない…と考えたので、少し検証してみたいと思う。
まず、クーポンの詳細はこうなっている。
・セットA商品券 10枚
(クォーターパウンダー・チーズ/ビッグマック/えびフィレオのいずれか+ポテトM+ドリンクM)
・セットB商品券 10枚
(ダブルチーズバーガー/てりやきマックバーガー/チキンフィレオのいずれか+ポテトM+ドリンクM)
・セットC商品券 9枚
(お好きなハッピーセットもしくはチーズバーガー+ポテトM+ドリンクM)
※朝マックハッピーセットを除く
・デザート・サイドメニュー商品券 3枚
(サンデーチョコレート/チキンマックナゲット/ポテトMのいずれか)
・シャカシャカチキン1個商品券 3枚
・プレミアムローストコーヒー(S)(ホットまたはアイス1杯)商品券 30枚
・コールドドリンク(S)2杯商品券 4枚
(マックシェイク、アイスカフェオレ、ミルク、野菜生活100、ミニッツメイドアップル100、アイスカフェラテ、アイスカフェモカ、アイスキャラメルラテは対象外)
これだとよくわからない人も多いだろう。
実際、自分も最後にマクドナルドに行ったのが今年1月に友人と行ったっきりだ。
メガマックがいつの間にかなくなって、映画「スーパーサイズ・ミー」で日本人に知名度が上がったクォーター・パウンダーがはじまっているわけだが、ダブルクォーター・パウンダー(つまりハーフポンド、約225グラム、830kcal)なんてハンバーガーを食べた日には、私は間違いなく胃がもたれると思う。
はじめに、このクーポンをカネで置き換えたい。
といってもマクドナルドは地方だと安く、都市部だと高い、つまり全国統一価格ではない。
したがって、最も高い東京都の価格を前提に考える。
このうち、最も価格の高い組み合わせで計算する。
・セットA(クォーター・パウンダー・チーズセット)680円×10枚=6800円
・セットB(ダブルチーズバーガーセット)620円×10枚=6200円
・セットC(チーズバーガーセット)490円×9枚=4410円
・サイドメニュー(チキンマックナゲット)260円×3枚=780円
・シャカシャカチキン1個(各種) 100円×3枚=300円
・ローストコーヒーSサイズ(ホットまたはアイス) 120円×30枚=3600円
・コールドS 2杯(ローストコーヒー) 120円×2杯×4枚=960円
合計は23050円となる。
最も高い組み合わせだけを選び続ければ、プレミアは1万円強まで増加する。
価格だけで考えれば90%以上のプレミアであり、ここまでお得なプリペイドはあまり聞かない。
参考までに書いておくと、名古屋で販売されている「トランパス」(地下鉄と名鉄、各バスに乗れる)は5000円購入すると5600円分乗れる。
したがって、12%のプレミアということになる。
ところが、現実的に考えると、なかなか難しい。
今回の「景気をつかもう商品券」は。2つの観点から非常に使いづらいものになっている。
まず1つ目は、多くの人が指摘している「ドリンク類の多さ」である。
セット券には自動的にドリンクが付く。ということは、10杯+10杯+9杯で、29杯(Mサイズ)ある。
これにSサイズのコーヒー券30枚(=30杯)と、Sサイズドリンク2杯チケット4枚=8杯があるから、Sサイズ38杯、合計67杯のドリンクがつくことになる。
マクドナルドによれば、ドリンクはSが210g、Mが325g、Lが420gらしい。
ということは、全部コーヒーにすれば、17.5kg弱ということになる。
18kgとして、ディスカウントストアでペットボトルを買えば2ケース弱ということになる。
テイクアウトと仮定した場合、3000円もあれば他の場所でも買えるものであるから、ドリンクの約4500円はまったく不要であるということになる。
この段階でプレミアは6000円ちょっとまで下がる。
すると、90%を越えるプレミアは、なんと50%半ばまで減少してしまうのだ。
ドリンクをイートインで飲む場合はどうか。
コーヒーだけでマクドナルドにはいると言うことはなかなかなさそうだ。
つまり、38杯を食事で消費するとして、最も安いハンバーガー(またはマックポーク)を単品で別に頼むとする。
すると、3800円が別に必要になる。
となると、プレミアは60%程度まで減少する。
これをチーズバーガーなど高いハンバーガーに変更したり(よっぽどマックポークが好きでなければ、マックポークを38回も食べ続けることは難しいだろうから、現実的には他のハンバーガーを頼むことになるだろう)、ポテトをつければ、ますますプレミアは減少することになる。
そして2つ目のもっと難しい現実、それはこの商品券の有効期限が半年しかないということだ。
1人で消費し、かつドリンクチケットと一緒にハンバーガーも頼むと仮定すれば、67回マクドナルドで食事することになる。
半年間で67回である。
平均すれば1ヶ月に11回から12回程度、マクドナルドで食事をすることになる。
1ヶ月に12回ということは、2日に1回弱のペースでマクドナルドに行かなければならない。
いくらマクドナルドが好きだからといって、果たして2日に1回もマクドナルドに行くだろうか?
いや、ひとり暮らしで料理下手なのでという人もいるだろうが、前述した通り現実的に使用するとして、12000円にもう4000円くらい必要であり、かつ67回の食事となると、1食あたり250円弱ということになる。
12000円あればコメ10kg3000円として、40kgは買える。
著者は、だいたい1ヶ月に4kgのコメを食べている。
コメ40kgなら、10ヶ月分ということになる。
いくらひとり暮らしで料理がへただとしても、炊飯器と電気があればコメくらいは炊けるだろう。
となると、半年で12000円と、10ヶ月で12000円ならば、どちらが経済的に有効か、言わずもがなである。
また、このチケットは実にイヤらしいことに、中途半端に偶数にならないように配慮されている。
セットCが9枚、サイドメニューとシャカシャカチキンが3枚ずつと、2で割り切れない。(かといって、3でも割れない。)
きっちり2で割り切れるなら、マック好きな人6000円ずつ折半でというのもアリだろうが(それでも5日に1回くらいはマクドナルドということになる)、おおざっぱに分ければいいじゃんという人はともかく、3人以上で分ける場合トラブルになる可能性もある。
さらに、マクドナルドの場合、ウェブサイトで定期的にクーポン券を発行している。
現在のクーポンにあるアイスコーヒーの場合、120円が100円になるし、他にも様々な商品が安くなる。
定価ではなく、このクーポンの価格で計算すれば、プレミアはますます下がる。
この文章では最も高いものや安いものを選択しているが、現実的には好きなものを選択するだろうから、実際のプレミアについては30%程度になると考える。
ドリンクの原価率を考えれば、12000円でも充分粗利が取れるだろうから、会社としては大もうけである。
そして身も蓋もないことを言うと、健康への影響と言うことがある。
つまり、「スーパーサイズ・ミー」である。
あの映画については「平均して1日5000kcalだから、マクドナルドじゃなくても体をこわすだろう」という批判もあるが、なんにせよマクドナルドの使用する油脂が、健康的なオリーブオイルと比較して人体にどんな影響を及ぼすか、ちょっと考えればすぐにわかることだ。
カロリーだけで計算する。
クォーター・パウンダー・チーズ10個+ダブルチーズバーガー10個+チーズバーガー9個+Mサイズフライドポテト29個+Mサイズドリンク(コカコーラ)29杯
この時点で30,093kcalである。
身長170センチ、体重65キロ、30歳男性が1日に必要なカロリーは約1600kcalである。
29回の食事で、約19日分だ。
推測でしかないが、おそらく、いや、きっと、太る。
急激な体型の変化に伴う出費、たとえばスーツの仕立て直しや、フィットネスクラブの会費、医療費などを考慮すれば、目に見えない出費はかさむだろう。
ということは、このマクドナルドの商品券は、決してお得であると、私には思えないのである。
……まあ、結論は最初から出ていたんですけどね。
※なお、マクドナルドが近く、深夜まで残業しているオフィスの場合、毎月定額を出し合うプール資金で購入するなら買ってもよいと思う。すなわち法人向けのチケットであって、個人向けではないということになる。
名古屋国際女子マラソン。
オリンピック代表選考会も兼ねる、重要なフルマラソンだ。
女子マラソンが日本のお家芸となってからは、マスメディアの注目も大きい大会である。
したがって、朝からヘリコプターが飛び交い、交通規制が敷かれ、普段なんでもなく使っている横断歩道を渡るのに20キロくらいの遠回りを強いられる。
地元住民による暖かいご理解とご協力によって成り立っている大会だ。
以前ならば「この日はマラソンだで、買い物は前日にすませとこ」みたいな感じでしかなかった。
だが、ある年、ある選手がとんでもない記録で大会新記録を樹立し、かつその選手が東海三県である岐阜県出身であり、かつその選手が女子マラソンの分野でオリンピック史上初の金メダリストに輝き、さらに東海三県出身者ではじめての国民栄誉賞まで手にしてしまった。
それ以後、名古屋国際女子マラソンの注目度は明らかに上がり、特に地元出身の有望選手に期待のまなざしが向けられるようになった。
このきっかけとなったマラソン選手とは、言うまでもない、Qちゃんこと高橋尚子氏である。
読者の何名が名古屋以外の在住者かはわからないが、高橋尚子氏は東海地方の英雄である。
マラソン選手は多数いるが、高橋尚子氏への扱いは別格と言っていい。
前述した地元の若手選手への注目というのは、言うまでもなく「第2のQちゃん出てこい」という期待に他ならない。
その高橋尚子氏、TBS系列のニュース番組にて、スポーツキャスターへの転身が発表されている。
確かに、国民的人気アスリートだったのだから、そのままキャスターにすれば番組の視聴率も高くなる可能性がある。
テレビ局からすれば、当然の判断であろう。
他国でどうかまでは知らないが、日本において、人気アスリートは引退後、しばしばスポーツキャスターとして起用される傾向にある。
昨年の北京五輪では、井上康生氏がお笑い芸人とコンビを組んでいたし、ビーチバレーの浅尾美和選手は引退すらしていないのにリポーターを担当していた。
ずいぶん前だが、元横綱若乃花こと花田勝氏もスポーツキャスターだった時代があった。(その後アメフト選手を経て、現在はちゃんこ屋の経営者)
地元の英雄に向かって失敬なことを書きたくはないが、高橋尚子氏のスポーツキャスター挑戦は、ちょっと難しいのではないかという気がしている。
せめてマラソン解説者とか、講演会やマラソン指導をするとか、市民マラソン大会のゲストだとか、そこら辺からはじめるというわけにはいかなかっただろうか。
というのは、人気アスリートのキャスター挑戦というのは、だいたいの場合において批判の対象になるからである。
理由は花田勝氏がなぜ現在キャスターではなく、ちゃんこ屋の経営者なのかという事実を考えればすぐにわかることだ。
北京五輪の際は、浅尾選手や井上康生氏に批判が集まったが、とにかくアスリートというのは体を使って競技することが本業である。
ということはどういうことかというと、運動神経は大いに発達しているわけだが、「話す」ことが必ずしも得意と言うことではない。
こういうことを書くと松野明美氏はどうなんだと言われそうだが、松野氏は例外と解釈しているし、彼女はキャスターと言うよりもタレントに近い扱いを受けている。
高橋尚子氏は、松野氏のようなあっけらかんとしたタレントという風格ではない。
ただただ、走ることが大好きな人であろうから、走ることも好きだけど、同じくらい話すことも好き(そう)な松野氏に比べて、タレントとしては難しいことになる。
ならば星野仙一氏はどうかということになるが、星野仙一氏はアスリートと言うよりも政治家に近い感がある。
個人的な感想であるが、次の選挙に立候補しても、あまり衝撃というものはないであろう。
このような理由で、高橋尚子氏のスポーツキャスターについては、多くの歴史が先例を示すとおり、厳しいものになると思っている。
では、地元の英雄に対してどういう態度を取るべきかというと、暖かく見守るしかないだろう。
だいたい、新人に、かつてトップアスリートだったからというただそれだけで、突然こんな大役を任せるメディアの思考がおかしいのだ。
「つまらない」「もっといいコメントを言えよ」なんて、すぐには無理なのだから、批判そのものがおかしい。
「いきなりキャスターを任せるとは、TBSは馬鹿だ」という批判が正しいのではないかと思う。
(論がずれるのであまり書きたくないが、ここ最近TBSのスポーツ中継の姿勢は本当にひどい。私は本気でTBSにはすべてのスポーツ中継をやめて欲しいと思っている。注目していた大会であっても、TBSが中継するならばゼッタイに見ない。)
では、アスリートはメディアに出るべきではないかというと、そんなことはない。
アスリートはアスリートとして、アスリートにしか出来ないことがある。
身体全体で競技をしてきたのだから、身体全体で伝えることが可能だろうと考える。
その最大のお手本が松岡修造氏と松木安太郎氏である。
彼らが日の丸のはちまきを身につけ、「ニッポン」と書かれたTシャツを着たならば、どの競技であろうとスポーツキャスターとして成り立つ。
「うぉおおおおおお!勝ちました!ニッポン!勝った!!やったあああああ!!」
などと叫び、横で女子アナがニュースを伝える。
たとえば次の冬季五輪のスキージャンプで、日本が団体で金メダルを取ったと仮定する。
その次の瞬間、現地で感動と喜びのあまり、防寒コートを脱ぎ捨て、Tシャツ1枚で喜びのダンスを踊る松岡修造氏が画面に大写しになる。
それを見た視聴者も、「日本が金メダル」という事実をしっかりと認識する。
アスリートのキャスターというものは、言葉の専門ではないのだから、言葉を紡ごうなどと最初から思わない方がいい。
言葉以外の方法で、テレビの前の視聴者に感動を伝える。
難しいことだが、それを身につけることが、アスリートがスポーツキャスターとして成功する方法だろうと思う。
したがって、最終的に行き着くことは、「それでも私たちは言葉の力を信じている」と宣うメディアは、本当に言葉を大切にしているのかという疑問だが、これについてはまた稿を改めたい。
※当サイトでは原則文中に敬称を付けるようにしていますが、本稿では論の流れの都合、敬称を省略しています。ご了承下さい。
今年の6月でこのウェブサイトは10年という節目を迎える。
10年目ということはどういうことかというと、スタート時に17歳手前だった高校生が、27歳手前の男になるということだ。
27歳ともなると、周囲にちらほらと結婚するヤツが出てくる。
成人式には妊娠中の同級生がいたが、なんにせよ、結婚する人が出てきたという事実は、否応なく「お前は結婚するの?」という問いかけへと変化していく。
するか、しないか、あるいは、したいか、したくないかと言われると、何とも答えづらい設問である。
私は努力することが大事だと思っているのだが、結婚はどのような努力をするべきなのか、そしてその努力の効果はどれくらいなのか、不透明すぎると感じている。
そんな不確定な要素にエネルギーを使うくらいなら、自分の学問的好奇心を満たした方がいい。
学問に対する努力は、すべて自分に返ってくる。ローリスクな投資だ。
また、機能不全家庭で育った家庭環境の影響もあるし、周囲にも不幸な結婚をして離婚されたご家庭があって、そういうのを見ると「結婚なんてするもんじゃねえなあ」と思ってしまう。
だが、結婚に価値がない物ならば、文明が持続する中で淘汰されたであろうから、その制度に意義があると考えるのが自然である。
したがって、そのような質問に対して、自分は「結婚はした方がいいだろうと思う」とコメントしている。(もちろん、その後には「よい縁があればの話であるが」、と付け加える。)
『機動戦士ガンダム』監督の富野由悠季は雑誌の人生相談をまとめた著書『富野に訊け!』の中で、結婚は恋愛のためではなく生存や生活のためにすると指摘し、重病になった際に看病をしてくれるパートナーの存在が生活上意義があるとしている。
とはいえ、その指摘は「病気になったら救急車を呼べばいい」という反駁がなされるだろうし、フェミニストからは「生存や生活のため」という部分が「女性を家事労働の道具と思っているのか」と批判される可能性もある。
経済学者の森永卓郎は「男は結婚しなくていい。家事や料理をマスターして、ひとりでやっていけばいい。」とどこかの新聞で述べていた記憶がある。
この10年で「結婚」に対する議論というものはずいぶん深まった印象がある。
当サイトをはじめた10年前も独身者が多かっただろうが、ここまで深刻な社会問題として捉えられていたとは言い難い。
「結婚」への議論が深まった反面、わからないことも多くなってきた。
少子化の原因は非婚である。これはそうだろうと思う。
では、非婚の原因は何か。
しばしば保守派の政治家や反フェミニストから出るのが「女性の社会進出が原因」とする説だ。
キャリアを得た女性が、結婚や出産を犠牲にして仕事を選び、独身を貫く。酒井順子『負け犬の遠吠え』は記憶に新しい。
これは、だいたい「したがって、キャリアを得た女性が育児しやすい環境を整えるべきだ」という結論に行き着く。
反対する材料はないので当然改革は進み、育児休暇の充実など、ここ数年でキャリア女性への育児環境はずいぶん整ってきた。
だが、非婚化は解消されたと言い難い。つまり、原因は他にもあったということになる。
非婚について、近年メディアは盛んに報道している。
その際に非婚の原因としてやり玉に挙げられるのが2つある。
1つ目は、男性のオタク化である。
つまり、パソコンやアニメ、マンガによって男性が女性との付き合いをさけるようになり、女性と付き合わなくなり、結果として結婚しなくなった、というものだ。
2つ目は女性は男性を選ぶ条件と実際のギャップである。
女性は男性に高収入を期待し、年収600万以上を最低のラインとし、身長と学歴、ルックスをオプションとして選ぶ。
だが、実際に年収600万を超える男性は少なく、その中でさらに身長と学歴、ルックスも適合するかとなると、きわめて難しくなる。
「男性は生身の女性から逃げている」「女性は現実を見ず、理想が高すぎる」というのが、非婚化についてメディアが取り上げた際、しばしば言われることだ。
したがって、議論もこの前提で進む。
1つ目の原因については作家の室井佑月や漫画家の倉田真由美が「オタク批判」のコメントを出していた。
だいたいの主張をまとめると、二次元に萌えてる太ったキモオタなんて願い下げである、女が結婚しないのはいい男が減ったからだ、などである。
近年では女性雑誌において、『電車男』のヒットなどから「オタクを自分好みに改造すればいい」という言説も目立ってきたそうだが、裏を返せば「女性(読者)が結婚出来ないのはオタクが増えた(=相対的にいい男が減った)から」という認識が共有されていると考えられる。
2つ目の原因については評論家の本田透が著書『電波男』や『萌える男』などで主張している。
主張については以下のようなもので、メディアによって「恋愛資本主義」が主としてバブル期、女性の間に浸透した結果、男は女性にとって贅沢な生活を送る金づるとしての存在になった。
年収という条件と、容姿によってフィルタリングされ、年収1000万円でハンサム(イケメン)、身長180センチ以上、趣味はテニスなどといった男しか選ばれなくなった。
ネット界における「※ただしイケメンに限る」というものだ。
そこに愛は存在しないのであり、愛を捨てた女と結婚する価値はない、という。
本田は著書の中で、真実の愛は二次元にしか存在しないことを主張し、脳内彼女に萌えることで人間は幸福になれると主張している。
本田の主張はずいぶんドラスティックで、オタクの中でも賛否両論あるが、ここでは評論しない。
両者が議論したとして、突き詰めれば「男が悪い」「女が悪い」ということだから、単なる水掛け論に終わることは想像出来る。
とはいえ、それぞれの要因が「完全なる間違いだ」と断言出来ないために、室井や倉田、本田や森永らは、自らの主張に確信を持って今後も主張するだろう。
ここで重要なことは、「間違っていないことが、必ずしも正しいと言い切れない」ことである。
彼らは間違っていない前提で主張や議論をしているのだが、それが正しいのか、それも含めて色々と調べてみた。
ここで読んだのが社会学者で中央大学教授の山田昌弘の著書である。
山田は現代社会学においてメディアでしばしばとりあげられる人物であり、メディア的に受けの良い造語をしばしば作り出している。
「パラサイト・シングル」「格差社会」のほか、昨年しばしば耳にした「婚活」(結婚活動)も山田の作である。
著書『少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ』(岩波新書)において、山田は少子化と非婚化が進行した理由を2つの理由から説明している。
1つ目がニューエコノミーの影響により、若者の就労環境がきわめて脆弱になり、結果として常に失業等の経済的な不安を抱えていること。
2つ目が、パラサイト・シングルと呼ばれる、成人後も両親と同居して豊かな生活を送ることにより、結婚後の生活期待水準が上がることである。
結婚後の期待水準というと、ブランドもののバッグや化粧品を買いあさると言った、いわゆる「スイーツ(笑)」的な想像をするものもいるだろう。
だが、山田は子どもへの教育投資は多くの親が積極的であることを指摘し、相手の収入では「おけいこごと」に通わせられないなら、よりよい相手との結婚を待つ女性が増えているとしている。
特に成人女性の場合「家事手伝い」として自宅に残ることが社会的に認められている傾向があり(男なら間違いなくニート扱いである)、非婚化に拍車をかけていると指摘している。
山田によれば、非婚が加速しているのは男性の収入が低い場合が多いという調査結果が出ているという。
ところが表だって「収入の低い男は結婚出来ない」という議論はタブー視されているらしく、山田によれば新聞では訂正を求められ、官公庁の報告書では削除を要請されたという。
実際、メディアでとりあげられる際は「女性の理想と、現実のギャップ」という風にぼかされている。
これは山田によれば、理由は「低収入男性への差別を助長する」とあるが、私の推測ではそれだけでなく、収入格差は非正規雇用や低賃金への批判へとつながるわけで、メディアのスポンサーである大企業批判をメディア側が自主規制していると考えている。
こうして結婚の現状は把握出来たが、その以前の状況も理解せねばならないと考えていたところに、偶然よい本に出会うことが出来た。
神島二郎の『日本人の結婚観』(講談社学術文庫)である。
元々は1961年に発表された『結婚観の変遷』(新潮社)であるから、半世紀前の本である。
これがなかなか衝撃的な本で、明治維新による近代化以降、日本の社会制度は単身者主義であったという。
たとえば軍隊の一般兵は独身であり、低賃金で職務に没頭することが求められた。
職務だけではストレスがたまるわけで、売春宿が整備され、レクリエーションとして余暇を費やす仕組みが社会的に整備された。
このほか共同体や大家族が崩壊し、結婚を担ってきた存在がなくなり、厨川白村(くりやがわ・はくそん、評論家、1880-1923)の主張するように「見合い結婚は女性蔑視であり、恋愛結婚こそ崇高である」との主張はかえって結婚を遠ざけるであろうとしている。
特に、恋愛を崇高なものとして賛美し、生活をないがしろにすることは、結婚と家庭の維持が着地点ではなく、不貞の恋愛を助長し、家庭を解体するという主張は、本田透の主張に共通している。
だが、女性のレジャーやマスメディアによる消費刺激については本田同様批判しつつも、元来そういうレクリエーションは男のためのもので、女もはじめただけとしている。
つまり、女性も余暇をレクリエーションにするから、どんどん結婚が難しくなるだろう、というのだ。
50年前の本であるから、今の価値観で判断するのはさけるべきだが、なかなか鋭い指摘である。
そして、私が最も驚いたことが結論の部分にある。
「結婚のために必要なことは、就労して賃金を上げ、生活の基盤を作ることだ」というのだ。
結婚に必要なものは経済力だという指摘は山田に共通である。重ねて言うが、半世紀前である。
もちろん、山田との差異もある。
神島は共同体における生活ではない現代の都会では、見ただけでは相手の適性を見極めることが困難であること、職場での出会いが必ずしも保証されていないことを指摘している。
逆に山田は大学のサークル活動などを通して、異性との交流が活発になっているから、相手を見る目は肥えているとし、また職場が結婚のための出会いの場であると指摘しているので、興味深いギャップである。
なんにせよ、近代以後の日本は、単身者をバックアップする社会制度が整備されたという考え方は実に面白く、真夜中に興奮しながら一気に読んだ。
山田は趣味にかける投資金額が高くなっているとはしているが、明治以降の社会制度までは言及していなかったのだ。
神島は山田の説明を補完したのである。
このような非婚化社会が今後大きな問題になりうることは山田をはじめ、多くの社会学者や有識者が指摘している。
その対策も、効果のほどはともかく、実行されつつある。
とはいえ、家庭を無理矢理に存在させたとして、家庭が機能不全を起こしては何ともならない。
未婚・非婚についての過程や原因はそれなりに理解出来たが、次なる疑問は家庭の機能不全の原因と社会的背景である。
ひとつの疑問の解決は、次なる疑問を生む。
それゆえに、学問というのは、楽しいと思っている。
いつだったか、週刊少年ジャンプの部数が低下しているというニュースを聞いたとき、「いっそのこと、ドラゴンボールを『ジョー&飛雄馬』みたく、最初から掲載したら?」というジョークを言ったことがある。
実際、スーパーマーケットのお菓子売り場に行けばドラゴンボールのカードがついたチョコレートが売っているし、文房具売り場に行けば孫悟空のついた子ども向けノートが販売されている。
ドラゴンボールの人気は、非常に根強いものがある。
マンガ「ドラゴンボール」は11年、アニメ「ドラゴンボール(無印)」「ドラゴンボールZ」「ドラゴンボールGT」も1986年2月から1997年11月まで、11年の長きに渡って放映された。
(なお、本稿ではこの先「ドラゴンボール」という単語を何度も出すが、これは基本的にアニメ作品のシリーズを指し、マンガの原作版は除外して論ずる)
「サザエさん」や「ドラえもん」といった「ぐるぐるアニメ」などと言われる作品は別として、キャラクターの成長を描きつつ11年の長い期間で放映が行われた作品というのはこの先なかなか出てこないと思う。
最近では親子二代でドラゴンボールが好きという家庭もあるだろう。
特筆すべきは「仮面ライダー」や「ウルトラマン」などとは違い、父親の好きなそれと、子どもの好きなそれが、同じものであるということだ。
「ゲゲゲの鬼太郎」のように、キャストを一新して復活ということもない。(ちなみに筆者の世代の鬼太郎は戸田恵子さんだ)
「ドラゴンボール」は、常に「ドラゴンボール」であり、孫悟空の声は常に野沢雅子さんなのである。
私の世代において、アニメ「ドラゴンボール」シリーズの中でも特に印象深いのが「ドラゴンボールZ」である。
1989年4月に放映がはじまり、1996年1月まで約7年、放映されている。
これは私にしてみれば小学校1年生から、中学校1年生までにあたる。(ちなみに完結編となったドラゴンボールGTの最終回は中学3年生である)
子どもから大人になる境目に、常にドラゴンボールが存在していた。
毎週熱狂的に見ていたわけではなかったのだが、周囲の人間が全員見ていたので、イヤでも情報が入ってきた。
ナメック星が爆発したときに、「悟空死す!」みたいなサブタイトルだったのだが、それを見逃して、翌日学校で「悟空が死んだ?」と聞いたら、「心配しながら見たけど、死んでなかったよ」みたいな答えが返ってきたことを覚えている。
(なお、執筆に当たって調べたら、1991年9月頃オンエアの106話「ナメック星大爆発!宇宙に消えた悟空」が該当すると思われる)
アニメ「ドラゴンボール」をあまり見ていなかった理由はいろいろあるだろうが、今思えばテンポが悪かったというものがある。
いつだったか友人と調べたのだが、フリーザ編が72話、セル編が77話、ブウ編が92話というとんでもない長さで、「こんなにやってたか?」「話の印象の割に、ずいぶん長い話数だねえ」という話になった。
実際、悟空がスーパーサイヤ人になり、フリーザが最終形態になってから長いこと殴り合っていたのだが、ちっとも決着が付かなかった印象がある。
これはアニメが原作に追いつけば、アニメが終わりかねないということもあるだろう。
なにしろ、連載終了に当たって鳥山明氏本人と集英社だけでなく、バンダイや東映アニメーションの重役会議が行われたと言われるほどだ。
重役会議は噂の域を出ないが、世界規模の作品を終わらせるために、なにがしかの調整があったとしても不自然ではない。
まさしく、ドラゴンボールという作品はサブカルチャーにおける金字塔と言っても過言ではない。
そのドラゴンボールが先日、新作アニメで復活というニュースを聞いた。
見ていないのだが、嬉しかったという感想の他、やっぱり天津飯はいなかったなどの感想(※天津飯を演じた鈴置洋孝氏が鬼籍に入られたため)を聞いている。
それが前ぶれだったのかどうかはわからないが、ドラゴンボールZがテレビアニメとして復活するらしい。
前作「ドラゴンボールZ」のフィルムをHDリマスターし、再編集を施して約100話にして、声優さんによる再アフレコを行っての再放送だという。
新規カットが入るかは不明だが、「新訳劇場版・機動戦士Zガンダム」3部作もあったことだし、洋画などではドルビーサラウンドにHDリマスターで再アフレコというののも多いので、決して物珍しいことではないとも思う。
だが、これがテレビでのレギュラー放送となると、ちょっと異例だ。
しかも、100話という情報が正しいとしても2年間かかる。
2年間という放送期間を考えると、相当なキャラクター、すなわち鬼太郎やセーラームーン、ドラゴンボールといったものでなければこういう企画は通らないだろう。
そういう意味では、前代未聞である。
幅広い世代にドラゴンボールZが愛されている証明であるから、大いにやればいい。子どもたちも、その親も喜ぶだろう。
だが、同時に、これは相当に禁断の果実ではないかという思いもある。
今までのフィルムを掃除して、切って貼って、声優さんの声を録り直して、ハイ、できあがり。
リマスター処理にかかるコストもあるし、ギャランティの都合もあるから、制作費が異常に安くなることはないと思うが、スポンサーからすればここまでリスクの少ない作品はない。
ゼッタイに回収出来るだろう。
ニューエコノミーにさらされているスポンサーの姿勢を、安易だ、守りに入りすぎだと非難することは出来ない。
だが、これは、新しいものを生み出していると言い切れるのだろうか。
新規作画で、脚本を練り直してリメイクならまだしも、既存のフィルムを切って貼って、行き着く場所は結局ウーブと会うだけなら、どこまで価値があるのか。
こういう作品を作らざるを得ないという意味で、日本のサブカルチャーが隆盛を迎えるどころか、空洞化の一途をたどっている現実に、嘆息せざるを得ない。
とはいえ、フリーザ編でスーパーサイヤ人が発動したときは本当に興奮したので、フリーザ編あたりは喜んでみてしまいそうな気もしている。
そういう意味では、私も共犯者といえるかもしれない。
先日自室を整理していたら、高校生時代のメモが何枚か出てきた。
懐かしさと同時に気恥ずかしさもあって、直視しがたいものもあったのだが、考えてみればこのウェブサイトもアドレスこそ変わったが、高校時代から細々と続いている。
高校時代といえば、周囲の最大の関心事は大学受験だった。
1年生の頃から「どこの大学を目指すか」というのが当然のような風潮であった。
私はその関心事に様々な事情が重なって乗り遅れ、1年の浪人を余儀なくされた。
その原因は不運な私事もあっただろうが、最大の原因は目標の喪失だったと思う。
簡単に言えば、「どの大学を目指したらいいかわからない」ということだ。
今でも同じことで悩んでいる高校生は多いと思う。
そういう高校生に教師からよく言われたのが「自分のやりたい、興味のある分野の学部へ行け」ということだった。
受験情報誌にはフローチャートがあって、それのイエス・ノーで興味のある学部が選ばれた。
私の場合、すべてにおいて社会学部に落ち着いた。
したがって社会学部、あるいはそれに近い学校が選ばれた。
そして受験し、落ちた。
思い返せば、あの時受からなくて本当によかった。
というのは、「興味のある学部へ行け」というのは間違いではないだけで、正しいことではないと思っているからだ。
先日、社会学者の書いた新書やら単行本やらを読んだ。
興味のある分野である。
それについて知りたいと思っている。
そして、実際にそれを知り、満足している。
だが、大学は興味のある学問を受動的に受けるだけではない。
3年次、時には2年次から能動的に自らの学問を研究することになる。
近年は就職活動に精を出して研究などをしない人も多いらしいが、理想を考えれば受動的な学問ではなく、能動的な研究をするのが大学のはずだ。
「興味のある学部へ行け」という発想は、受動的に学んで楽しい学問と、能動的に活動して楽しい学問が乖離している可能性があるという視点を欠いている。
だが、受動的に学んで楽しい学問と、能動的に活動して楽しい学問は、決して関係のない分野ではない。
つまり、近いのだが、同じではない。
(もちろん、同じ人もいると思う)
社会学は面白い分野だ。しかし、実際に研究をすると、個人的なイデオロギーを抑圧するような場面が多々出てくる。
そういう葛藤や対立を抱えて研究をする学者もいるだろうし、いるとは思いたくないが、そういう研究に露骨な感情が加わって批判される研究者もいるだろう。
私は、自分という人間について、感情が理性をしばしば凌駕することがある性格だと知っている。
だから、学問をする場合、感情の影響が出にくい分野を選ぶことに無意識のうちにしたのであろう。
私の場合は社会言語学的なアプローチが能動的活動に選ばれた。
社会言語学は社会学と関係ある分野であるが、どちらかというと言語学のウェイトが大きい。
ところが、フローチャートでやってみると、文学部や言語学は選ばれない。
そして、言語学そのものは、一応社会言語学の都合でやってみたが、受動的に学ぶだけではそれほど面白くなかった。
(なぜ講義を受けたかというと、能動的な活動のために必要な知識を得る必要があったからだ。)
ならば、能動的な活動なのだから、能動的に収集している書籍がそれなのかというと、それも違和感がある。
実は、先日、学術関係の蔵書をエクセルでリストアップして、そのジャンルをまとめたのだが、圧倒的に「思想・哲学」が多かった。
確かに、思想や哲学を実際に考えたりすることは楽しい。
だが、それを研究として認められる形にするというプロセスや結果にすることが楽しいかというと、それもまた違う。
「存在とは何か」「生きるとは何か」「人間とは何か」といった漠然とした問いかけを自分自身に投げかけ、その答えをぼんやりと考える。
思索という趣味に近いものだが、そんなものは研究として成果にならない。
ニーチェが発狂しなかった場合その思想はどういう結論を迎えたか推測するとか、そういうものが思想とか哲学の研究であって、私がやっている思想とか哲学みたいなものは、個人レベルの思考活動の枠を出ない。
日本語学や言語学の蔵書が少ない理由はもう一つある。
書籍そのものが少ないと言うことだ。
言語学や日本語学は、書籍においてしばしば「トリビアの泉」のような、雑学的テーマで紹介される。
最近では四字熟語やことわざによる「脳トレ」的な、頭のパズル本が多いかもしれない。
本格的な研究や論述を新書にしたところで、売れるだろうか。いや、売れまい。
図書館に行くと乱れた日本語を嘆く本だったり、敬語のハウツー本だったり、話し方だったりする。
日本語とは何か、どのような機能があり、それがどう変化し、この先どうなるのか、というようなテーマは、商売になりにくいらしい。
そういう書籍は講談社学術文庫から出ている硬派なヤツをちゃんと買っているわけで、図書館になくてもそれほど困らないわけだが、それでも数は少ないし、思想・哲学の方が種類が多いから、相対的に数が少なくなる。
そうなると、「学部をどう決めたらいいですか」という質問に対して「図書館で本を選んでこい」というのは無理と言うことになる。
片っ端から本を読みまくってればそのうちわかる、というのはある意味正しいような気がするので、小中高の間に小説ではなく、新書とか学術書を読みふけるクセをつけておけば、そういう疑問が早めに解決するかもしれない。
ここで話がいきなり変わる。
ある脚本家が対談でコメントしていたのだが、シナリオ学校の生徒が「アクション映画が好き」で、アクションものの脚本を書いて持ってきた。それが全然面白くない。
「その人の好きなものと、その人が書いて面白いものは同じじゃない」と述べていた。
もちろん、映画や芝居に興味がない人は脚本家に向いているとは思わない。
だが、好きで、やってみたいことと、実際に向いていることが決してイコールではないことが確かに、ある。
大学の勉強もそれと同じである。
その分野について色々知りたいと思っていることすべてが向いていることとは限らない。
小中学校時代、日本史は好きだった。
今でも好きだ。
だが、エンターテインメントとしての日本史と、実際の研究の日本史は大きく異なる。
また、近現代の歴史となると、デリケートな問題が発生する。
これは日本文化論でもそうだ。
そのデリケートな部分は、得てして感情的な方向へ走らせてしまうことがある。
社会学についても面白いのだが、実際に研究していると感情が挟まれそうになる。
(そういう感情が挟まれそうになるから、小説はあんまり読まないようにしている。読むにしても古典文学とか、ある種芸術の領域になったものがメインである。)
ここら辺、日本語とか、社会言語学などは興味のある分野としては3番目か4番目なのだが、学んでみてもそれなりに面白い。
また、能動的活動において、感情的なノイズが挟まれる余地が存在しない。
したがって、能動的活動において、向いていると言える。
好きこそものの上手なれ、は否定しない。
だが、好きならばそれがそのまま向いているというのは、ちょっと違う。
色々と思うのだが、この先、そういう視点が必要になる場面が多くなるような気がしてならない。
新年1回目の更新です。
今更ですが、今年もよろしくお願いします。
本題。
去年の終わりくらいに岡田斗司夫氏の著書『オタクはすでに死んでいる』を読んだ。
『オタクはもう死んでいる』の方が個人的にはしっくり来るのだが、そうすると神谷明さんの声が脳内再生される人が多くなりそうなので避けたのかもしれない。
最近のオタクへの違和感は世代の二文字だけでは腑に落ちないところがあって、なかなか楽しく読めた。
私は第二世代のオタクに分類されるらしい。
確かにオタク論や社会学的アプローチなどが好きだ。その手の本も少しは読んでいる。
オタクでない人から、オタクとは何かとよく聞かれる。
斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』(前述した岡田氏の著書ではやや批判的に取り上げられている)では、オタクの定義は難しいとある。
これをすればオタクと認められるわけではない、と。
一方で、斎藤氏は同書の中でオタクについて「二次元の絵画で性的興奮を得られる人物」とも述べているが、岡田氏はいわゆる萌え系オタクならそうだが、鉄道オタクの大部分は電車で性的興奮を得ていないと指摘している。
オタクについて論じるとき、しばしば目に付きやすいオタク、それこそアイドルオタクとか萌えオタクとか、メディアのターゲットになりやすいオタクが論じられるわけで、地味なオタクの存在も考えると確かに定義は難しい。
個人的には社会的な認定と個人的な自認――つまり「お前オタクだろ」「俺はオタクだよ」――のどちらかが発生してオタクという存在が定義されると思っている。
言うなれば、「俺はオタクじゃない、ファンだ」と思っていても、「あいつはオタク」と周囲が認識すれば本人の意思にかかわらずオタクとなる。
クリスチャンになるには本人の意思で洗礼を受ける必要があり、これによって自他共にクリスチャンと認められるわけだが、定義づけに本人の意思が考慮されないというのは、斎藤氏のいう「新しい文化であり、未成熟だから」という指摘に一理があり、岡田氏の著書通りとするならば、文化的な発達以前に衰退がはじまっていると言うことも考えられる。(もちろん、オタク的なものが消滅するわけではない。)
オタク論についてはまとまっていないし、またいずれ別の機会にやりたいと思う。今日はオタク論はマクラのネタでしかない。
岡田氏はオタクについて、「自分の好きなものを周囲に伝えずにはいられない人間」だと記している。
これも若干違和感があって、それこそ、自分はこのサイトで好きなことを書いているけれども、誰彼かまわず自分の好きなことを伝えているわけではない。
会話で好き勝手に話す傾向はあるが、それは誰でもそういう側面があるだろう。
やはり定義付けは難しいということになる。
ただ、オタクの一般的傾向として、想像力が豊かであるというのは、間違いないのではないかと思っている。
もちろん、想像力が豊かな人が全員オタクではない。オタクでも想像力の弱い人もいるだろう。
だが、オタクというのは想像力、よく使われるのはイマジネーションが強く、しばしば「妄想」などと自嘲(あるいは揶揄)気味に語る(語られる)ことが多いように思う。
個人的な経験ばかりで論拠に乏しいのはわかるが、オタク的な話をするとき、「もしも何々が○○ならば」という会話はそれなりに多かった印象がある。
もちろんオタクでなくともそういう「仮定の会話」はするだろうが、それこそ「もしも風の谷のナウシカを原作マンガ準拠でアニメ化するなら劇場版かOVAか」のような会話をオタクはよくする。
オタク的な人間を3人集めて、共通するネタの「もしも○○が××なら」でネタを振ってみれば、少なくとも2時間くらいは会話が続くだろう。
ここから徐々に本論。
今日は無駄に長いよ。
先日自宅を整理していたら、以前「妄想」した名残が見つかった。
まず、中学生の頃に考えた俺ロボットのアイデア『ピースメーカー・ダングルス(仮)』というメモが見つかった。
内容は、当時好きだったロボットアニメの内容を適当にミックスしたような作品だ。
(ちなみにダングルスという名前は著作権フリーなので、いればの話ですが今度やるロボットの名前に是非使いたいという方はご自由にお使いください。ただし、転けても関知しません(笑)。)
さらに整理したら、クロスオーバーもののメモが2本出てきた。
アニメやマンガなどの分野だけかもしれないが、オタクはパロディやオマージュやクロスオーバーが好きだ。
パロディについては『かってに改蔵』や『ケロロ軍曹』などが支持されることからもわかるだろう。
新作映画などで監督がリスペクトする映画をワンカット、オマージュとして挿入することもある。
評論家や映画マニアが「あの場面はあの部分だな」なんてしたり顔でコメントして、いかに自分が映画を見ていかるかをアピールすることもある。
ただ、クロスオーバーともなると一般的な映画ではあまり見られない。
それこそ、製作会社が同じ映画で、かつての人気俳優がカメオ出演し、「この映画はあの映画と同じ世界ですよ」とアピールすることもあるのだが、最近はカメオ出演といえば……まあ、なんというか、言葉を濁すことになる。
中学生から高校生のころの自分がクロスオーバーとして意識したのは言うまでもなく、ゲーム『スーパーロボット大戦』シリーズである。
『第四次スーパーロボット大戦』は、これで遊んだおかげで内申書を41から37まで4つも下げたという自分にとって因縁の作品だ。
この経験は「勉強よりゲームを選んでしまった」わけで、個人的にどんなに本を読んだり、事象の考察をしたところで、自分がインテリゲンチャになり損ねた証明書みたいなものである。
オタクであることは楽しいし、前向きに捉えているのだが、あの経験は自分の中に決定的なコンプレックスを形成してしまった(さらにその数年後、改造コードを入力することでいとも簡単にクリア出来たこともそれに拍車をかけた)気がしてならない。
話を戻そう。
クロスオーバー作品のメモ、1つ目は『聖機動伝説ガンバイオン』というものだ。
どこかで聞いたことのある…と思った人は多分、正しい。
『聖戦士ダンバイン』『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』のタイトルを分解してくっつけただけだ。
登場するのは前述の3作品のほか、一部に『重戦機エルガイム』のキャラクターが出てくる。
『戦闘メカ・ザブングル』が出ないのはメモを書いた当時『スーパーロボット大戦』に参加していなかった(だからよくわからなかった)からであり、『ブレンパワード』に至っては放送が始まっていなかった(または見ていない段階)だった。
『ガンバイオン』はメモによれば、バイストン=ウェルに召喚されたショウ=ザマが聖戦士として、同じく聖戦士のアムロ=レイやシャア=アズナブルとともに、巨神ガンバイオンの秘密を巡って時に戦い、時に協力しあう、SF冒険戯曲である。
ここで今、戯曲、と書いた。
これははっきりと覚えているのだが、ガンバイオンは俺だけのアニメの企画書とか、ゲームとか、小説ではなく、舞台劇を念頭に置いてかなり真面目に作ろうとしていた。
理由は簡単だ。
舞台劇なら自主製作映画と違って、実現する可能性が高いからだ。
だから『ガンバイオン』にはロボットは出てこない。
巨神の存在も最後まで暗示させて終わる。舞台では明確に出せないからだ。
この話を聞いた友人は「良くも悪くもすごい発想だ。」とコメントしたが、自分でもそう思う。
パソコンやインターネットの発達が不十分だった中学生から高校生にかけての当時、多少なりとも実現を目指した二次創作だったと思う。
そして、同人誌というアプローチを選ばなかったことで、コミケ的なものと縁が出来なかったとも言える。
(普通、この手のクロスオーバーは同人誌でやるものだと思う。戯曲が完成したところで誰が演じるんだって話だが、当時の自分はラジオをよく聞いていたのでラジオドラマ化とか言い出したかもしれない)
ただ、もう1本のメモはあまり評価できない。
『メタルヒーロー大戦(仮)』と書いてあったが、メタルヒーローといっても『機動刑事ジバン』『特警ウインスペクター』『特救指令ソルブレイン』『特捜エクシードラフト』『特捜ロボ・ジャンパーソン』などがクロスオーバーするだけで、ジバンの技術がウインスペクターのウォルターやバイクルになり、ジャンパーソンになった、みたいなものだった。
今なら、クラステクターの技術は宇宙刑事の技術でとか、銀河連邦警察と警視庁の関係とか、ジバンの技術は元をたどればメタルダーとか、ブルースワットの戦闘訓練を担当していたのが戸隠流忍法の師範だったとか、カブタックはビーファイターとコンペで敗れた志茂田景樹先生が作ったロボットでジャンパーソンともかかわりがあるとか、もっと他の作品とも絡ませられただろう。
メモに使った紙からすると高校時代だったので、おそらく試験前か、部活の大会前の現実逃避で思いついた軽いネタだったのだろう。
それが重要な書類として封印された紙束に挟まっていた経緯はわからない。
この手の「妄想」をしているオタクは世の中にたくさんいるだろう。
だいたい、同じ国に生まれ、同じ文化を共有し、同じ教育政策を受け、同じような漫画やアニメを見ているのだから、アイデアだって似る。
願望や欲求だって似る。
友人と「次ガンダム作るなら」というテーマで議論していたとき、「性能はジムだけど、顔だけガンダムにしてしまうとか」なんて言ってたら『アドバンスド・オブ・ゼータ』がはじまったし、「ガンダムシリーズの主要なMSがどこか適当な世界で入り乱れて戦う話とか面白いかもよ」などと話してたら『機動戦士ガンダムALIVE』がはじまった。
よく「俺のアイデアが」と言う人もいるが、お前程度のアイデアなんて誰でも思いつくことの証明だと思っている。
だから次アニメ化されるガンダムは、ファーストガンダムのMSを、ファーストガンダムとは別の世界で使用してファーストガンダムをリメイクする『機動戦士ガンダム・ファースト(仮)』になると断言しておく。HGUCもMGも売り上げ倍増でウハウハだ。
実際に実現しなくても知ったことではない。妄想電波がそういう風になると言ってるからだ。(←予防線)
ところが、痛いオタクがチラシの裏に書いてるようなネタが商売になることがある。
それぞれ単品では商売にならなくとも、まとめてしまえば儲けが倍増するのではないか、ついでに不良在庫も売ってしまえ、そういうことが十分にあり得る。
そういうものはこれまでVシネマとか、映画版とか、外伝的な「お祭り」で行われてきた。
民俗学的に言えば「ハレ」である。
「ケ」、つまり日常的な、テレビのレギュラーシリーズでは、ごく一部の例外を除いてそういうお祭りはなかった。
ここからやっと仮面ライダーの話になる。
数年前、居酒屋で友人と飲んでいたとき、友人が「お前、ヒーローに変身出来るならなにがいい?」と聞いてきた。
この質問に即答出来なかった。
子どもなら「帰ってきたウルトラマン!」などと即答するのだろうが、仮面ライダーBLACKもいいだろうけど、宇宙刑事ギャバンの変身ポーズも格好いいし……などと考えつつ、ふと「その日の気分とか、そのときの敵に応じて、その日変身出来るヒーローを変えるとか、面白いかもね。今日の敵は空を飛ぶからスカイライダーとか、今日の敵は拳法の達人だからスーパー1とか……」と思いつきで話した。
その思いつきで話したネタが、よもや現実になるとは思わなかった。
先日からはじまった新しい仮面ライダー、『仮面ライダーディケイド』。
ディケイドというのは英語で10年という意味(数字としてではなく、期間として区切っての10年)で、『仮面ライダークウガ』から数えて10作目になるから『仮面ライダーディケイド』だという。
ずいぶん安直なネーミングだなと思っていたが、後輩が「ディケイド」の意味を知らずに話していたので、意外と知らない人も多いかもしれない。
(自分もTMNetworkの「Get Wild Decade Run」がなければ知らなかったかもしれないので、知らない人が多いのも無理はない)
最近は日曜日の朝8時に起きるのが難しいので、『仮面ライダーカブト』以後、仮面ライダーは全く見ていない。
だから『仮面ライダーディケイド』は知っていたが、放映日は知らなかった。
朝起きて新聞を見て、「(新)ディケイド 総登場」という文字列を見て今日からオンエア開始だったことを知った。
しかし、「総登場」とはなんだろう?特番なら、ちょっと残念だなと思った。
すると、そこで後輩からメールが来た。
なにやらディケイドに対して怒っている。
意味がわからずディケイドのウェブサイトを見てみると、とにかく、ビックリした。
実を言うと、ディケイドの写真と名前は知っていたが、ストーリーなどの予備知識は一切知らなかったのだ。
そこではじめて知った。
今度の仮面ライダーは、9つの並列世界に存在する歴代平成仮面ライダー、すなわち仮面ライダークウガ、仮面ライダーアギト、仮面ライダー龍騎、仮面ライダー555(ファイズ)、仮面ライダー剣(ブレイド)、仮面ライダー響鬼、仮面ライダーカブト、仮面ライダー電王、仮面ライダーキバの9作品のライダーに変身する能力があるというのだ。
だから「総登場」なのである。
まるでどこかのオタクが居酒屋で話していた会話そのままの設定ではないか。
You ToubeでOP映像を見たが、なるほど、子どもだったら喜びそうな映像だ。
まさしく「お祭り」だ。
だが、これ、ハレならともかく、ケとしてやるのはどうなんだろう?
柳田民俗学はちょっとしかかじってないが、ヒーローものでもハレとケの境界が曖昧になってきたのかもしれない。
すでにウルトラマンシリーズではお兄さんがゲスト出演した『ウルトラマンメビウス』という事例もあるが、あれは一応ゲストの域を出なかった。
こういうことが恒常化すると大変なことになりはしないか。
祭に口を挟むなんて野暮だから、本来は「粋だねえ」なんて言うべきなのだろうが、オタクの妄想そのままをテレビで放送されると、オタクであっても少し引く自分がいる。
もちろん、仮面ライダーが続いた方がいいのだろうから過剰な批判をするつもりはないが、これが売れたからと言って、売れる方に売れる方に流されることなく、そのとき見ている子どもたちが一生かけてリスペクトしてくれるようなヒーローを作ることを、切に望みたい。
なお、これは全く余談なのだが、『仮面ライダークウガ』が放送を開始した2000年は、私が高校3年生だったときだ。
2000年はニューヨークのツインタワーがまだ残っていたし、小泉純一郎は権力から最も遠い場所にいたし、ドリカムは3人だった。
キューバロケを敢行した伝説の最終回放送日は名古屋に雪が降る中、大学入試センター試験。
初日に降った雪が5センチほど積もる中、試験会場へ向かう私。
某大学の校門前で滑って見事に転ぶ。それを捉えるテレビカメラ。(放送されたかどうかは不明)
そこで滑ったからだろうか、センター試験は見事なまでに玉砕した。
……あれ、もう10年近く前になるのか、という感慨を持った。