Things We Said Today
〜今日の誓い〜
本年も当サイトをご覧頂きましてありがとうございました。
ご覧頂きました皆様、良い新年を迎えられますことを、心よりお祈りいたします。
来年2009年も当サイトを引き続きよろしくお願い申し上げます。
管理者 拝
※今回はネタバレをしていませんので、安心してお読みください。
年の瀬である。
2007年と2008年でなにか違ったことがあったかと問われると、劇場で映画を見た回数がかなり違った。
その理由はというと、時間と懐とという理由が大きかったと思う。
今年1年を振り返ると、ぼちぼちハコへ出かける機会を持てたことは大変幸福なことであったと思う。
「クライマーズ・ハイ」のように、迷って見なかったものもあったが、「デトロイト・メタル・シティ」のような逆の事例もあって、映画との出会いというのはなかなか「運命の出会い」みたいなものがある。
というわけで、今年の映画納めと言うことで、「青い鳥」という映画を見てきた。
と、書いたところでマスメディアで全く話題になってない作品だから、多くの人が主演どころか、洋画か、邦画かすらわからないのではないだろうか。
主演は阿部寛氏。つまり、邦画である。
こういうことを言うと否定される方もいると思うが、近年、邦画の質は悪くなっていると思っている。
もちろん、CGの発達でいい絵は撮れるようになってきた。
だが、それと反比例するように、シナリオの質が悪化している。
「ここはカットだろう」と思う場面が、残っている。
雇われ監督はスターの演技にダメ出しが出来ず、スターを使う条件として同じ事務所の若手が抱き合わせでついてきて、そのせいでシナリオが改変され、カットすべきシーンは「スターの気持ちがこもった場面だから」という訳のわからない理由で残される。
ならば最初からスターを使わなければいいのだろうが、そのスターを使えば集客が見込めるからスポンサーが付く、よって使わざるを得ない。
完全な悪循環だ。
そうなると、監督に絶対的権力のある現場が必要なわけだが、現在の日本では、監督に権力のある現場なんてそれこそ北野武氏、山田洋次氏、崔洋一氏、周防正行氏、宮崎駿氏と言った「名前だけで客が来る監督」くらいだろう。
たとえば、「踊る大捜査線のスタッフが作った」と宣伝すれば「おお!」と思う人も多いだろうが、仮に「君塚良一監督作品」だけならば、「キミヅカって誰だっけ?」なんてことになりかねない。
「そんなことはない、俺は君塚良一の名前があればどんな映画でも見る」という人もいると思うが、「踊る〜」という枕詞を抜きにすれば、大半の人は「?」となるだろう。
アニメでたとえれば、富野由悠季氏の枕詞から「機動戦士ガンダム」の文字を抜いてガンダムではない映画を作って全国ロードショーして、その筋の人々以外がどれほど見に来るかと考えればわかると思う。
そういうわけで、邦画というものに私は絶望にも似た境地を抱いている。
デーヴ・スペクター氏は「日本の映画会社はその場しのぎで作品を作っている。永遠に残る名作を撮る気はない」と痛烈に批判していたが、全くその通りで、ハリウッドのようにシナリオだけ5年も練れるところが正直、うらやましい。
そのハリウッドも「ドラゴンボール」なんて、誰のための映画なのかよくわからない映画を作ってしまったわけで、あちらも質の悪化はあると思うのだが、論点がずれるからここではその話は問わない。
今日見に行った映画「青い鳥」も、毎度おなじみの「泣き映画」になってるだろうと思っていた。
泣くと、なんとなくすっきりする。
泣かせるには誰かが死んでしまう作品がシナリオ上も、撮影上も簡単だ。
「世界の中心で、愛を叫ぶ」がヒットしたこともある。
「人が死んじゃうだけで大もうけだ」なんて思ってるプロデューサーだっているかもしれない。
ところが、今日の「青い鳥」は、これが実に不意打ちで、安直な泣き映画にはなっていなかった。
見ながら、終始背筋にゾクゾクするものを感じながら見た。
あまりの興奮に涙が止まらなかったが、単純な泣き映画と違うことは間違いない。
余計なキャストがいない。
余計なシナリオも、シーンもない。
カット割りもいい。
セリフを抑えて、状況を説明するものはない。
音楽にいたっては、冒頭とエンドクレジットを除けば、クライマックスの1カ所でしか流れない。
あとはずっと、教師と生徒の言葉だけである。
全く不満がない。むしろ、大満足だ。
久しぶりに100点満点、いや120点を付けてもいいと思った。
私は作品を評価するとき、しばしば「面白かったよ」という表現を使うのだが、それは「(私は)面白かった(が、作品としてよかったとは言えない)」というニュアンスであって、決して誉めている言葉ではない。
だから、「良かった」というのが作り手にとって誉め言葉になる。
だが、今日の映画はもう、「良かった」では足りない。
「素晴らしい」「非の打ち所がない」という表現がふさわしい。
こんなすごい映画を作るスタッフがまだ邦画の世界に残っていたのか。
そんなことを思った。
もちろん、物語というのは「いじめ」を扱っているし、感じ方はそれぞれだから「この話は嫌い」という人もいると思う。
だが、この物語の好き嫌いを抜きにして、映画の作り方として見ると、評価は当然変わるだろう。
まだまだこんな素晴らしいスタッフがいる。
そして、こんな素晴らしい演技の出来る俳優もいる。
邦画は決して終わってない。
そう思った。
蛇足であるが物語について多少触れておきたい。
レビューの中で、所々「何も解決していない」みたいなコメントがあったが、むしろ解決していないからこそ、この映画はリアリティを持っていると思っている。
「いじめ」を取り扱った物語というのは、得てして無理矢理解決させようとするから安っぽい展開になる。
いじめた側が謝って、いじめられた側が赦して、それでオシマイ。
そんな話、以前にいくつも存在して、そのたびに「安っぽい」「あり得ない」と言われていた。
また、吃音の臨時講師という、もっともリアリティから遠い存在が、かえって物語のリアリティを深め、奥深さを存在させている。
これが仮に、松岡修造氏のような主人公だったら、こんな物語を作り出すことは出来ない。
「イジメは、最低なんだよ!君、そんなこともわかんないのか!?」なんて教壇で泣きながら叫んで解決する問題なら、日本全国の学校で教員が毎日泣き叫ぶことだろう。
そして何より、観客の想像力を信頼してくれる作劇が、好感を持たせてくれた。
中には主人公の行動が現実的にはマズイと思うところもあったのだが、主人公がそのように行動することはむしろ自然であるし、そうなった結果は明示されないが、なんとなく想像できる。
ひとりひとりが、それぞれに考え、感じること。
それはとても貴重な機会である。
何から何までセリフで説明するおかげで想像できない映画が多い中で、この映画は深く想像させてくれた。
ここに、奥深い感動がある。
淀川長治先生がご存命ならば、激賞されたことは想像に難くない。
名古屋での公開は新年9日まで。
年末年始、是非皆さんで見て欲しい映画である。
前回はWEB2.0における、ウェブサイトの形態について少し述べた。
今回は、別の意味で2.0の進化というものの悲劇について述べようと思う。
というのは、世の中が不景気…というよりもこれは大恐慌というレベルなわけだが、そんな中、あるニュースに考えるところがあると思ったからだ。
そのニュースは、ソニーのブルーレイが不振である、との一報だ。
このニュースは実に「2.0の悲劇」を表しているような気がしてならない。
さて、「2.0の悲劇」というのは、私の作った造語である。
Googleで該当する言葉はヒットしなかったから、たぶんウェブで使ったのは私が初めてだと思う。
(とはいっても、この造語は著作権フリーなので、どんどん使ってもらってかまわないし、使う人も気にはしないだろう)
簡単に言えば、商品のバージョンは2.0に進化したものの、ユーザーは1.0から1.5程度で満足して2.0が売れず、業績が思ったほど伸びない、ということだ。
2.0よりVer.Kaとかが人気のマスターグレードを見ればわかりやすい。
余談だが、RX-78-2ガンダムVer.2.0に対応するGファイターが1月に発売とのことだが、予価5800円だそうで、ガンダムとGファイター合わせたら下手な超合金ロボットより高い商品(しかも、組み立てはセルフサービス)になっているらしい。
ブルーレイが不振の理由は単純である。
世界的にはDVDビデオ再生機の方が売れているからだ。
ゲームソフトにしても、「プレステ3」より、「プレステ2」の方が人気である。
「ガンダム無双」やりたさにプレステ3を購入した人は、おそらくプレステ2への移植を知って激怒したことだろう。
実際、映像家電の歴史を見ればわかることだ。
ブルーレイの出たタイミングはあまりに早すぎた。
VHSが世に出たのは1976年。
その後、10年間に及ぶベータマックスとの規格戦争が終結し、世界規格となったのは周知の通りである。
現在普及しているDVDビデオは1996年に製品の発売がはじまり、2000年に発売されたプレイステーション2によって爆発的に普及が進んだ。
私の家にDVDプレイヤーが来たのは2003年だったはずだが、自室のDVDプレイヤーは2006年に来た。
私が手に入れれば一般に普及したと言うのは非論理的だが、VHSが規格戦争に勝利してから20年が経っていたことは事実だ。
ところが、ブルーレイは1999年に発表され、2003年に製品が発売され、2006年にプレイステーション3が発売された。
アニメ「ケロロ軍曹」のセリフではないが、「次世代DVD?もう出ちゃうのかよ!」という気分になる。
こういうことを書くとアナログからデジタルへの技術革新と、デジタル内のバージョンアップにかかる時間の差異を認識していないのかと言われそうだが、充分認識している。
実際、DVDビデオは感動した。ビデオはまだ録画で使っているが、借りるときはもうDVDビデオしかあり得ない。
アナログからデジタルへの移行というのは、まず例外なく衝撃的かつ感動的である。
だが、デジタル内の進化というのは、確かに進化しているのだが、急速であり、時に理解しがたいものもある。
「多少映像が綺麗になったとして、DVDで十分ではないか」という人がブルーレイを購入することは難しい。
だが、だからといって、次世代メディア機器の開発をおざなりにしていいと言うことではない。
すでにポストブルーレイが各社によって開発されていると聞いているし、おそらく、その次のメディアについても開発が水面下では進んでいるはずである。
言うなればVer3.0、4.0の開発がはじまっている。
進化し続けることが、技術の宿命だ。
だからこそ、悲劇なのである。
ブルーレイディスクが、かつてのレーザーディスクのような徒花となるか、それともDVDビデオのような存在となるか、それは現状ではまだわからない。
だが、「2.0の悲劇」は、次世代メディアに限らず、様々な場所でこの先起こりうる。
それでも走り続けなければならないのだから、悲劇もどこまでも続く。
だから、寂滅という言葉を、ふと思い出してしまうのである。
大橋巨泉さんの言葉だったと思うのだが、「テレビ番組には寿命がある」ということを聞いたことがある。
これと同じことが、ウェブサイトにも言える。
具体的に言えば、今あなたが読んでいるこのウェブサイトは、2009年6月でついに10周年に突入するわけだが、はっきり言って寿命はとっくに尽きている。
これはこのサイトに限ったことではなく、数年前に一世を風靡した(といってもネット界の中だけだが)「侍魂」もそうだし、「ちゆ12歳」も「ガオレンジャー」当時は毎日見てたはずなのだが、近年は「思い出したら見にいく」程度になった。
ウェブサイトの寿命が尽きる理由というのはいろいろあるのだろうが、だいたい「ネタ切れ」と、「管理人の環境変化」の2つくらいに絞られると思う。
「環境」というのは、文字通り「卒業」「就職」「結婚」「転勤」といった外部環境や、「心境の変化」といった内部の環境の2つに大別されるが、早い話が「物理的に更新できなくなった」か、「更新するのに飽きた」のどちらかとなる。
「飽きる」というのは結構重要なファクターで、作者の意欲はまだまだ続いているのだが、客が飽きてこなくなる…ということもある。
当サイトなんかはぼちぼち読んでる人も飽きてるんじゃないかと思うのだが、作者が時々「書こうかなー」みたいな気分になるので続いている。
作者が「読んで欲しいなー」という気持ちで運営しているウェブサイトなら、「誰も読まないならもう辞めよう」ということになるだろう。
そういう意味で、このサイトの黄金期はとっくに過ぎ去ったのだが、晩年は長くなりそうな予感がしている。
いきなり「ウェブサイトの寿命」なんて言い出したのは、先日「探偵ファイル」を見ていて、「ぼちぼち」という気配を感じたからだ。
「探偵ファイル」が私の周辺で話題になったのは、確か「パナウェーブ研究所騒動」「吉野家大盛りネギダク祭」あたりの時期からで、当初は「匿名掲示板の補完とネタ系サイト」みたいなポジションだった。
そのあと、黄金時代はネタの他、外注ライターによる本格的なドキュメント(もう消えてると思うが、ガザ地区からのレポートが載ってたことがあった)もあった。
アンチも多かったが、私自身はそこそこ評価していて、企業としての形態を取っていたこともあり、「探偵ファイル」については寿命はかなり長いと予想していた。
それが現在の状況(黄金期の主要スタッフがほぼ退職)なわけだから、「探偵ファイル」の寿命も案外短かったなあ…と思う。
もちろん、「探偵ファイル」というウェブサイトはもうしばらく継続するだろうし、ある程度のアクセス数は稼ぐと思うのだが、かつてのような黄金時代が来るかというと、ちょっと難しいと思う。
「探偵ファイル」が新しいスタッフを雇用して、そのスタッフがいいものを書けばまた良くなる、と思っている人もいるかもしれない。
確かに、優秀なスタッフが離脱しての低迷なのだから、優秀なスタッフを集めれば良くなる、というのは自然だ。
ある程度は盛り返すと思う。
だが、それだけではおそらく難しいと思う。
というのは、「ウェブサイト」というものが進化して、新しいものに変わりつつあるからだ。
たとえば、私が今週ネットサーフィンをしたウェブサイトの中で、純然たるHTMLのウェブサイトはどこか、ということだ。
友人何名かはウェブサイトを持っているが、HTMLではない。
ウェブログ、すなわち「ブログ」である。
mixiに代表されるソーシャル・ネットワーキング・サービスも成長が著しい。
ユーチューブ、ニコニコ動画といった動画サイトの他、管理人以外にも編集できる「ウィキウィキ」あるいは「ウィキ」というものもある。
「ブログ」が登場してから、個人テキストサイトの主流はブログに移行した。
携帯電話によるリアルタイムでの更新、コメントやトラックバックによるネットワークの構築、ジャンルや日付指定によるソートも簡単だ。
書き手も楽だし、読み手が読みたいテーマを簡単に選定できる。
情報系ウェブサイトは「ウィキ」の登場で一変した。
間違った情報があるなら、指摘して更新を待つのではなく、自分で編集できるのだ。
もちろん、虚偽の情報が書かれる恐れもあるのだが、それも再度迅速に直すことが出来る。
冷静に考えてみると、HTMLウェブサイトというメディアが、わずか数年でここまで時代遅れになったのである。
その時代遅れのメディアでちんたら書いてる個人サイトもあるわけだけれども、大半は時代の流れに乗った進化を続けている。
もちろん、情報の流れが、書き手から読み手だけにシフトするHTMLウェブサイトにも、それなりのメリットはある。
サイトデザインはブログなどに比べて融通もきく。
迅速でない反面、じっくり書ける。
だが、ウェブサイトはこの数年、明らかに書き手と読み手の境界をなくす、双方向メディアへと進化している。
言い換えればベクトルが単一方向のウェブサイトは、進化に遅れている、ということだ。
かくいうこのサイトはスパム爆撃に屈してBBSを閉鎖し、双方向からどんどん離れていっているわけだが、ウェブサイトの進化というものをこれからも見守っていきたいなと感じている。
テキストをまとめていると、そのテキストの反響の大小を色々と思い出すことが多いです。
かれこれ2年前ですが、プレイステーション3発売当時、私自身が感じてきたゲーム機の進歩と発展について、ひとつ書かせていただきました。
この当時、BBSはスクリプトミスで物理的に書き込めない状態で、そのまま閉鎖してしまったのですが、友人と会った際、「プレステ3のテキストはなかなか面白かった」とのコメントをもらいました。
彼自身も似たような感想だったんだそうです。
そういえば、思春期って、自分が感じていることは自分だけのもので、他の誰もが感じていることではないと思っているものですが、この年齢になると「自分が感じていることは、割と多くの人が似たようなことを感じている」ということを当たり前のように受け止めています。
ですから、今日書くことも、ある人にとっては「そうそう、そうだった」であり、別の人にとっては「お前、何当たり前のことを書いてるの?」と突っ込まれそうなのですが、ひとつ、ご勘弁いただきたいと思います。
2年前のテキストは家庭用ゲーム機。
これを書きながら、ゲームを話題にするなら書かなければならないものがあるとは思いつつ、話題が逸れるので敢えてそのテキストから割愛したものがあります。
それは、携帯型ゲーム機です。
というか、ゲームボーイです。
今回、これを書く前にゲームボーイについて調べたのですが、ゲームボーイの発売時、最初のソフトがテトリスとマリオじゃなかったことを初めて知りました。
歴史はそうなのです。
しかし、私にとってゲームボーイ最初のソフトと言えば、テトリスとマリオなのです。
1989年、小学校1年生。
私と同じ時代にファミコンが生まれたこともあり、ファミコンというものは、気づいたとき、最初から存在していました。
ですから、ファミコンは空気みたいなもので、存在することそのものをすごいと思ったことはありません。
ソフトをたくさん持ってる同級生は普通にすごいと思いましたが、それはファミコンがすごいのではありません。
ところが、その年、ゲームボーイがでたときは「すごい!」と思いました。
というのは、ファミコンというのは自宅でしか遊べないんですね。
そして、まだあの時代というのは外で遊ぶ子どもが多かったんです。
すると、「公園でみんなと遊べ」みたいな空気になるわけです。
だから、雨でも降らない限り、それこそ、「ゲームは1日30分」で、あとはお外、みたいな不文律があったのです。
これは私の周囲にだけあって、世間一般とは違うかもしれませんが、少なくとも私の生まれ育った界隈ではなるべく外で遊べ、中で遊ぶならファミコンよりレゴみたいな空気があったと感じています。
ある日、公園に白っぽい箱を持ってきた上級生がいたんです。
それが「ゲームボーイ」でした。
とにかくビックリしました。
公園でファミコンが出来るのです。
それこそ、ファミスタで盛り上がってる最中に半ば追い出されるような形で公園に来る子どもいたわけですから、事件なんてものではありませんでした。
大事件、いや、革命と呼べるかもしれません。
そのとき遊んでいたゲームは「スーパーマリオランド」。
スーパーボールマリオが独特で、ちょっと使いづらかった記憶があります。
その後、ゲームボーイは友達の家族と旅行に行く際に誰かが持ってくるとか、「物理的にファミコンで遊べない状況なのにファミコンで遊べる」、いわばファミコンの代替として大きな役割を発揮し続けました。
小学校の林間学校でゲームボーイを持ってきて、先生に取り上げられた人もいました。
ただ、ファミコンに比べて、ゲームボーイは私たちの中でワンランク下のゲーム機だった気がします。
ゲームボーイはあくまでも「ファミコンの代替」であり、「アクションゲーム主体」だったことがあると思います。
「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」がプレイできなかったこともあるでしょう。
ゲームボーイでもっとも遊んだ記憶のあるゲームは「テトリス」ですが、2番目は「スーパーマリオランド2 六つの金貨」でした。
この「六つの金貨」は、友人の家で、「スーパーゲームボーイ」で遊んだものです。
ゲームボーイはひとりで抱え込むものなのですが、スーパーゲームボーイを使えば、ゲームボーイソフトはスーパーファミコンで遊べます。
私見ですが、スーパーゲームボーイはゲームボーイ中興の祖だったような気がします。
というのは、ゲームボーイで遊ぶことは、電池を消費するのです。
電池を好きなだけ買ってもらえる家庭の子どもならともかく、私の周囲の家では好きなだけ電池を浪費してもいい人ばかりではありませんでした。
ですから、ゲームボーイの登場の次に感動したのは、スーパーゲームボーイだった気がします。
というのは、「家でゲームボーイを遊ぶ分には、電池を消耗しなくてもいい、大きな画面で見やすくなる」ということになったからです。
なお、スーパーゲームボーイにおけるもうひとつのセールスポイントは、白黒がカラーになるというものでした。
それについても驚きましたが、いわゆるフルカラーではなかったので、逆にガッカリした記憶があります。
さて、ここまでゲームボーイについて書いたわけですが、携帯型ゲーム機は決してゲームボーイだけではありません。
しかし、色々思い返してみても、ゲームボーイを凌駕する認識を与えた携帯型ゲーム機はなかったなあ、と思うのです。
その中で唯一印象に残っているのが「ゲームギア」です。
「ゲームギアはテレビが見られます」というCMがあって、テレビが携帯できるという部分で衝撃を受けた記憶があります。
ところが、小学校3年生の時でしたか、同級生が買ったというのでテレビを見てるか聞いたら、「ゲームギアだけならテレビが見られない」ことを知りました。
テレビチューナーは別売だったんですね。
別売といえば、セガサターンでビデオCDを見るのも周辺機器が必要でしたっけ。
他にも「ネオジオポケット」や「ワンダースワン」もあったわけですが、発売されたことを知ってはいましたが、大きな印象はありませんでした。
ワンダースワンは縦でも横でもという変なセールスポイントと、スパロボが何本か出て、それに「08小隊」が参戦したらしい、程度の認識ですね。
ネオジオポケットは、あまりにもひどすぎてSNKを潰したという負の遺産の方が印象に残ってます。
携帯型ゲーム機、というよりゲームボーイの登場に大きな衝撃を受けながら、それらが現在に至るまで大きな存在となり得なかった理由が、3つあります。
その1つは、「ポケットモンスター」の発売時期にあります。
ポケモンの発売は1996年10月。
このとき、私は中学2年生。
ポケモンは小学生を中心に大ヒットをしましたが、中学校の中ではそれほど大きな話題になっていなかった気がします。
皆さんもご承知の通り、ポケモンのヒットがゲームボーイの復権へとつながったわけです。
当時ワンランク下のハードだったゲームボーイが、RPGとコレクションの要素を加えた「ポケモン」により、子どもたちにとっての大きなツールになったのが1997年。
この年は、高校受験の年だったんですね。
ですから、ポケモンが流行っていることは知っていたけれど、実際にそれを触れることはほとんどなかったわけです。
今思い返しても、あんな忙しい時代はなかったですよ。
そして、高校進学後は、それこそ友達の家がバラバラになるわけです。
そうなると、その友達の家に行って、それこそポケモンで遊ぶとか、交換するということはありません。
もちろん、ゲームボーイを持ってる人もいたとは思うんですが、ゲームボーイを学校まで持ってくる人はほとんどいませんでした。
2つ目の理由は、技術的な進化という部分です。
前回のテキストは、家庭用ゲーム機の技術進化に驚いたと言うことが主眼なのですが、携帯用ゲーム機の進化というものが、それほど大きな衝撃ではなかった、というものがあります。
たとえば液晶が白黒からカラーになりました。
電池が長持ちし、ROMの容量が増えたことでより高度なゲームが遊べるようになりました。
しかし、それはゲームとしての利便性が進歩したのであって、技術の革新性という意味では、それほど大きな衝撃ではないと思うのです。
それこそ、2Dだったゲームが、3Dになったことの衝撃とは違うわけです。
もちろんPSPなんかで、ああいう3Dのゲームが遊べることはすごいことですが、すでにプレステ3が存在する世界に住む私たちは、3Dゲームを携帯することが出来ることは、決して大きな衝撃ではありません。
他にも、PSPの「モンスターハンター」のような、集団での通信対戦も確かにすごいことなのですが、データリンクそのものはゲームボーイの頃からあったわけですし、全く目新しい技術と言い切れるかどうか、という疑問があります。
そして3つ目の理由、これは携帯電話の普及とその進化です。
近年、アプリケーションという形で携帯電話が半ばゲームのような機能を持っているんですよね。
そもそも携帯電話を携帯することが億劫な人間ですから、携帯を持ち、さらにゲーム機も別に持つということが余計に煩わしく感じるわけです。
携帯もDSもPSPもみんな持ってる人もいるでしょうが、私は携帯電話がやっとなわけです。
さらに言えば、その携帯電話に「ダウンロードアプリケーション」という形で、ゲーム機能が付いてくるわけですよ。
私の持っている機種で遊べるゲームは限定されているようですが、中にはずいぶん高性能のゲームも存在するようです。
(もちろん、その分ダウンロードにかかる時間も長くなり、通信費用もかかるようです)
DSとPSPはライバルであるとよく聞きますが、個人的には携帯電話こそが、彼らのライバルではないのかなと思ったりします。
こうしてまとめてみると、携帯型ゲーム機、それこそゲームボーイは、「ゲームボーイがでた」というその衝撃そのものがすべてに収束するような気がしてなりません。
実際、それ以外の思い出にも細かなものはありますが、衝撃的だったのは「ゲームボーイがでた」「公園でファミコンが出来る」ということに帰結するのです。
そうしてみると、今後も様々な携帯型ゲーム機が開発されるだろうと思いますが、私自身は、ゲームボーイの存在を知ったとき以上の衝撃を感じることは、まずないのではないかなと思います。
余談ですが、1年前、携帯電話の機種を変更しました。
それには、あらかじめ2種類、ゲームアプリケーションがインストールされていました。
ちょっと使ってみたら、それこそ、地下鉄の車内とか、待ち時間にちょっと遊ぶ分にはいいミニゲームだったんですよ。
そのとき、「こんな面白いものが自分に良い影響を与えるわけがない」と思いまして、その場でアプリケーションを削除しました。
そういう考え方をする人間ですから、携帯型ゲーム機についてそれほど肯定的な、それこそ外出先にまで持ち込むべきだろうかという考え方が全くゼロではないわけです。
極端な話、非日常を感じたい旅先で、日常であるゲームをしたいかということですよ。
そういう考えがどこかにあるから、携帯型ゲーム機について、どこか後ろ向きな考え方を持っているかもしれません。
しかしながら、ゲームボーイの登場にはビックリした、ということは事実としてありますし、今後もそれは変わらないと思うのです。
きっかけは割と単純なことでした。
いつだったか、日記を書いたときに「これ、前にも似たようなことを書いたような……」と思ったことです。
思えばサイト運営から9年。
初期は週刊コラムみたいな感じで「電撃大雑文」というタイトルでやって、それを日記化して、コラムと日記と並行更新したら結局日記のみになりました。
本来旧コラムでやるべきようなネタを、日記で書いて、あとから読み返すと言うことを特に想定していなかったわけです。
これは、書き手である自分にとっても困りました。
過去ログも膨大になってきましたし、以前の文章は若さに任せて書いてしまったものもあります。
いい加減、取捨選択をするべきだろう、と。
というわけで、日記のベスト・セレクションを作る、こういう企画は前からあったんですが、今回、ついに実現しました。
昔自分が書いたものを読み返すのは骨が折れましたが、2006年以降は雑なネタはmixiでやってたおかげで、思ったより時間はかかりませんでした。
構想当初はmixiで書いたテキストもベスト収録を想定していたのですが、思ったほどいい出来のものがなかったのですべて没にしてます。
これで当サイトのプロジェクトも一区切り、かな。
以前ですと、質より量みたいな感じで、どんどん書きまくってる感じでしたが、今後は質を意識して書いていきたいと思います。
小室哲哉さんが詐欺容疑で逮捕されました。
ショックです。
こういう言い方をするのもなんですが、なんだかんだいいながら、みんな小室さんが好きだったんじゃないかと思います。
今回逮捕されて、改めて彼が作ってきた曲に触れたわけですが、やっぱりいい曲が多かった。
売れる曲が書けなくなったとか、消費者が小室サウンドに拒否感を示したと言うよりも、彼自身のモチベーションとか、周囲の人がお金だけを目当てに集まっていたとか、色々なものがあったんじゃないかと思います。
TMNetworkを改めて聞いてますけど、全然古さを感じさせません。
出所に何年かかるかはわかりませんけど、いつか必ず、「小室哲哉は伊達じゃない」という姿を見せて欲しいです。
矢沢永吉さんは借金35億円を完済したそうです。
TKの才能があれば、出所後でも返済できる借金だと思うんで、くじけず、前を向いてがんばっていって欲しいと思ってます。
満を持して総理になったものの、支持率低迷と経済危機で茨の道を歩いている麻生太郎内閣。
経済危機に際して、先日緊急経済対策として、種々の案が発表された。
これについての評価は専門家に譲るとして、その中にどこかで聞き覚えのある言葉が出てきた。
「給付型の定額減税をやります。これは、現金か、クーポン券という形で実施します。」
政府発行のクーポン券。
どこかで聞き覚えのある言葉である。
そう、なんのことはない、地域振興券なのだ。
といったところで、読者の8割が「地域振興券」で反応できなくなっていると思う。
「ああ、あったねえ」程度だろうか。
地域振興券というのは、1999年の4月から、9月末までの半年間使えた、政府発行の商品券だ。
私の高校の先輩は、この地域振興券について「ノストラダムスの予言にあった恐怖の大王だ」と言っていた。
こう書いたところで、読者の半分が「ノストラダムスの大予言」も忘れていると思うのだが、こうしてみると地域振興券から9年ということは、ノストラダムスから9年であり、そして当サイトも9年なのである。
なんという偶然。
ここまで来るともはや必然であると、キ○ヤシさんのようなことを言いたくなってくる。
(ちなみに「M○R」が終わったのも1999年だった。なんという必然!)
地域振興券は合計2万円、1000円券20枚綴りで配られた。
だが、そのときは日本人全員ではなく、条件のある人に限られた。
いずれも1999年1月1日現在を基準として、
1.15歳以下の子供(1983年1月2日以降出生者)のいる世帯主。
2.老齢福祉年金、障害基礎年金、遺族基礎年金、母子年金、準母子年金、遺児年金、児童扶養手当、障害児福祉手当、特別障害者手当の受給者。
3.生活保護の被保護者、社会福祉施設への措置入所者。
4.満65歳以上(1934年1月1日以前出生者)で市町村民税の非課税者(課税されている者の税法上の被扶養者を除く)
である。(Wikipediaから引用)
早い話が、子どものいる世帯の人と、貧乏なお年寄り、障害者などに限られていた。
で、この「15歳以下」というのが曲者。
私は1982年度の生まれである。
この1982年度生まれというのは、地域振興券について悲喜こもごもの思い出がある。
いや、私にとってはもはや恨みに近いものとでも言うべきだろうか。
1982年度生まれの人間の場合、早生まれの人間(1月2日以降の生まれ)はもらえるが、10月生の私はもらえなかったのだ。
「2万円損した…」と凄まじく凹んだ。
「あと3ヶ月生まれるのが遅ければ、2万円もらえたのに!!」と部活の最中にぼやいていたら、同期の部員に12月生がいて「私なんかあとちょっとだったわ…」ともっとブルーになっていた。
1983年1月1日生まれの人は周囲にいなかったが、その人はおそらく悔しいどころではない、ものすごい不条理さを味わったのではないかと思う。
世の中は理不尽なものだと思うが、私はこのときほど、世界が理不尽だと思ったことはなかった。
(全くの余談だが、大学では同級生のほとんどが1歳年下だったので、たまに地域振興券の話題になると周囲は全員もらったと答えていた。これでますます理不尽だなという記憶が刷り込まれたとも言える。)
クラスでも「俺はもらえる」「俺はもらえない」みたいな感じで話した。
「2万円だろ。ドリームキャスト買えるよな」などと、時代を感じさせる話題もあった。
その2万円でドリームキャストを買えば、地域は全然活性化しないと思うのだが、どうなのだろう。
商店街の店には、各入り口に「地域振興券使えます」の札があったが、実際にどれほどが使われたかはわからない。
そういえば、鳥取県では「名探偵コナン」の地域振興券が発行され、マニアの間で高値がついたことがあった。
確か転売は禁止とされたはずだが、世の中にはおかしなマニアがいるから、全国各地の地域振興券を血眼になって集めたヤツが3人くらいいると個人的に思っている。
結局鳥取ではコナンの地域振興券を「レプリカ」として複製販売したが、結局6000枚近くの振興券(600万円に近い)が使用されないままだったらしい。
「名探偵コナン」がどれほど後世に残る作品となるか、現時点ではまだまだ未知数な部分もあると思うが、レプリカではない本物の地域振興券は6000枚近くしかないわけで、いずれはそれなりのプレミアがつくのではないかなと思う。
ただ、これ、改めて読み直すと、子どものいる家庭の世帯主に給付されるのであって、決して子どもに給付されるものではなかった。
当時の私は「当然子どもに使用する権利がある」と思っていたのだが、実際のところは違った。
そういう意味では、当時の私の不見識をうかがい知ることの出来るエピソードであろう。
今度の定額減税は1万2千円とのことだ。
前回も最初「国民全員」というアイディアがいつしか「子どもと高齢者」になったので、今回私がもらえるとまだ決まったわけではないのだが、もらえるとして、高校時代とはまた違った気分である。
というのも、入ってくる金額がこの9年で増えた反面、出ていく金額も増えたのである。
一度に1万2千円も買い物をする機会はそれほどないが、スーパーマーケットで買い物をすれば、それこそ2000円とか、3000円くらい買うこともあるだろう。
それが4度、5度となれば、その金額をすぐに超えてしまう。
また、クーポン券という形式の場合、まず間違いなくネットショッピングでは使えないだろう。
私の大好きな南米の密林の奥地でCDとかDVDを買うお金には回せないのだ。
極端な話、密林のギフト券1万2千円分ならば間違いなく喜びのカズダンスを踊ると思うが、クーポン券ではしないだろう。
もちろん、嬉しくないわけではないが、「まあ、これくらいなら普通の生活費の足しかなあ」という感覚である。
実際、テレビのコメンテーター曰く「ひとり10万円くらい出せばいいのに」と言っていた。
そこでふと思い出すのは、「笑点」における三遊亭小遊三師匠の一言である。
「消費が低迷して経済が大変なんだそうです。解決するためには、私に10億円預けてください。ぱーっと有意義に使って見せます!」
案外、今回の給付型減税、テレビの前で「1億円くらいくれればぱーっと使えるのになぁ」と思った人も多いのではないだろうか。
だが、半年で1億円使い切るとして、何を買えばいいのだろう?
ものを買いまくったところで部屋が広くなるわけではないし、食費も半年で1億円にはならないと思う。
そう考える私は、9年前に比べるとかなり平々凡々とした考えをするようになったのかもしれない。
何度か書いているが、私はお酒がまったく飲めない人間である。
以前は無理をして飲んでいたときもあるのだが、倒れたり、吐いたりとさんざんなことを繰り返し、醜態を見せたくないことと、心拍が150くらいまで上がるので命の危険を感じて、やめた。
飲んでいた頃は、心拍が一気に上がるので、凄まじく苦しく、そしてその苦しみが徐々に快感になる、いわばランナーズ・ハイのような状態で、言葉は悪いがなにやらいけないクスリをやっているような、そういう感覚があった。
脳みそが溶けるような感覚が好きで、理性はこんなトランス状態が体にいいわけがないとは思いつつ、もう死んでもいいみたいな感覚も、どこかにあった。
だから、お酒を完全に止めたことは全く後悔していないし、飲みたいとも全く思わない。
いつ以来飲んでないかと数えたら、かれこれ2年以上だった。
最後に飲んだのは2006年の7月で、あの時は倒れはしなかったが、頭痛が起きて「やっぱり飲むんじゃなかったなあ」という気分になった。
お酒を飲むと鼻水が止まらなくなり、全身にじんましんが出るので、個人的推測ではアレルギーを疑っている。
とはいえ、アレルゲンの検査はカネがかかるし、検査したところで治るわけではないので、やらない。
お酒は全く恋しくならない。
だが、ソフト・ドリンクはなかなか恋しくなることが度々である。
当サイトとしては、かつて存在した「森永 キャラメルドリンク」を強くオススメしたいところだが、読者の中にはそんなものがあったことすら知らない人もいるかもしれない。
森永キャラメルドリンク
というわけで説明をしておくと、このサイトでは以前、「メッコール」「ドクターペッパー」などに代表される「謎飲料」を特集していた頃があったのだ。
当時はコンビニやら店やらで変なドリンクを買っては飲んで、感想を書いていた。
その中で特に甘ったるくてまずくてインパクトがあったのが「森永キャラメルドリンク」だった。
森永ミルクキャラメルそのままの味が口の中に広がるのである。
掲示板も盛り上がった。
なんで最近はやらないのかというと、飽きたからというのと、著者がこのままではメタボになるという確信を持ったからで、あの特集をしていた当時は体重が70キロ強だった。
続けていれば、80くらいまで行ったかもしれない。
ちなみに今は60キロ前半なので、あの時よりも10キロ減っていることになる。
ここからが表題である。
久米田康治氏による人気マンガ「さよなら絶望先生」にて、登場人物がマイナーな飲料を飲んでいるシーンがある。
(前作「かってに改蔵」でも、登場人物がマイナー飲料を飲んでいるシーンがあった)
それらをまとめたウェブサイトに、「メローイエロー」の文字を見つけて、少々、驚いた。
というのは、メローイエローは自分の中でマイナーではなかったからである。
ここでGoogle検索すると、メローイエローは、コカ・コーラがペプシのマウンテンデューに対抗して発売した柑橘系ソフトドリンクである、との説明がヒットする。
マウンテンデューを飲んだことがないのでよくわからないが、レモンとオレンジを混ぜた感じの甘酸っぱい黄色のソーダで、微炭酸だったと記憶している。
幼少時代から自動販売機では販売されていなかったので、私の周囲に「メローイエローなんて知らない」人がいるのも無理はない。
というのは、あの当時の名古屋市内、メローイエローが飲めたのはナゴヤ球場だけだったからだ。
もしかすると他でも飲めたかもしれないが、メローイエローといえば、私の中でナゴヤ球場がセットになる。
メローイエローはナゴヤ球場でしか飲めない。
だから、ナゴヤ球場に行くと、出来るだけメローイエローを飲んだ。
1リットルくらいあるパックジュースで、そのパックの口を閉じるのにプラスチックのクリップが使われていた。
そのクリップを集めて、帽子に飾った。
ペプシのクリップは内野席でしか売っていない上に半透明だからレアで、外野でも売っているコカ・コーラは白かオレンジ。
青のクリップもあったと思うが、数が少なく、野球場に行くとどれくらいクリップを持っているかがガキの中でのステータスだった。
こういうばかばかしいステータスは今の子どもたちにもあると思うが、今思うと、なぜあんなクリップに血道を上げていたのか、とんとわからなくなる。
確か、観戦した試合数の自慢につながったと思うが、いったい何のために集めていたんだろうと思う。
私はというと、数年がかりで角みたいになるまで集めたが、そこまで行くと実用性に欠けるので、袋に入れて保管していた。
そういえば、あのクリップに選手の背番号を印刷したものが以前販売されていた。
今もあるんだろうか?
ただ、販売型クリップはノーカウントだった記憶があり、欲しいとは思わなかった。
メローイエローは微炭酸で、早めに飲まないと気が抜けて、ただの甘ったるいジュースになった。
だから、球場でメローイエローをおねだりするのはタイミングが大切だった。
喉が渇き、お茶が尽き(お茶があるうちはジュースは要らないからだ)、他の人もジュースが欲しくなるタイミングを計ってねだらなければならない。
ということは、大人との会話で「喉、乾かないか?」「お茶、もうないよね」「なにがいい?」という流れに持っていかなければならない。
そこで満を持してメローイエローとのご対面となる。
そういう気苦労で手に入れるわけだから、至福のひとときだった。(しかし、今考えると、実に打算的でいやらしいクソガキである)
このあとは、他のガキとのクリップ争奪戦が待っているわけだが、だいたいガキの人数分ジュースがあって、外野の場合色の違いがほとんどないので、あまり揉めなかったはずだ。
ただ、試合終了後、クリップの残っているジュースを見つけたときだけは揉めた気がする。
そのメローイエローだが、一時期自動販売機で売っていた記憶がある。
ある日通学路のコカ・コーラの自動販売機を見たら、メローイエローがあって、ビックリした。
ナゴヤ球場でしか買えないメローイエローが、町でも買えるのである。
私の中でこれは大事件だった。
そのあと1年くらいか、ポツポツと見かけていたが、中学生の頃、三重県で飲んだのがメローイエローを飲んだ最後である。
ナゴヤ球場は中学校に進学してから行く回数が激減し、ナゴヤドームになってからはメローイエローの販売はなくなった。
二軍戦でちょっとだけ開くナゴヤ球場の売店にも、もうメローイエローはなかったはずだ。
そういう意味では、10年以上、メローイエローを飲んでいないわけだから、確かにマイナー飲料である。
しかし、冷静に振り返ると、お酒もそうだし、お菓子とか、ソフトドリンクもそうだが、ロングセラーというものは案外少ない。
以前友人宅に「ドラッキーの草やきう」というゲームがあったが、その中にあったコカコーラ社のコマーシャルは以下の商品だった。
コカコーラ、ファンタ、ジョージア、ベジータベータ、コークライト、スプライト、ハイシー、アクエリアス、タブクリア
9品中半分が残っているが、ハイシーは現在Qooになってしまったし、ベジータベータやタブクリアはもう覚えてる人も少ないと思う。
というか、タブクリアはこのテキスト書くまで知らなかった。
スプライトはフレーバーがマイナーチェンジを繰り返しているから、完全に当時と同じとまで考えると、かなり少なくなる。
スプライトは、このゲームの時はレモン&ライムだったが、その後クールレモンになって、今はブランドとしては一応残っているが、ファンタと統一されつつある。
超大手のコカコーラ社ですらこれだから、他社にいたってはもっと残らないのだろう。
そういえば、コカ・コーラから出ていた「アンバサ」というカルピスみたいなドリンクにイチゴ味があって、好きだったのだが、あれもすぐになくなってしまって残念だった。
近年、日本でのボトル飲料はお茶とかミネラルウォーターが好調で、清涼飲料水は不調とのことだから、ロングセラーが少なくなる理由のひとつかもしれない。
実際、ジュースを飲むとかえって喉が渇くので、私も外で買うときはほとんど、お茶かミネラルウォーターだ。
そのメローイエローだが、2008年現在、千葉や茨城などではまだ販売しているとのことだ。
また、数年前には限定復刻もされている。
わざわざ買いに走るものでもないが、次に復刻されたならば、買ってしまうかもしれない。
少なくともハイシーが復刻されるくらいなら、メローイエローが復刻されるといいな、と思う。
というか、次復刻したら買うので、早く復刻してください。
ザク作ってます。
ちょっといじってます。
「ザクキャノン」の謎の武器ビッグガンを改造したツインガトリングガン。
ランナーを接続軸にしてます。
前から見るとこんな感じ。
ガトリングはコトブキヤの改造パーツ。
上側はコトブキヤの丸バーニアにしてあります。
連装にしたかったけど、サイズが合わなかったので断念しました。
プラ板貼り付けて何ミリか厚くすれば連装でもいけます。
接続軸はそのままだと弱いので、ピンバイスで開口して挿してあります。
コトブキヤのダクトで塞ぎました。
ビッグガンの持ち手は切りとばし、ヤスリで整形してあります。
バルカン砲がオートマチックで作動するご時世、未来のメカがマニュアルとは思えない。
というのは建前で、ザクに取り付ける位置の都合でひっくり返した方が具合が良かったんです。
装着するのは08小隊版HGザクII。
もう少し上に取り付けるべきなんですが、ちょっと上だと開口に手間がかかるので……。
前からの図。
隊長機という設定にしてあります。
モノアイはHアイズを使用。
隊長機なので指さし手も作りました。
初めてなので下手ですね。
右がキット付属のもの。
真ん中がFGのノーマル。
左が今回いじったものです。
きちんと計ってみたんですが、モールド参考にすると指は凄く長く見えます。
これでも短くしたんですけど……
取り付けるとそこまでひどい違和感ではないので、続行します。
実は関節を作ったので、もう削れんのです。
一応、穴を塞ぐ部品も作ったり。
もう1機は「装甲騎兵ボトムズ」に出てくる「スコープドッグレッドショルダーカスタム」っぽい重武装機体をイメージ。
旧キットのミサイルポッドを改造。
こんな感じで装着します。
ジャンクパーツとして余っていたシールドを持ち手用に改造。
コトブキヤのスパイクをつければよりよくなるかと……。
ちなみに、持ち手はランナーを切り出して削りました。
接着はピンバイスで少しだけ穴をあけてガイドにしてあります。
旧キットに付属したグフのヒートサーベルを装備。
灼熱化出来ないかもしれないけど、灼熱化したヒートホークより、マチェットとして使った方が強いと思う。
ちなみに、旧キットのグフサーベルはHGUCザクならば無改造で持てます。
ちなみにそのままだとはまらないので、下の部分をナイフで削り落としてあります。
現在の悩みは、挟み込むタイプなので、塗装が落ちる可能性が高いことです。
狭まった部分は削ってないので、ヒートホークのラックとしても使用は出来ます。
俳優・舘ひろし。
石原プロモーション取締役であり、石原軍団の代表的スターである。
様々な役柄を演じているが、刑事役が多く、これまでに「西部警察」「ゴリラ 警視庁捜査第8班」「刑事貴族」の3作品において殉職を遂げているなど、当サイトの個人的な調査ではおそらく刑事役で殉職した回数の多い俳優ナンバー1である。
舘さんが俳優活動だけでなく音楽活動も行っており、紅白歌合戦に出場したことがある、ということもよく知られている。
ヒット曲「泣かないで」のほか、代表作「あぶない刑事」の主題歌「冷たい太陽」などは、読者も耳にしたことがあると思う。
最近思っていることがある。舘さんの音楽は、唯一無二ではないか、と。
彼の音楽の魅力というのは、ロックンロールとムード歌謡の絶妙なブレンドにある。
だが、ロックと歌謡曲のブレンドというのは、別に舘さんだけが唯一無二ではない。
問題はその歌の作り出す世界にある。
私だけだろうか。
その歌から、自らに対して全く疑いなく、自分をカッコイイと信じているものの風格を感じるのである。
たとえばラブソングにしても、女性に対しての好意ではなく、好意を送る自分への陶酔感を感じるのである。
歌手でナルシストを気取る人はいる。
しかし、実際にその歌がナルシシズムの極点に達している人はなかなかいない。
だが、舘ひろしの歌というのは、ナルシシズムの極点に位置している。
「オレはカッコイイ」という自身に満ちあふれた言葉の数々が、スピーカーから聞こえてくるのである。
ここまで自分で信じている歌は舘さんだけである。
そういう意味で、舘ひろしの歌は唯一無二であるといえる。
だが、ここで疑問を感じる。
ナルシシズムというのはしばしば嫌悪される。
ナルシストはキザである、という考えを持つ人も多いと思う。
キザとは漢字で気に障ると書くから、文字通りの意味に感じるのだろう。
一方で舘さんの歌は比較的社会に受け入れられている。
もちろん舘さんの歌をキザだと思う人もいるのだろうが、ここまで音楽活動を続けてきたと言うことは、このようなナルシシズム的な歌が、ある程度の大衆に支持されていると解釈できる。
実際、私自身も舘さんの歌を好んで聴いている。
それは単にファンだからとか、シンプルな構成で歌いやすいとか、カラオケのネタでナルシスト芸をやるときは舘さんの歌を歌うのが一番具合がいいとか、様々な理由があるのだが、一番の理由はやはり聞いていると安心する、というものだと思う。
あくまでも私個人の感想だから、一般的にそうだとは思わないが、舘さんの歌は自信たっぷりである。
これがある種の安心を私に与えてくれている気がしてならない。
安心する理由とは、現代の病理の1つとして、「自信の喪失」が存在するからではないかと思う。
自信、言い換えれば自分を信じることであるが、現代はなかなかそういうことが難しい時代だと思う。
私自身、以前この日記である番組を誉めたら、しばらくしてねつ造が発覚して打ちきりになったことがある。
自分の価値観についての自信はない。
テキストも、文章として読むことの出来るレベルではあると思うが、これが面白いかと突っ込まれると、自信はない。
他にもほとんどの人と同じような、それこそ本格的なところでは将来的な見通しだとか、健康だとか、様々なものに自信があるかというと、あると言い切ることは出来ないのである。
そういった中で、舘さんの歌からみなぎる自信に、人は安心する、そう考えられないだろうか。
そうすると、そのような自己愛的な歌を歌えば誰でも支持されるかという疑問が出る。
それはやはり、ノーである。
ナルシシズム的な歌は、「舘ひろし」だから許されるのである。
何故許されるのか。
事実、格好いいからである。
そんな何かのキャッチコピーみたいな推測も出来るが、それだけではないと思う。
前述した安心というものと関連するが、彼の醸し出すナルシシズムというのは、いわゆるナルシシズムのような、「危なっかしさ」が感じられない、安心した「芸風」と解釈されるのである。
そう解釈される理由はいくつかあると思うが、まず声が低いこと、というのはあると思う。
近年のテノール歌手ブームというのがあるが、低い声はある種安心する。
あの骨太でダンディーな声が、彼の世界を支える土壌になっていると考えられる。
また、服装が基本的にスーツであるというのもある。
実際には違う服装もあるはずだが、刑事役が多いこともあり、公の場に出るときはスーツの印象が強い。
調査を行ったわけではないので断言こそ出来ないが、金髪でパンクファッションの男と、黒髪でスーツを綺麗に着た男、どちらに安心を感じるかと尋ねれば、多くの場合後者が支持されるのではないだろうか。
元々は暴走族ファッションが多かったが、「西部警察」の鳩村刑事以後ほぼスーツ姿が定着し、現在は舘ひろし=スーツ姿と思っている人は多いと思われる。
付記しておくと、ヒット曲「泣かないで」のジャケットもスーツ姿である。
そして、楽曲の構成がシンプルである、というのもあると思う。
舘さんはいくつかの楽曲で作詞作曲を自ら手がけているが、大変シンプルなものが多い。
たとえば「刑事貴族」の主題歌「抱きしめて」であるが、このような歌詞である。
抱きしめて 今夜だけは |
冷静に読むと、今ひとつ意味が通らない。
だが、1節5〜9文字を基本とした短い区切りが独特の歯切れ良さを作っているのである。
曲調も安定したもので、歌いやすいものが多い。
最後になるが、タイトルについても特筆したい。
近年見られるヒット曲であるが、英語のタイトルが多い。
聞くまで曲の中身がよくわからない、あるいは聞いてもよくわからないこともあると思う。
抽象的な世界であるが、どうとでも解釈できるものは今ひとつ収まりが悪く、不安をかえって煽るのではないかと思う。
もちろん、抽象的なタイトルによって作られる世界にはそれなりの良さがあるのだが、具体性の強い楽曲はわかりやすいというのはあるだろう。
そして、舘さんの曲のタイトルであるが、実にわかりやすい。
古い時期だと「朝まで踊ろう」「君に夢中さ」「流れる時を止めて」なんてのもある。
割と新しい部類では「濡れた瞳にくちづけを」「今夜はオールライト」「愚かなり我が恋−SEND ME NO MORE ROSES−」「翼を拡げて〜Open Your Heart〜」「Kissで殺して」なんてのもある。
当然、多くの場合、楽曲タイトルが曲の中で連呼される。
代表曲「泣かないで」の場合、歌の中に「泣かないで」という言葉が約14回出てくる。
20秒に1回は「泣かないで」と言ってるのである。
ここまで来るとかえって清々しいではないか。
そういうわけで、今夜も私はmp3に変換した舘さんの歌を、家族の苦い顔も知らずに、聞き続けるのである。
♪泣かないでぇぇぇぇ〜〜
※今日のテキストは映画「2001年宇宙の旅」「2010年」のネタバレを含みます。
映画史に残る名作「2001年宇宙の旅」。
当初この作品はナレーションが入ってわかりやすくするはずだったのだが、へそ曲がりで知られる監督・スタンリー・キューブリックが意図的にナレーションを取っ払ってしまい、大変難解な映画になってしまった。
それでも「2001年〜」は独特の映像表現と、描かれた未来世界の魅力(この作品は1968年に公開されている)は全く色あせない。
40年経った現在も、である。
名作の提示した謎、それはいったい何だったのか?
その観客は、すべてではなくとも一部はそれに惹かれるに違いない。
だから、続編を作るというオファーがアーサー=C=クラークに舞い込んだことは必然的だった。
そして、クラークがその映画を作るに際して「キューブリックは抜きにすること」を条件にしたことも当然であろう。
(もっとも、キューブリックは2001年の続編なんて撮りたくなかっただろうが。)
そもそも続編があったなんて知らなかったが、偶然レンタルDVDにて、2001年の隣にあったDVDが「2010年」だった。
続編があったことに衝撃を受けた最大の事例だと思う。
(ちなみに2番目は「サタデー・ナイト・フィーバー」には続編「ステイン・アライブ」があり、かつ監督がシルヴェスター=スタローンだったことである。)
映画ファンの友人の前で、大学の後輩と「2010年」の話をしていたが、その友人も続編があったことを知らなかった。
したがって決して評価の高い作品ではないと見る前からわかっていたが、当サイト的にはこれは見るべき作品であると思った。
で、見た。
1日30分、4日がかり。
だから、これは映画を評価する上で正当な見方をしてはいない。
やっぱり名作ではない。
ただ、駄作かというと、ちょっとためらわれる。
スタッフはよく頑張っていた。
宇宙の表現はもちろん、模型はおろか設計図までも廃棄された(※キューブリックが転用を恐れたからとのこと)ディスカバリー号のセット一式を映像の中から忠実に再現したところは賞賛に値する。
シド=ミードのデザインもよかった。
フロイド博士は交替したが、ボーマン船長はキュア=デュリアがそのまま演じているし、HALの声もそのままである。
また、クライマックスもよかった。
前作でHALが叛乱した原因は、ボーマンやプールは知らされていない、知的生命体とコンタクトする使命を極秘に帯びていたことであったことが今作では明言される。
その結果、HALは秘密を言いたくても言えない状態となり、精神に変調を来して乗員4名を殺害し、ボーマン船長に機能を停止させられた。
今作では、モノリスが木星で収縮をはじめ、木星が爆発、恒星化するというラストであるが、爆発の前にディスカバリー(≒HAL)を脱出用ブースターとし、他の乗員は別の宇宙船で地球に帰還しなければならない、というクライマックスを迎える。
ブースター点火のタイミングが難しいため、HALのコンピュータ制御にせざるを得ないが、その方法はHALの自己破壊を強いることになる。
前回のようにHALが叛乱を起こしたらどうなるのか、というのがカギになる。
そして、HALのプログラマーが正直に事情を話し、「真実をありがとう」という言葉とともにHALは自己犠牲を厭わない活躍を見せる。
前回は人間がHALに真実を隠すことを強いて混乱させたことを考えると、「真実をありがとう」というHALの言葉は大変興味深く、続編として(※なお、原作者クラークはこの続編をパラレルワールドとしている)認めてもよい部類だと思う。
ただし、本作はふたつの重要な問題を抱えている。
まず第1に、前作「2001年宇宙の旅」を見ていない人間はすべて置いてけぼりであるということだ。
つまり、「2010年」は、単独の映画作品として評価されうるものを目指したわけではなかった。
あくまでも「2001年〜」の物語にクラーク的な決着をつける(キューブリック的には前作で決着済みだろう)だけの映画である。
したがって、原作者クラークは満足している。
私としても前作の疑問が、「ああ、ここはクラーク的にこうだったのね」とわかるという意味で興味深かった。
この問題は制作者も承知だと思う。
だが、第2の問題、これが実に致命的である。
言うまでもなく本作は2010年という設定なのだが、フロイド博士はソ連の宇宙船に乗って出発するのである。
ロシアではなく、ソ連である。
当然、劇中2010年のソ連は共産主義体制で、米ソ冷戦は続いている。
オマケにキューバ危機のような状況になっている。
そこまではとりあえず譲るとする。
だが、前作では国家とかそういうニュアンスがかなり薄められていたにも関わらず、本作ではかなり色濃く出てきている、というのが問題をより深刻にしている。
たとえばフロイド博士がソ連の宇宙船にて「我々科学者に政治は関係ない」と訴えたら、女船長が「私は空軍の軍人ですが?」と言い返すなど、当時のハリウッド映画に出てくるロシア人のステレオタイプ、つまり国家への盲目的忠誠心とか柔軟性の欠落が出てくるのだ。
社会構造を生かした映画作りは現在においてもハリウッドの主流であるが、こういった手法は作品の賞味期限を短くする。
前作「2001年〜」は2001年をすぎても色あせていないのに対し、続編「2010年」は2010年を迎える前に色あせをはじめているのである。
これはやはり、傑作ではないということであるし、人によっては駄作であると批判されてもやむを得ないだろう。
とりあえず、「2001年宇宙の旅」の映画だけでなく、原作小説を読んだ上でストーリー上の決着を知りたい人にはオススメできる映画である。
一方、キューブリック監督の映像に酔いしれてストーリーなんかどうでもいい人はゼッタイに見てはいけない作品である。
点数的にはフツーなので50点といったところか。
余談であるが、私個人としては本作の音楽面に少々の不満を感じた。
ラストで「ツァラトゥストラ」が流れるのだが、私としては「ツァラトゥストラ」はボーマンが姿を現す場面で使用し、終幕部分は「美しく青きドナウ」でやって欲しかった。
太陽が2つあるシュールな絵なのだから、よりシュールな空気を醸し出してくれたように思う。
まあ、どのみちソ連って時点でテンションが下がってしまう映画なので、あんまり関係ないんだろうけどねえ。
テレビアニメ「機動戦士ガンダム」第6話「ガルマ出撃す」にて、あるメカが登場しました。
そのメカの名はマゼラアタック。
ガキの頃見ていて、ロボットアニメといえば戦車という存在が全く忘れられているのに対し、ガンダムでは下半身が戦車になったガンタンクや、マゼラアタックなど戦車の香りを残したメカの数々にある種のリアリティを感じ、興奮したことを覚えています。
俺がガンダムに対しての新鮮さを感じた最初のきっかけは、まさしくガンタンクの履帯(キャタピラのことね)の存在が大きかったことは間違いありません。
そして、マゼラアタックはその後もガンダムのストーリーに大きく絡みました。
このメカは戦車の砲塔が分離して飛行機になり、車体と別々に戦闘できるんですね。
ちゃんとほら、砲塔に翼がついてるでしょ?(※当時のアニメは翼があれば何でも飛べるという解釈)
その砲塔部分から主砲を取り外し、ザクに持たせた「マゼラトップ砲」は、第21話「激闘は憎しみ深く」にて初登場、その後はゲームなどを経てザクの主要武装となっています。
冷静に考えれば、戦車は車高が低いほど命中率が低くなるので、こんな車高の高い、かつ砲塔の旋回しない構造の戦車は現実的にあり得ないんですよ。
とはいえ、ザクの隣にマゼラアタックがあると、やっぱりジオラマ(情景模型)を作る上で雰囲気が出るんですね。
それでまあ、大量に並べることを前提に2年くらいかけて、見つけたら買うを繰り返してました。
旧キット400円、3割引なら294円。
たまに買うにはあまり困らない。
そうしたらどうなったか。
こうなっちゃいました。
集めも集めたり21個。
月平均1個の計算ですが、それでも6000円以上このヘンテコ戦車につぎ込んだ計算になります。
模型って安い趣味じゃなかったんですね。
組まずに放置していたら友人から連絡が来て、いい加減に組め、と。
21個も同じキットを組むなんて、とんでもない苦行です。
それを察した友人が、声をかけてくれて、みんなで組むことになりました。
俺を含めて5名。
ひとり4個くらいは組まないといけませんけど、それでも大きいです。
昼の1時くらいからスタート。
塗装の都合で、履帯とサイドスカート(サイドアーマー)は外して組み立てることに。
旧キットだし、30分もあれば余裕で仮組めると思いきや、意外とかかるんです、これ。
転輪など細かいパーツの接着に手間取るほか、古いキットなのでキットの「合い」(はまりにくいということ)が悪く、ストレスがたまります。
1個仮組むのに1時間かかりました。
各自2個目に突入をはじめますが、それぞれミリタリーを大なり小なり噛んでる人間ですので、組めば組むほど「あり得ない感」が自分を支配していきます。
で、結局始まる「オレ様MSV」。
「これさ、機銃の位置に砲があったら、スウェーデンのSタンクっぽいよね」
「そういえば、今、トランペッターのSタンク、あるよ」
スウェーデンのSタンク。砲塔のない特異なフォルムが特徴的。
「もう主砲は車体でいいんじゃね?」
「マゼラトップ要らないよね」
「ぱにぽにだっしゅでも見るか」
「それ終わったらウルトラマンティガね」(ちなみにティガ見てる最中にガンダムダブルオー始まったんですけどスルーしました)
ガンダムダブルオー<<<<ウルトラマンティガ
そして終戦。
14両の仮組みが終わりました。
11両はマゼラアタックですが、3両はオリジナルの自走砲です。
1両だけ砲塔が完成してないヤツがあります。
車高を低くし、武装を変更したもの。
パテで整形しないといけないんだけど…面倒だなー
砲塔の位置に機銃を設置し、主砲をSタンク風にしたもの。
(基部はザクに持たせるときのマゼラトップ砲を流用)
機銃はとりあえず載せただけ。なんかない方がカッコイイかも。
まあ、リアルそうには見えますが、これ、登坂すると砲がつっかえるんですよ。
結局現実的にはあり得ない。
まあ、それを言い出したら2足歩行ロボットの時点でもう現実的にあり得ないんですから、深く考えないようにしたいと思います。
さて、残り7両は俺が組むのか………。
<オマケ画像>
やっぱり、並ぶと壮観ですね。
BGMはもちろん「哀戦士」でお願いします。
去年の10月だったと記憶しているが、初対面の大学の後輩が「ガンダム00(ダブルオー)、面白いですよね」と突然話を振ってきた。
その場は「見てないから」の一言でいなしたが、実際そのときから今に至るまで「機動戦士ガンダム00」は見ていない。
その後輩としては初対面の緊張から何か糸口をつかみたかったのだろうが、残念ながらその彼とは話の合う話題を見つけられず、その後彼は学府での学び以外に進みたい道を見つけてどこかへ旅だったという。
今日の話題はその後輩の話…ではなく、ガンダム00の話である
見る機会がなかったわけではない。
見るチャンスはあった。
だが、見る気が起きなかったので結局見ないまま、とりあえず「オーガンダム」なんてお祈り戦士みたいな名前のガンダムが出てくるシーンだけ見て、そのままほったらかしにした。
最初からビデオを動かさなかったガンダムは初めてだ。
「ガンダム00」はソレスタル・ビーイングなる独立武装組織に所属して、パイロットはガンダムマイスターで、平和を愛するが故に戦争行為に武力介入するという設定である。
スタッフには「鋼の錬金術師」の水島監督や、「無限のリヴァイアス」の脚本・黒田洋介氏、そのほか脂ののったクリエイターが結集し、人気になることは容易に予想できた。
実際、大人気になった。
おかげで評判というのは色々伝わってきて、見ていた友人からは「ガンダムとソレスタル・ビーイングさえいなければ凄く面白いアニメ」という身も蓋もない評価を聞いた。
太った重装甲型ガンダムの装甲がパージされると、細身のガンダムになるなんてビックリどっきりメカな話も聞いた。
主人公が「俺がガンダムだ」なんてトンデモ科白を吐く、ティエレンというザクもどきのモビルスーツが熱い、少なくとも「ガンダムSEED DESTINY」よりは面白いし、人によっては「ガンダムSEED」より面白いと思う、等々。
そこまで大人気になるならば、私としては私までその御輿を担ぐ必要はない。
私はターンエーガンダムとか、ガンダムXとか、G-SAVIOURとか、私が誉めないとなかなか誉めてもらえない名作を誉めればよいではないかと思う。
だが、多少の風向きというものがあり、本日はガンダム00を誉め、そしていよいよ始まる「ガンダム00セカンドシーズン」に向けて、読者諸君にガンダム00の視聴と、プラモデルの購入を促すために書くことにした。
そう、プラモデルである。
ガンダム00のプラモデルが売れないとまずいのである。
私は連邦軍の量産型モビルスーツを愛する少数派(もちろんザクやグフも好きだ)であり、ガンプラが売れてバンダイホビー事業部が活性化されないと、ジムスナイパーIIやジェガンがHGUCでリリースされないのである。
というわけでガンダム00のプラモデルが売れるよう、私はここでガンダム00を見てないのに誉めなければならないのだ。
とはいってどう誉めたものかわからないのだが、少なくとも「ガンダムSEED」よりは面白いという意見については何となくわかるし、否定しない。
そもそも「ガンダムSEED」は、「原点回帰」というハンデが大きすぎた。
ガンダムに限らず、長期シリーズともなると色々とネタに困って、どこかで必ずやるネタが「原点回帰」ネタである。
「初心に返ろう」というわけである。
私見ではこれを言い出すのは現場のスタッフではなく、スポンサーやプロデューサーなど、統括者が言い出す印象である。
というのは、スタッフたちは往々にして原点回帰をいやがるからである。
それはなぜか?原点回帰なんぞすれば、原点と比較されるに決まっているからである。
ここら辺スポンサーは「売れればええのよ」であるから、原点回帰して柳の下にドジョウが二匹、夢よもう一度、である。
実際、講談社から出ていた「仮面ライダー」ヴィジュアルマガジンにて、シリーズの殺陣師(アクション監督)を務めた岡田勝氏は、回想の中で、やりづらかった「仮面ライダー」として「スカイライダー」を挙げている。
「初代のリメイクって言うことは、つまりはこれといった特徴がないというわけでね。(中略)空を飛べるって言うことも、実際のアクションには活かせないし。だから、どうアクションをつけたらいいかは、本当に悩んだ……。」(「仮面ライダーVol.9 スーパー1編」より)
「仮面ライダー」というか、石ノ森先生関係は原点回帰が好きらしく、近年では「仮面ライダーTHE FIRST」や「人造人間キカイダー ジ・アニメーション」などの作品を制作している。
また、「ゴジラ」シリーズも、第1作以外の続編をリセットして原点回帰を図ったり、「ウルトラマン」にしても「ウルトラマンマックス」で原点回帰を図っている。
「ウルトラマンマックス」は高い評価を得ているし、「ゴジラ」にしても、金子監督のやつはなかなかよかったと思うのだが、いずれも原点を越える評価を得ることは出来ていないという部分は同じである。
言い換えるならば、原点のファンを取り込むことは出来るかもしれないのだが、それゆえに「やっぱり原点が素晴らしかった」などと言われることになるのである。
それは特撮やアニメに限らず一般の作劇でも同じで、石原プロが「西部警察2003」にて事故を起こした際、先代社長の兄で都知事の石原氏は「今更、西部警察はないだろ」という金言を残している。
近年、団塊の世代が退職して、テレビを見てくれるのがその世代だからという理由なのか、かつての名作が次々とリメイクされているが、これもほとんどが「やっぱりオリジナルだよねー」と言われているのである。
そうしてみると、「機動戦士ガンダムSEED」シリーズについて冷静に考えると、当初から大きな十字架を背負っていた作品と思えてくる。
もちろん、SEEDについては監督と、シリーズ構成である監督夫人の力量不足を糾弾する声があるのは承知である。
監督の力量はともかく、監督夫人の力量については私も疑念を感じるところが多い。
だが、監督夫妻ではなく、力量ある監督が担当したとして、SEEDはよくなったかというと、それは違うのではないか、とも思う。
ファーストガンダムを下敷きにした、21世紀のファーストガンダムがSEEDのコンセプトであったわけだが、スタッフからすれば「スカイライダー」のときの岡田勝氏と同じ心境だったのではないだろうか。
それを考えると、全くオリジナルで、ゼロから新しいガンダムを作り出そうとした「ガンダム00」は素晴らしいと言えないだろうか?
もちろん、女性ファンをターゲットにしたキャラクター造形が鼻につくとか、メカが気に入らないとか、様々な意見もあるのだろうが、原点回帰ではなく、敢えて原点を無視してビームライフルではなく、長剣で戦うガンダムというのはなかなか興味深いと思う。
そういう意味では、ガンダムは好きだけど、ガンダム00を見ていない人たちには、是非見ていただきたいと思うのである。
そして、どんどんガンプラを買って、私の願うジェガンとジムスナイパーIIをアシストして欲しいのである。
なお、全くの余談であるが、世の中には原点回帰どころか原点から動かない作品というものも存在する。
たとえば「水戸黄門」「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」である。
演じるスターの差異、暴れん坊将軍に至ってはスターは同じでお庭番とめ組の若頭だけが違うだけで、ストーリーはほとんど同じ。
同様に「スーパー戦隊シリーズ」も、多少の差異はあるのだが、原点からほとんど動いていない。
ゴレンジャーとゴーグルVとマスクマンとボウケンジャー、戦隊を知らない人にどう違いをわからせるか、相対性理論をわかりやすく説明することより難しい。
こうしてみると、シリーズ全体の安定性も、「スーパー戦隊」がダントツであり、この偉大なるマンネリ具合が世界中の子どもたちに支持されるゆえんではないかと、思う。
友人と政治の話になった。
といっても大げさなものではなくて、次の総理大臣におそらくなるであろう人物についての話題である。
麻生太郎氏の政治信条は○○新聞さんに任せるとして、彼自身がマンガ好きと言われていることは読者にもご存じの方が多いと思う。
本当に「ローゼンメイデン」を読んでいるかどうかは知らないが、少なくとも「ゴルゴ13」は読んでいるらしいし、いわゆる他の政治家に比べれば、読んでいる方だと思う。
だが、その一方で、「オタクの皆さん!アニメや漫画は日本が誇る文化です!」といった類の発言には多少の違和感を覚えてしまう。
その理由は懺悔にもなるのだが、私もかつて「アニメは文化です!」発言をしたことがあるからである。
実は中学生の頃、「将来の夢はアニメを文化として研究すること」なんて本気で宣言していた。
若さは本当に恐ろしい。
だから、今時の中学生とか、高校生が「アニメや漫画は文化だ!」とマジで宣言しているのは笑って許してあげたいと思っている。
そういう熱病みたいなものは若い時分は誰しも持ちうるし、私の両親よりちょっと上の世代はマンガではなく、もっと危険なものに血道を上げてテロリストになってしまった人もいる。
だから、若い頃にアニメやマンガにお熱になるというのは、決して悪いことだとは言い切れない。(※)
(※ただし、マンガほしさに窃盗を犯すとか、日本国憲法で言うところの「公共の福祉に反する行為」が悪いことなのは言うまでもない。)
そもそも、「アニメが好きである」ことと「アニメが文化である」ことは別の話である。
自分の好きなものが社会的に認められるのは確かに光栄なことだとは思うが、他人が何を言おうと公共の福祉に反しない限りは、自分がそれを愛して咎められることはないのである。
今思い返せば、中学生時代、私が「アニメは文化だ」と言っていたのは、アニメを見る自分を正当化するための屁理屈であった。
今、「アニメは文化だ」と言う人々の言説を屁理屈だとは言わないが、もしもかつての自分と同じような理由でそういうことを言うならば、あとで思い返して凹むので、早くに撤回することをオススメする。
だからこそ、咎められて「アニメは文化だ」なんて石○純一氏みたいな返答をするよりは、「好きなものは好きだからしょうがない!!」と、堂々と開き直っていただきたいと思う。
こういうことを述べると、文化ではないのかと思われそうだが、私は「アニメは文化ではない」とは言わない。
あくまでも「サブカルチャー」であるが、との注釈をつけるならば、文化であると思う。
私個人としては近年頻出される「サブカルチャー」とか「オタク文化」という言葉そのものにも違和感があるが、アニメやマンガを「下位文化」と言うのも不適切であろうし、「副次的文化」などと表現した方がしっくり来ると思う。
とはいえ、「副次的文化」は現時点では当サイトの造語なので、ここではわかりやすく「サブカル」、としておく。
さて、アニメの話をしていると、しばしば出るのが「最近見ているアニメ」という話題である。
これが難しいもので、最近見ているアニメというものが、私は存在しない。
強いて言えば「ケロロ軍曹」あたりを時折見る程度で、毎週真面目に見るアニメというものは、ない。
とはいえ、アニメを全く見なくなったわけでもない。
少し前だが「仮面のメイドガイ」は割と真面目に見ていた。
後半は録っただけでまだ見ていないが、前半はちゃんと見たのだから、最近のアニメの中では意外と見た方だ。
では、最近はなにが好きかというと、落語が好きなのである。
落語を好きになったきっかけは「笑点」を見ていたからで、「笑点」から大喜利メンバーの落語を聞いて、そして落語そのものへとシフトしていった。
好きになったきっかけを一般人に説明するとき、これほどまでに理解されやすい事例というのはかつてなかった気がする。
落語は実に面白い。
テレビに出てくる単純なギャグが悪いとまでは言わないが、落語を一度知ってしまうと、今時の芸人さんに対して物足りなさとか、違和感を感じてしまう。
そして、落語は覚えてしまえば、自分でも出来る。
これはちょっと論がずれるので割愛したいが、たとえば私が「そんなの関係ねぇ〜」というギャグをとばすのは人のふんどしで相撲を取るようなものだが、人前で落語を一席やるのはちょっと違う。
当初、私が落語が面白いと思うのは私本人の特異性だと思っていたが、最近、アニメやマンガのオタクとかファンというものは、案外落語を面白いと思えるのではないか、と思うようになってきた。
というのは、日本の漫画界を作ってきたトキワ荘の住人、すなわち手塚治虫氏、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏、藤子F不二雄氏&藤子不二雄A氏といった大御所たちがなにを見聞きして育ってきたのか、ということなのだ。
手塚先生は、Wikipediaの情報であるから真偽はわからないが、自宅にあった落語全集を読んで育ったと言うし、娯楽の少ない時代であるから、ラジオから流れる落語を楽しみに聞いていたという漫画家も多いのではないかと思う。
何より、「のらくろくん」を描いていた田河水泡先生は、漫画家だけでなく、新作落語の脚本も書いていたという。
言い換えれば、戦前の「のらくろ」から、マンガには落語の空気と間合いが存在したのである。
それに映画的なカメラワークを意識した大手塚が登場し、漫画に革命が起きた。
念のために記して置くが、「アニメや漫画は世界に誇る文化ではない」とか、「アニメより落語の方が素晴らしい」などと述べるつもりはない。
ただ、現在の日本において我々が享受しているアニメやマンガというもののおもしろさの影には、「落語」が間違いなく存在している。
そして、落語のおもしろさは、現在我々が見たり、読んだりしているアニメやマンガに決して劣らない、素晴らしいものであると思うし、比較的多くのオタクとかアニメファンがそう思えるのではないかと思う。
そういう意味では、多くのアニメファンに落語のおもしろさを伝道するはずだった「落語天女おゆい」については実に惜しかったとしか言いようがない。
中途半端に江戸時代でサクラ大戦とセーラームーンをするくらいなら、現代で桂歌丸師匠の弟子となって、寄席の前座をつとめるまでをコメディタッチで描いた方がきっと面白かっただろうし、落語の布教にもつながったと思う。
ただ、そうなったところで歌丸師匠の声優デビューばかりが話題になって、アニメ本編が二の次になりそうな予感がする。
先日の都市対抗野球では新日本石油(エネオス)が優勝したのだそうだ。
「だそうだ」とコメントした理由は、都市対抗野球にそれほど興味がないからであり、さらには同時期に福田総理大臣電撃辞任や角界大麻汚染問題、そして個人的に忙しかったからスポーツ欄までじっくり読めなかったということも理由に挙げられる。
だが、その後、チームを優勝に導いた田沢(田澤?)純一投手の日本プロ野球を経ないでのメジャー挑戦表明を受けて俄に注目を浴びる案件となっている。
本件については様々な考え方があるだろうが、私個人としては一報を聞いたときの第一印象は「いいんじゃないの」だった。
と、同時に「問題になるんだろうなあ」という感想も持った。
事実、すんなりとは許されそうになく、どのように動くかまだ予断を許さない情勢にある。
したがって、本テキストについてはこの先の情勢については特に判断をしない。
そんなもん、当サイトにおける次の日記が更新される頃には結果が出ているはずなのだ。最近月1更新なんだから。
「いいんじゃないの」と直感で感じた理由はひとつしかない。
どうせプロ野球に入ったあとでメジャー挑戦するのしないのでごねるよりは遙かにマシだと思ったからである。
現状、自由契約選手は別として、日本のプロ野球からメジャーに移籍するためには2つの方法が存在する。
すなわち、FA宣言とポスティングシステム(入札制度)である。
日本のプロ野球界は「FAでしか移籍を認めない」といいながら、メジャーでのFA移籍では補償金が出ないため、球団によっては比較的活発にポスティングを使っている。
いわゆるダブル・スタンダードというヤツで、それゆえに「他の球団がやってるんだから俺もポスティングでメジャー挑戦」と訴え、実際行ってしまった井川投手(前阪神)のトラブルもあるし、「井川がいいなら俺も」という藤川投手(阪神)の事例も存在する。
オリックス球団がイチロー選手(マリナーズ)をポスティングで売ったときから、ポスティングは今後火種になりうると思ってはいたので、現状のトラブルは意外ではない。
今後もポスティングでのメジャー移籍、あるいはFAの短縮を訴える選手の主張は強くなることと思われる。
とはいえ、選手本人が早い段階でのメジャー移籍を訴えるのはわからなくもない。
キャリアのピークをよりよい環境で迎えたいのは当然だ。
投手にしてみれば肩は消耗品であり、実際、1999年に20勝した上原投手(読売)が今年どのような状態にあるかと考えると、もっと早くメジャーで投げてる上原投手の姿を見たかったという意見が出ても然りである。
ましてや藤川投手のようなクローザーともなればブルペンでの負担も大きく、いつ故障して投げられなくなるかわからない。
そうなれば、スポーツ医学やトレーニング科学が発達し、何より天然芝で身体への負担も少ないメジャーリーグに移籍したいという気持ちは、日本球界より年俸が高いという事実を差し引いても理解できる。
とはいえ、メジャー移籍を訴える選手のほとんどは主力選手であり、しばしば球団からは慰留される。
そしてそれでもポスティングを望む選手に対しては「そんなにメジャーがいいなら、最初からメジャーに行けばよかったんだ」といったコメントが出る。
これは全く同感で、そんなにメジャー志向があるならプロ野球を経由せずにメジャーリーグに入団してしまえと思っていた。
だから今回、メジャーリーグに直接入団するという田沢投手については素直に賛同したのである。
だが、同時にプロ野球界にとってはやっかいな話である。
10年くらい前は、メジャーのスカウトが「日本の球界は新人獲得に裏金をたくさん使っていて、こちらの資金力では勝てない」とテレビでぼやいてたはずなのだが、おそらく某投手に栄養費を渡してたという理由で何名かのオーナーが辞任したり、西武球団がドラ1を辞退するなど裏金が問題となったのを機にメジャーの資金力に勝てなくなったのだろう。
いい選手がメジャーに入ってしまうと、日本のプロ野球はますます低レベルになる。
当然の危機感である。
その一方で、上原投手や松坂投手にメジャーリーグからの接触があったことを知りながら、「紳士協定」とか「暗黙の了解」にあぐらをかいて、何ら一切対策をしてこなかった日本球界が今更「暴挙だ」「アンフェアだ」と言ったところで説得力は、ない。
読売ジャイアンツの関係者が憤慨したところで同じである。
だいたい、10年前に読売ジャイアンツのグループ企業、日本テレビの金曜ロードショーで『タッチ Miss Lonely Yesterday あれから君は…』なるスペシャルアニメを放映したのだが、本作のラストで主人公・上杉達也はメジャーリーグの入団テストを受け、その3年後の『タッチ CROSS ROAD〜風のゆくえ〜』では、マイナーリーグでプレーしているのである。
『タッチ』の主人公が日本のプロ野球に入団しない時点で、いずれこうなることは時間の問題だった。
ということは、結論はひとつである。
今からでも遅くないので日本テレビはあだち充先生を口説き落とし、新テレビアニメ『タッチ プロ野球編』を製作し、読売ジャイアンツのエースとして活躍する上杉達也の活躍を描くしかない。
ただし、作ったところで私は見ない。
面白くなさそうだからだ。(ヲイ
もう何年か前の話だが、藤圭子氏の娘さんが結婚していた時期である。
現在は離婚したが、当時の夫が映画を撮ったとのことで、見に行った。
その映画の名は「CASSHERN」、タツノコアニメの金字塔、「新造人間キャシャーン」の実写映画化である。
そのときの日記はどういう風に展開したかというと、タダ券を使い切るために見に行ったら大変混雑していて、辟易して空いてる映画を見ようと思い、結局「クレヨンしんちゃん」を見たという風に展開している。
そして最後は「次はヤッターマンが映画になる」というギャグで〆ている。
このとき見なかった「CASSHERN」は現在に至るまで見ていないが、それはあまり大きな問題ではない。
「次はヤッターマンだ」という寒いギャグが重要なのである。
オチの選定は重要な作業なので、「次はこれが実写になるだろう」というギャグで行くにしても、どの作品を選ぶかはそれなりに考えた。
まずはタツノコ作品から選ぶとして、今回は「新造人間キャシャーン」なので、似た路線のキャラクター、すなわち「科学忍者隊ガッチャマン」(※映画化決定済み)「破裏拳ポリマー」「宇宙の騎士テッカマン」は避けることにした。
普通にあり得そうだったからだ。
同様に「マッハGO!GO!GO!」(※「スピードレーサー」のタイトルで映画化済み)も映像化しやすそうだったので選ばなかった。
かといって「黄金戦士ゴールドライタン」「ゴワッパー5ゴーダム」「とんでも戦士ムテキング」などはイマイチ知名度が低く(一応アニメに興味のない人も読んでいるので)、オチとしてのインパクトは弱い。
そこで、なさそうな作品として「ヤッターマン」を選んだのである。
それが実写映画になると聞いたときは大変驚いた。
これがヤッターマンが映画になりますねという話題だけなら「みなしごハッチを選んでおけばよかった」というオチで〆る(※)のだが、今日の話はここからが本題である。
(※ハクション大魔王ではない理由は、ヤッターマンが映画になるならハクション大魔王もあり得そうで怖いからだ。という二重オチも考えるだろう。で、実際使うと寒い、と。)
今年の1月、私はアニメ新シリーズ「ヤッターマン」の主題歌について日記を書いている。
ネット上では大騒動になり、ニコニコ動画やユーチューブには主題歌を差し替えたOPがあふれた。
間の悪いことにオリジナルシンガーの山本正之氏がアコースティックギターで歌った音源(テレビ番組で歌ったもの)が存在し、アレンジの問題ではなく、ボギー刑事の歌そのものに問題があったことが多くのユーザーに露見してしまった。
その後も公式掲示板の検閲疑惑(※主題歌については肯定的な意見しか掲載していないのではという疑惑)など色々問題が存在したが、大物司会者やサイボーグ姉妹の声優挑戦報道を皮切りに私は「新ヤッターマンを見る」モチベーションが著しく低下し、結果3話を最後にVeohですら見てないという状態になってしまった。
ファンの「ヤッターマン」への失望は大きかったのか、OPの歌手が変更されながら、2番目以降の歌手への批判は影を潜めている。
報道では「山本氏が批判していなかったから、ファンの怒りも向かなかった」と分析されていたが、私はおそらく多くのファンが「怒ったところで無駄」ということに気付き、結局「見ない」という選択肢を選んでしまったのではないかと思っている。
それは、待ち望んでいた新シリーズだったのにフタを開けてみたら中嶋君との関係も進まないわ、東海林や木下警部補は出てこないわでガックリ来て、ニコニコ動画で全話ダウンロードしたけどまだ1本も見てない「逮捕しちゃうぞフルスロットル」と近いものを感じる。
もしも4期があるなら、東海林を出せこのスカポンタンということを書き始めると話がずれるので割愛するが、ファンの中で「ヤッターマン」への温度は一気に冷えてしまったと言わざるを得ない。
そこに飛び込んできたのが、劇場版「ヤッターマン」の主題歌は山本正之氏が担当するという一報である。
これは当然ながら英断と評価するが、山本氏は「テレビでは流れませんでしたが、銀幕で流れます」とコメントしており、今後もテレビでは山本氏の歌は流れない可能性が高いようである。
では、なぜ映画は山本氏の起用に至ったのか。
まず真っ先に考えられるのは監督である三池氏が強く推したと言うことだ。
三池監督は映画「ゼブラーマン」にて、架空のヒーロー「ゼブラーマン」の主題歌を脚本の宮藤官九郎氏が作詞したものを見た際、即座に「これに曲をつけて水木一郎氏に歌ってもらうように」との指示を出したらしい。
だが、これはおそらく違うと思う。
というのは、「ゼブラーマンの歌」は挿入歌である。
主題歌ともなれば予告編で流れたり、タイアップも可能な商材であり、たとえ本編と全く関係がない楽曲であっても「イメージソング」などの名目で発売を目論むものである。
これは今に始まった話ではなく、某仮面ノリダーの細君は25年ほど前「風の谷のナウシカ」という黒歴史ソングを歌っている。
そうなると、考えられるのはもう一つの理由、すなわち「ファンの怒りを恐れた」ということである。
山本正之氏は「アニメがなんだ」という楽曲でこう歌っている。
♪アニメがなんだ アニメがなんだ
♪子供に夢売る ついでにオモチャ売る
(中略)
♪アニメがなんだ 30分のコマーシャル
♪タカトク クローバー(※) 今頃どうしてるかな
(※2社ともすでに倒産したオモチャメーカー)
テレビアニメというのは、スポンサーの投資を回収するために存在する。
回収というのはタカラトミーのオモチャであり、レコード会社のCDやDVDであり、アニメにおける視聴率は「サザエさん」などを例外としてそれほど重要視されていない傾向である。
実際、毎年の仮面ライダーやスーパー戦隊で問題になるのは平均視聴率ではなく、バンダイのオモチャがどれだけ売れたかであり、オモチャの売れたヒーローが勝ちである。
たとえば「5年3組魔法組」という特撮番組は視聴率がよかったのでテレビ局から続投要請があったが、オモチャ屋の都合で打ち切られた。
バンダイ的にはスーパー戦隊が好きなだけのファンは不合格で、毎年超合金ロボットを買ってるファンは合格である。
ここら辺の事情は長くなるので割愛するが、アニメ「ヤッターマン」にしても視聴率も高いに越したことはないが、視聴率以上にタカラトミーのオモチャが重要なキャスティングボードを握っていることは想像に難くない。
だが、劇場版となると話は別である。
というのは、テレビはファン(ユーザー)が受け身のメディアであるが、映画は能動系のメディアだからだ。
どんなに良い映画を撮ろうと、お客さんが入らなければそれは(スポンサーにとっては)悪い作品なのである。
ということは、映画のプロモーションというのはテレビのプロモーション以上に注意が必要である。
そして、昨年、我が国では意味不明のプロモーションから前代未聞の閑古鳥を招いた映画「ザ・シンプソンズMOVIE」という素晴らしい前例が誕生している。
もちろん、元々の製作はアメリカであるし、オリジナルキャストで吹き替えたDVDの販売もあるから、大物芸能人を起用した投資の分程度は回収したと思うが、ファンの間では「シンプソンズが好きなら映画館には行くな」というネガティブ・キャンペーンが行われた。
これが劇場版「ヤッターマン」だったらどうなるか。
「ひどい作品だ、神作への冒涜だ」「絶対見に行ってはならない」、こんなキャンペーンがファンの間で起こった日には、制作費の回収すらままならないかもしれない。
そうなれば「ヤッターマンの主題歌は山本さんです」としておくのが吉ではないか。
「主題歌は山本先生かよ!映画は絶対見に行こう!」そう叫ぶファンの声がどこからか聞こえてくるだろう。
私がプロデューサーならば、同じ方法でプロモーションをする。
私自身も21世紀版の「ヤッターマンの歌」に興味があるからだ。
そういう意味では試金石である。
というのは、旧来のファンが楽しめる要素を入れて宣伝したのに転けるなんてことになれば、今後より一層ファン排除、ファン無視の動きが加速するのではないかという可能性もあるのである。
となれば、ヤッターマンのファンは、もしかすると、ひとりひとりの決断で日本の映画界が変わる決定権を握っているのかもしれない。
ネタバレをせずに論評すると言うことが不可能なので、堂々とネタバレします。ご了承ください。
「もののけ姫」以後の宮崎アニメは賛否両論あると承知してましたので、「崖の上のポニョ」も覚悟をして見てきました。
101分と尺は最近の作品では短い方で、これが吉と出るか凶と出るか、といったあたりに注目をしていました。
実際のところ尺の長短ははっきり言ってどうでもいいことで、もっと凄まじいものを見るなんてこのときはまだわかってなかったのです。
私もまた、ポニョのキャラ造形に騙された人間なんでしょう。
さて、「ポニョ」前半に関して言えばめちゃくちゃ面白かったと断言しておきます。
ポニョが一度海底に連れ戻されて、手足が生えるあたりまでの展開は今までの宮崎アニメでもなかなかのテンポで、所ジョージ氏の演技さえ我慢すればまったく文句がありません。
(各所でさんざん言われているが、所ジョージ氏のキャスティングはミスだと思う。顔出しでなければダメなら、江守徹氏をキャスティングするべきだった)
冒頭、海面にあがるポニョの作画は絢爛豪華の一言。
全部手書きというのが信じがたいすさまじさで、これが出来るアニメプロダクションは日本ではジブリしかいないといっても過言ではないでしょう。
そしてポニョと主人公・宗介の出会い。
宗介は海で拾ったポニョを、(水道かポンプかはわかりませんが)少なくとも淡水のバケツの中に突っ込みます。
待て、待て、待て、待てェェェェェェェ!!
魚に見えないポニョを金魚と言い切るのは擬人化と割り切るとして、海の魚を淡水にぶち込むってどうなのよ?
浸透圧の調整が出来るのか!?
この瞬間、私は「崖の上のポニョ」にリアリズムが一切存在し得ないことを悟りました。
夕刊フジで、安保有希子氏(映画ライター)が「“ポニョ”は、頭で考えるよりも全身で楽しむ感覚に近い映画。」と評したのも納得いきます。
理屈で考えたらどうやってもわからない部分が多すぎるんですよ。
時化で避難命令が出るのに家に帰る宗介と母親、帰宅すると荷物をまとめるのではなく、優雅に紅茶とチキンラーメン。なぜ?
時化の翌日、崖の上にある宗介の家を残して町は水没。日本沈没かぁ!?
魔法を使うたびにポニョは半魚人へと戻るが、トンネルを通ったら魚に戻った。なぜ?
ポニョには本物の名があるのに、ポニョのオヤジも途中から「ポニョ」としか呼ばない。なぜ?
ここら辺は「ツッコミは野暮だろ」と敢えてスルーするとして、老人ホームの隣に保育園があるとか、赤ちゃんにおっぱいをあげる女性とか、「生と死」のメタファーがそこかしこに出てくるのはなぜなのか?
前述の安保氏の発言「全身で楽しむ感覚」を邪魔するものは、間違いなく「生と死のメタファー」です。
後半はテンポの悪さなのか、メタファーのせいなのか、居心地の悪い違和感との戦いでしたよ。
私は「ポニョ」を見ながら、2本の映画をふと思い出しました。
1本目の映画は黒澤明監督の「夢」です。
「夢」は、「こんな夢を見た」の一言から始まって、理屈では一切理解できない幻想的な物語が描かれます。
結局何が言いたいのか、何がしたかったのか、観客がしばしば混乱する作品です。
夢の中だから多少の整合性がなくともよいのだ、黒澤は自分の夢を映像に残したかったのだと解釈すれば理屈では理解できる、さりとて感情的に理解しがたい、それと同じ感覚が「ポニョ」にはあります。
「夢」にせよ「ポニョ」にせよ、根底に流れるシュルレアリスム(超現実)が非常に似通っている。
実写とアニメの違いはあれど、黒澤も宮崎も天才であり、キャリアの終盤にこんな作品を作ったということもどことなく似ている。
「ポニョ」は宮崎駿における「夢」ではないのか。
いや、「ポニョ」の世界そのものが、宮崎駿の夢の中、脳内世界ではないのか。
そうすれば、この「違和感」に説明が付くはずです。
自分の夢でさえ、目覚めてみると違和感を感じることが多々あるものです。
まして、他人の、なおかつ天才・宮崎駿の夢ならば、魅せられる人もいれば、気持ち悪く思う人もいるわけで、賛否両論は然りといえましょう。
2本目の映画はスタンリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」です。
なんて書くと「子どもの王様パヤオと、ブラックユーモアの帝王スタンリーを一緒にするな」と抗議が来ると思いますが、私は「ポニョ」と「時計じかけのオレンジ」について、近似性を見いだしました。
「ポニョ」と「夢」の相似はそこそこの人が突っ込んでましたが、「ポニョ」と「時計じかけのオレンジ」の対比に着目したのはこのサイトが初めてだと思います。
「ポニョ」と「時計じかけのオレンジ」は、言うまでもなくストーリーは全く異なります。
前者は子ども向けに作ったものであり、後者は子どもに見せてはいけない作品です。
しかし、鮮烈かつ印象に残り、結果として頭から離れない映像、そして全編に流れる「生と死」のメタファーがあまりにも似通っています。
(メタファーの存在が似ているだけで、メタファーそのものはセックス&バイオレンスだから全然似ていません)
同時に、ストーリーがあってないようなものである、形骸化したものであるという部分も似ています。
「ポニョ」で言えば、クライマックスは宗介に対しての試練だと言われますが、実際には全然試練になっていない。
「時計じかけのオレンジ」にしても、不良少年たちが殺人の罪をすべてアレックスに着せて、最後は警官になっている。理屈で考えたらおかしな話です。
ストーリーが形骸化していると気づかなければ、混乱すると思います。
「ポニョ」はユートピアを描き、「時計じかけのオレンジ」は反ユートピアを描いている。
ベクトルが完全に反対だからこそ、似てしまったという希有な例といえましょう。
ベクトルこそ反対ながら、アヴァンギャルド(前衛)という意味では、「ポニョ」は実にキューブリック的な作品と思います。
全編ブラックではない、ホワイトである。ここまでホワイトユーモアであると、かえってブラックに近く感じる。
この「薄気味悪さ」が賛否を呼んでいるとも考えられます。
こうしてみると、エンディングで少女の歌う「♪ポーニョポニョポニョ」という歌が、まるで「雨に唄えば」と被ってきます。
ということは久石譲氏の音楽はさながら第九ということでしょうか。
とりあえず深読みしすぎると、こういう汚い大人になるんだよと言うことで、皆さんはあまり深読みしないで見てきてください。ハイ。
<ちょっと真面目な追記>
映像的なインパクトという意味では、本当に凄いです。ジュニアの「ゲド戦記」と違い、印象に残るカットが次々あって、映画とはこういうものだというパヤオのシャウトが聞こえてきそうです。
あまりにも実験的な作品を、家族みんなで楽しんでねという宣伝姿勢は多少いかがなものかと思いますが、この映画を興行的に当てられるのは現在の日本でパヤオしかいないのは皆さんもご承知の通りです。
クライマックスは映像の美しさに音楽が一致してまして、このシーンを見て映画館を出ると「いい映画だった!」「優しい気持ちになった!」とか感想書く人がいるんだろうなーなんて思いました。
ポニョに手足が生える前半までは大変面白かったのですが、後半から実験アニメ的展開になったせいか、すごく見てるのが大変で、トンネル抜けたあたりから「早く終わらないかなー」なんて思ってました。
何点という風に点数をつけるのが難しい映画ですし、映画館でも多くの観客が戸惑いながら見ていたわけで、この「とまどい」を反芻して、消化できないと得点をつけることは難しいと思います。
おそらくロングランでしょうし、尺も短いので、ヒマとカネがあれば話の種に見てきてもいいかもしれません。
「ポニョ」見てきました。
と言う一言でオシマイにすると皆さん納得行かないと思うので色々書こうと思うのですが、なかなか感想が書きづらい作品でした。
凄い作品だったとは思いますし、傑作だとも思う。
一方で、劇場でものすごく「むずがゆい気分」になって早く帰りたいと思ったし、違和感もあり、「面白かった」とも「良かった」とも「好きだ」とも言えない自分がいます。
客観的には名作だと思うけれども、自分はこれを名作とは認めがたい作品だと感じました。
本作については一方的な擁護、批判もありますが、これもやはり何とも言えない感情が起点となっているのではないかと思います。
わけがわからなくなっての批判、あるいはそれゆえに高尚と判断しての擁護、それぞれに理由がありますし、キャラクターの「かわいらしさ」からの擁護は言うまでもなく理解できます。
もちろん、毎度おなじみ「ごうかせいゆうじん(わら)」の「すばらしいえんぎ(わら)」について批判しているのも十分理解できます。
ただ、「ポニョ」は声優とかキャラクタなんてどうでもいい、何とも表現できない「とまどい」を感じる作品になっており、私自身、これをどういう手順で書くか、困っています。
(そういう意味では「ゲド戦記」は料理しやすかった。)
とりあえず、ちょっとまとめるまで多少時間がかかりますが、やりますよと言うことで、今日は予告編です。
♪ポーニョポニョポニョ〜