Things We Said Today


7/2
「相棒 劇場版」追加ネタ

犯人以外の部分でネタバレを若干含みます。

・角田課長の出番は冒頭の「ヒマか?」と、中盤のチェス対決のところに冷やかしに来るところだけ。

・木村佳乃氏演じる衆議院議員の父親で元外相を演じるのは「殿下」こと小野寺昭氏。セリフ無しで、集合写真と、暖炉脇の顔アップのみというちょい役ながら、なかなかの存在感を見せてます。

・松下由樹氏、西村雅彦氏の出番も数カット。西村氏の存在は最近「相棒」を見始めた俺は知りませんでした。

・有森裕子氏がカメオで登場。ニューハーフタレントのはるな愛氏もワンカット出演。他にもテレビ朝日のアナウンサーなどカメオはそこそこ。

・劇中常に着物のたまきさんが、マラソンの場面ではスポーツウェア。シリーズの中では貴重なシーンだと思う。

・公式サイトなどで使われているトリオ・ザ・捜一が晴れた鉄塔の下で並んでいる写真は宣伝用スチールで、本編にはありません。

・主演のふたりの他、イタミン、米沢さんあたりの出番が多く、クレジット的には目立たないものの、劇中では出張ってました。

・チェスのルールは劇中でも説明してくれるので特にさらう必要はありませんが、「ステイルメイト」だけでも知っておくとより楽しめます。

・なかなか面白い試みだと思ったのが本作のパンフレット。このような茶封筒に入っており、「見終わるまで開けてはいけません」との注意書きもあります。


どっちみちハサミがないと開けようがないので、家に帰らないと読めません。






凝ってるせいか生産が追いつかず、妹が見に行ったときは品切れだったらしい。




・その中身がこれ。黒い冊子は映画のスチールのみで、キャストインタビューなどは新聞風読み物の中にあります。一面トップで犯人の写真が出てくる上に、当該キャスト紹介でも「今回の主犯」と書いてあります。


※上記新聞の見出しはフィクション内の事件です。




・ネタバレにならないところで、パンフの一部を紹介。


黒冊子のスチールはファンの欲しい「絵」をよくわかっていると思う。





・パンフの大きさ比較。コレクション性はともかく、しまいやすいとは思う。ちなみに比較対照が「少林サッカー」なのは、本棚からすぐ出たのがこれだったからと言うそれだけの理由だ。


ベクトルは180度違います。



7/1
必ず、追いつめて見せます〜「相棒 劇場版」〜

2003年、「西部警察スペシャル」の特集記事目当てで買った「刑事マガジン」に、「相棒」という2時間サスペンスが連ドラになるという記事が載ってました。
それを記念して水谷豊氏、寺脇康文氏のインタビューが載っていたわけですが、そのときは「珍しいこともあるもんだね」(※サスペンスが連ドラになるなんて珍しかった)程度で、2時間サスペンスの再放送を見たら連ドラも見ようか…と思っていて再放送を見逃し、結局連ドラも乗り遅れてしまうことになりました。

当時の水曜21時枠は「トリビアの泉」全盛期で、「はみだし刑事情熱系」はボロボロになり、「はぐれ刑事純情派」にも往時の勢いは見られず、「相棒」も最初はずいぶん苦戦していた記憶があります。
そんな中、「なかなか面白い」という噂は聞いてました。
でも、俺はトリビア見てました。あのころはトリビア面白かったんですよ。
今じゃ番組つくってた会社が「納豆食べるだけで痩せる」番組作ったのが原因でトリビアの泉も放送できなくなっちまいましたが、あの当時は面白かったわけです。

当サイトの日記を読んでる人は今更言うまでもないんですが、前述の「西部警察スペシャル」は撮影中に事故が起き、お蔵入りになってしまったんですね。
完成した2時間スペシャルだけは後に放映されましたが、あれは2時間特番が第1話で、その後連ドラとして話が始まるはずで、1年後の初放映の際「俺たちの戦いはこれからだ!」みたいなラストに萎えながら見てました。
あれから5年経ちますけど、第2部はまだですか?ごはん食べてる場合じゃないですってば。

話を戻して。

さて、その後も「相棒」は地味に続いてました。
2005年頃になると「トリビアの泉」のネタが枯渇したのか、番組がつまらなくなり、「相棒」の数字も伸び始めたと記憶してます。
ただ、当時はトリビア以前にテレビが見られない生活で(今もそれほどテレビを見られる生活は送れていない)、結局はあんまり見てなかったはずです。
本格的に見るようになったのは土曜の昼間に再放送がかかるようになった、ここしばらくの話です。

その「相棒」が映画になりました。
東映テレビ部が作ったテレビドラマが、映画部のナワバリであるGW興業の目玉になった。
これはすごいことです。
スタッフ、キャストがんばりをねぎらうためにも、是が非でも映画館で見てあげたかった。

というわけで、時間がないのにいってきました、「相棒」。
いや、1000円デーでしたし、行くなら今日しかないんですよ。
これ以上伸ばすと、夏興業に被って打ち切りになります。
(ちなみに大体7月18日で打ちきりになると思う)

映画は5月1日に封切られて以後、大ヒットし、ロングラン公開が決定。
現在東映の興行収入記録は「男たちの大和/YAMATO」ですが、「YAMATO」も越えられるのではと期待されています。
その辺は皆さんもご存じだと思います。

で、映画の感想なわけですが、いかんせん「犯人は誰だ」の部分がメインストーリーなので、見てない人のためにも、ネタバレしないように進めていきたいと思います。
かくいう俺は見る前に、ニコニコ動画で相棒関連の動画見てたら、コメントで「犯人は○○」と思いっきりネタバレされました。
一応言っておくと、ネタバレされても結構楽しめますんで(あと、途中で大体犯人の見当はついてしまうということもある)、万一ネタバレされたから見る気が失せた人は気にせず見に行って欲しいと思います。

以下感想。

一見ただの殺人事件が実は連続殺人事件だった、という部分から始まって、東京ビッグシティマラソンのランナーと人質が狙われることが判明…という、スケールの大きな展開になります。
推理系が好きな人にとっては荒唐無稽とも言われそうなストーリーですが、多少荒唐無稽な方が映像としてはハラハラして面白くなります。
一体いつの間にそんな手際よく仕掛けたんだーとか、野暮なツッコミも間に合わないほどテンポよくストーリーも展開しますし、なるべく無理なく、自然に「相棒」の設定がセリフで説明されますので、テレビシリーズを見てない人でも楽しめます。
また、準レギュラー含めてほぼ全キャラがそろいますし、それが自然な状況にしているのもいいです。
このほか、エキストラを大量動員したマラソンシーンや、クライマックスの爆破など、力の入ったシーンが連続して登場し、映像的にも実に素晴らしい作品です。
犯人を逮捕し、動機を説明したあたりでボルテージも最高潮になりました。
こりゃ5つ星あげてもいいな、とまで思いましたよ。

ところが。

ここから一気にペースダウン。
「男たちの大和」も大和が沈んでから長かったんですが、「相棒」も犯人逮捕してから終わるまでが長い。
実時間からすれば15分くらいだと思うんですが、それまでのテンポが速かった分、40分くらいに感じました。
もちろん、今回の映画は単なる殺人事件だけでなく、日本の国家や社会が行ってきた「隠された犯罪」も描いてきたわけで、そこの決着もつけるべきなのですが、前者はともかく、後者の犯罪は観客自身もほぼ全員同罪なわけで、なんとも言えない気分になります。
さらに言えば、その「隠された犯罪」は社会構造とか、そういうものであり、映画の中で決着はつけようがないんですね。
ところが、無理矢理それにケリをつけてしまった。
個人的な意見としては、観客自身がそれを持ち帰って考えさせる展開にして、中途半端に大団円っぽいストーリーは不要だったと思います。
敢えてそれを狙ったのならともかく、全然救われないじゃん、これ。
というわけで、この辺を見てたときは「星3つくらいかな」というところまでトーンダウンしてました。

それでも、最後に挽回するチャンスはあったんですよ。
それは、エンドロールです。
このストーリーではカタルシスは得られないのだけれど、それでも最後に、ある登場人物の旅立ちを見送って、「さあ、行こうか」となったところでいつもの「相棒メインテーマ」を流してエンドロールに入ればもうちょっとよかったと思うんです。
あれ聞いて終われば「ああ、そうそう、相棒を見たんだったわ」という自分も再確認できるし、一応スカッとして帰れるはずなんです。
「男たちの大和」だって、最後に長渕剛氏のバラードが流れるから観客号泣して帰れるわけですよ。

エンドロールの選曲って意外と重要です。
私は「俺は、君のためにこそ死にに行く」が転けたのは、ラストがB'zだったからだと思ってるくらいです。
(※別にB'zそのものがダメとかそういう意味ではなく、中高年をターゲットにした泣ける映画のラストにB'zでは興ざめするからダメだという意味です、念のため)

あれがたとえば、さだまさし氏とか、谷村新司氏とかの「泣けるバラード」だったら、観客は心おきなく号泣して、「いやー、泣けたわー」とか言ってくれたはずなんですよ。
特に中高年は主題歌の善し悪しで作品の判断を決めてる節があって、あの「ゲド戦記」が中高年に受けた理由が、「テルーの唄」がよかったからだって言うんですよ。
(母の周辺の中高年はそれを理由にゲドを支持してた。信じられねー)

もちろん、トータルでは面白かったです。
星4つ分はあったと思います。
ただ、エンドロールでメインテーマと、あと強いて言えば新宿の空撮はともかく、夜景じゃなかった(テレ朝の刑事ドラマは新宿夜景空撮で〆るのがお約束)んで、今度「相棒 劇場版2」やるときは善処して欲しいと思います。

余談ですが、「クライマーズ・ハイ」はなかなか面白そうに予告編作ってきてました。
「突入せよ!あさま山荘事件」も予告編は面白かったし、「デビルマン」も予告編だけ見ると面白そうだったんで、「クライマーズ・ハイ」が面白くなる保証はどこにもありませんが、題材が題材だけに(1985年に発生した日航ジャンボ墜落事故)、「泣ける映画」に仕上げてきそうです。
つーか主題歌が元ちとせ氏なあたり、おすぎとピーコが「涙、涙の感動です!」とかやってヒットしそうな予感。


6/21
この先見る予定の映画

バタバタしまくりで全然「相棒」見に行けないんですが、この分だと一息ついてもまだ公開してそうなのでそこら辺で行こうかなーと思ったり。
宣伝と、自分のメモがわりに見に行きたい映画をピックアップ。

『奇跡のシンフォニー』
たぶん感動系。
予告編は面白そうだ。
こういう作品は日本で作ると、子役主演じゃ客が呼べないからと脇役に無用な大物を配置してしばしば脚本が破綻するのだが、ハリウッドの場合そういうことがなく、ロビン・ウィリムズがいても『多分必然的にいる役柄」という安心感もある。
ただ、予告編は面白そうだった映画と言えば、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も予告編は面白そうだったので、要注意だぞ。
新聞屋からタダ券入手して見る映画がなければ見る予定。


『ホット・ファズ/俺たちスーパーポリスメン!』
日本で知られている俳優が誰もいないからと言うタダそれだけを理由に公開すらされない可能性のあった洋画。
『シベリア超特急』の水野晴郎氏が生前最後に見た映画がこれだそうで、関係者によると病室で楽しんでいたという。
そりゃ警察マニアのマイク・ミズノだから、こういうオマワリコメディは大好きでしょう。
予告編を見て俺は思いました。
この映画だけは見なければならない、と。
このサイトのテクストをゲラゲラ笑って読んでくれるあなたにも絶対におすすめする一本。
損はさせません。マジで。


『ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一髪』
この映画は絶対に万人が見ては行けません。
以下のキーワードに反応する方のみご覧になって下さい。
・河崎実監督作品
・黒部進(ハヤタ)と、古谷敏(ウルトラマンの中身)が共演
・ブラックユーモア
ビートたけし(※北野武ではない)が登場。
予算とヒマが合えば俺は見に行きます。


『休暇』
たぶん忙しくて俺は見られないと思う。
ちょっとヘヴィなテーマの映画で、シナリオがどうなっているのか興味アリ。


こうしてみると、金とヒマってあれば使いたくなるように人間出来てるんですね。


6/13
ありがとう9周年

cyborg009.jpg

どこで聞いたかは記憶にないのですが、ウェブサイトの半分は1年で閉じる、もう1年経つとその半分が閉じる、という話を聞いたことがあります。
1年で半分ずつ閉じていくとすれば、1999年に開設されたウェブサイトは、当時の0.2%しか残っていない、ということになります。

もちろん、ウェブサイトは長く続ければよい、と言うものではありません。
ただ、なかなか長く続けるということも難しい。
なんだかんだいいながら続けられたと言うことは、みなさまのおかげです。
本当にありがとうございます。

自分でも以前に比べると更新モチベーションは下がっています。
しかし、それでもたまには更新をして、みなさまにオサレなテクストをお届けしたくなることもあるわけです。
身の回りがバタバタして、以前のようなペースでは不可能ですが、今後も末永く、不定期に、更新を続けていきます。
変わらぬご愛顧をよろしくお願いします。

2008年6月13日
SaToshi 拝


5/13
裁判員制度スペシャル(後)

昨日に引き続き「裁判員制度スペシャル」。後編は、裁判員制度を調べて感じたことをテーマに、熱く論述します。


裁判員制度を調べる中で、疑義を感じたことが4つある。1つは、導入以前以後ともに、肝心の国民が置いてけぼりにされていないか、ということである。
別に時期尚早と言うつもりはないが、多くの人が最近の広報周知で初めて裁判員制度を知ったと思う。
今も尚、「裁判員制度というなにやらやっかいな陪審制が始まるらしい」という印象を抱いている人は多いだろう。(裁判員制は陪審制ではない、については前編参照)
裁判員制度はヨーロッパの参審員制度を手本に改良を加え、広く市民に司法に参加してもらう制度でありますと言ったところで、参審員制度から説明しなければならないのだ。

考えてみれば、「これにて一件落着」に代表されるとおり、日本人にとっての司法は歴史的にもなじみが薄いものであった。
裁判と言えば大岡裁き、なんて答える人はいないだろうが、裁判所に行かずに生涯を終える人の方が多いだろう。

かくいう私自身は数年前だが、刑事事件の傍聴をしたことがある。その際に傍聴人には聞こえづらい冒頭陳述など、裁判の形骸化については感じた。
だから、司法制度改革は要不要で言えば要る方だと思う。
実際、映画「それでも僕はやってない」だとか、痴漢えん罪をきっかけに司法制度への疑念・疑義を訴える声は10年前に比べれば大きくなってきたと思う。
では、その改革の結実として、裁判員制度は適切だったのか。
始まってもいないわけで最終的な評価は控えるが、どうもそこら辺の議論は法曹関係者と、私のような酔狂な人間に限られている感がある。
市井の人々が参加する手前、市井の人の意見も募るべきなのだが、当然推進派は賛成的意見を集約し、反対はそちらの意見を集約するから侃々諤々になるのは目に見えている。
裁判員制度は「国民の代表」である司法制度改革審議会の答申を受けて実施されたとのことだが、その答申を今頃知って多くの国民は大騒動しているわけで、答申の時点で大々的に報道しなかったメディアにも責任の端緒はあるのではないかと感じる。



論が逸れるが、選任された委員による審議会を「国民の代表」というのはどうなのだろうか?
「国民の代表」というのは、憲法的には「正当な選挙で選んだ人」だろう。
一度でいいからニュースのテレゴングなどで三浦朱門・曽野綾子夫妻を国民の代表とすることに賛成か反対か、やってみてほしいと思う。



2つ目の疑義は、国民の不安に答えていない側面である。
「仕事を休んだら解雇されるかも」とか、「被告人に報復されるかも」といった不安は誰しもあるだろう。
Q&Aによれば、「法律で禁止してありますから大丈夫です」なのである。
これで大丈夫だと思った人はそれでいいのだが、個人的にはどうにも引っかかるのだ。
何しろ、裁判員が関わる裁判は刑事事件。
言い換えれば法律違反である。
法律を守らない人間が現にいるのに、「法律で禁止してあるから安心です」というのは少々的はずれの意見ではなかろうか?
(たとえば、規則で禁止すればOKならば、ウィニーを使った情報流出はこの先起こらないだろう。)


3つ目の疑義は、極刑判断である。
裁判員制度の参加する事件は、極刑(つまり死刑)もあり得る重大事件である。
事件が起きた段階で「無辜の生命を奪うとは許し難い、犯人は死刑」という感想を抱くことは誰しもあり得ることである。
私もしばしば感じる。
ところが、実際に裁判員として極刑を言い渡すことになれば、なにがしかの感情を抱く人が多いのではないだろうか、とも思える。
腰が引けるという人もいるだろう。
同時に、裁判員制度開始後に求刑死刑が無期懲役の判決となった場合、「世論の怒り」が裁判員に向かうことも考えられる。
一般常識の欠落した人が選ばれたんだね、なんて陰口が叩かれない保証はどこにもない。


最後の疑義は、インターネットの存在を法案が忘れてはいないか、ということである。
制度制定当時ウェブサイトは一部の好事家(当サイトがいい例である)の持ち物であった。
だが現在、ブログの普及はめざましい。
普通の主婦からどこかの課長さんまでブログをやっている。
芸能関係者で言えば携帯電話を使ってブログを更新している。
当サイト開設当時「毎日更新」するウェブサイトは「更新がまめなサイト」と言われていたが、近年見かける「毎時更新」なんてブログにはめまいすら覚えてしまう。

そういったブログ、SNS、掲示板などに裁判員がうっかり書き込んでしまう、ということは十分に考えられる。
特に世間の関心が高い事件の場合、公判日にはあの掲示板にスレッドが立っているはずだ。
「俺裁判員だけど、こいつ絶対に死刑にするわ」とか「俺裁判員だけど評議の結果死刑に決まった」なんて書き込みが出たらどう対処するのか。
ネタ、つまり虚偽の書き込みかも知れないし、本物かも知れない。
掲示板の書き込みが本物か偽物か、偽物と証明するのはまだしも、本物と証明するには少々骨が折れるだろう。
また仮に本物だから削除するとして、そういう書き込みは削除前にコピー&ペーストされて永久保存されることもあり得る。

そして、あまり考えたくはないが、最近続く情報流出を考えると、裁判員名簿が流出する可能性があるのではないか、という疑念はやはり消えない。
セキュリティは万全ですと反論されそうだが、万全ですと言った側から発生した一連の事件を考えるとにわかには信じがたい。

ただ、この4つの疑義は裁判員制度をするべきか、しないべきかという観点とはベクトルのずれた疑念である。
私自身は前述の通り司法制度の改革については必要性があると思っている。
その一方で、前述の疑義を無視して見切り発車し、裁判員の生命や財産が傷つけられることがあってはならない。
国民に広く意見を募り、半年から1年程度制度の実施を延期するというのもひとつの選択肢である。
そのためには、多くの人が裁判員制度への理解をより深めることが大事だと思われる。


5/12
裁判員制度スペシャル(前)

月1回は更新したいといいながらこの体たらく、想定内!
なんて自嘲気味に話してもしょうがないんですけど、みなさまお元気ですか。
メールボックスは迷惑メールばかり、CGIは海外から変な奴らがやってくるし、後輩のブログのコメントはいかがわしいサイトの案内ばかり。
阿藤快さんじゃありませんが「なんだかなー」と思うこともしばしばです。

さて、「なんだかなー」といえば、先日から話題になっているのが「裁判員制度」です。
大学のころ、新聞で「裁判員制度ができる」ということは知ってました。
とはいえ、「制度ができた」ことを知っていることは「その制度を知っている」ことにはなりません。
言われてみれば、どういう制度なのか今ひとつよくわからない。
気になって気になって夜も眠れない、ということはありませんが、調べてみたくなったので調べてみました。

というわけで今回は裁判員制度スペシャルです。
前後編の2回に分けて、裁判員制度の話をお送りします。
前編では、読んでみた裁判員制度本を一気読みレビュー。
とりあえず出版年度順にしてあります。
あとまあ、一応裁判員制度への立場と、難易度も記しておきます。ただし主観です。

なお、予め断っておきますが、俺は裁判員制度そのものを理解したいから本を読んだわけで、特に賛成とか反対とかまだ決めてません。
ですので、賛成・反対の立場の人それぞれに賛同したり、批判したりしますが、そこら辺はご了承下さい。

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丸田隆・著『裁判員制度』(2004年・平凡社新書)裁判員制度:賛成(一部反対) 難易度:普通
著者は「陪審員制度」賛成者。
裁判員制度のシミュレーションのほか、立法の経緯、各国の比較、反対者への意見などで構成。
司法制度改革の理想が審議会にてどんどん陪審制から離れることに挫折感を感じたと表明。
つまり、国民の司法参加は賛成だが、裁判員制度にはまだまだ不満があるわけで、愛憎入り交じった感情が読みとれる文章。
裁判員制度が成熟した市民社会には不可欠であるという意見は説得力があるが、実際の市民参加についてはやや楽天的な印象。
まだまだ国民認知が低い時期の出版だったせいか、ギャップを感じるところもある。
戦前における日本の陪審制度や各国の司法参加制度比較は5冊の中でもっとも理解しやすい。


日本弁護士連合会・編『裁判員制度と取り調べの可視化』(2004年・明石書店)裁判員制度:賛成? 難易度:やや難
賛成・反対の意見表明は見られないが、反対意見の表明は特に見られないので賛成に近いと思う。
裁判員制度に対する言及よりも、制度導入を機に取り調べの録画を行うべきだ、との論調。
したがって裁判員制度について調べるにはちょっと筋がずれている。
タイトルは「刑事事件取り調べ可視化の必要性−裁判員制度導入を機に−」とかの方が合致してる気がする。
裁判で使う取り調べ記録(調書)の問題や、過去のえん罪事件と取り調べの問題などに言及しており、そのあたりの知識がないと理解するのは難しいと思う。


池田修・著『解説 裁判員法−立法の経緯と課題−』(2005年・弘文堂)裁判員制度:中立 難易度:難
法律の解釈本。今回読んだ本の中でもっとも難しかった。
法学部の学生が裁判員制度を学ぶために書かれたような本で、最初から刑法や刑事訴訟法が頭に入っていないと理解できない文章。
課題なども専門的で、後半は斜め読み。


河津博史ほか著『ガイドブック裁判員制度』(2006年・法学書院)裁判員制度:賛成 難易度:易
裁判員制度の重要性や制度概要、FAQ、会話形式の物語などで構成。
平易な文章であり、制度の概要を知る分にはこの1冊がおすすめ。
ただ、物語内の事件で「放火容疑」で、「無罪」になるのはともかく、「放火じゃなくて天かすが燃え広がった」というオチはいただけない。


西野喜一・著『裁判員制度の正体』(2007年・講談社現代新書)裁判員制度:反対 難易度:普通
著者は元裁判官で、読んだ5冊中で唯一明確に反対意見を述べた1冊。
制度の欠陥を挙げ、ときに感情的な批判も加えられている。
中には「裁判員制度の論理が正しいなら裁判員制度は憲法改正につながる、徴兵制につながる」という意見もあり、いささか煽りすぎと感じた。
裁判員制度の持つ論理の飛躍を批判したいのはわかるが、自分も論理を飛躍させて批判するのは拙いと思う。
ただ、すべてが的はずれかというとそうではなく、一理あると思う批判もある。
特に「裁判員制度で会社を休んだ人に不利益な取り扱いをしてはならないとあるが、それを証明するのは難しく、不利益が実際にあっても泣き寝入りすることになるのでは?」という指摘は多くの人が内心不安に思っていることだろう。
本書では裁判員を免れる方法についても語られており、中には「そんな無茶な」と感じる方法も紹介されているが、有効かも知れないと感じる方法もある。
裁判員に選ばれたくない、と思う人は辞退方法の下りだけでも読んでおくといいかもしれない。


で、後編で裁判員制度について色々コメントしていきますが、それ以前におおざっぱな感想だけまとめておきたいと思います。

まず、読み終わった現時点でも裁判員制度に賛成か反対か、ちょっと決めかねています。
というのも、各書でも「こうなるだろう」「このようにすべきだ」という著者の予想と主観で書かれているからです。
過去の内容でも、

「陪審制度を導入する動きもあったが、最高裁判所や法務省が頑強に抵抗し、結果裁判員制度になった。」(丸田隆氏の要約)
「改革の必要性はなかったが、議論の末、陪審制導入論と不要論が政治的に妥協して裁判員制度ができた。」(西野喜一氏の要約)

というわけで、全く印象が異なります。
だから、近未来に導入される制度への賛成反対なんて決められるわけがない。
そもそも「改革の必要性があった」「なかった」という著者のスタンスでスタートラインが違うのです。
今回の読書の結果は、裁判員制度に賛成か反対か以前に、「ますますわからなくなった」というのが本音です。

ただ、3つわかったことがあります。

1つ目は「裁判員制度は陪審員制度ではない」ということです。
これ、もしも法律に詳しい人が知ったら「え、こんなことも知らないの?」って言われそうですが、周囲の人何人かに「裁判員制度は陪審員制度じゃないことを知っていますか?」と聞いたら全員知らなかったですよ!

詳細は丸田氏と西野氏、2冊の新書を読んでもらうとして、陪審員は裁判官から独立して評議するんだそうです。
裁判員制度のモデルはヨーロッパでいう「参審員制」を参考にしたらしく、裁判官と共同で評議するという面では陪審制とは大きく異なります。
また、陪審は全員一致が原則で一致するまで話し合いますが、参審の場合は投票で多数決、ということも異なっています。
このほか、アメリカの陪審員制度は被告が否認している事件のみ行われる、というのも興味深いですね。
ドラマなどでは毎日どこかで陪審法廷が行われてそうな感じでしたが、被告が罪状を認めた場合は陪審員制は使われないのだそうです。
そういう意味では面白かったですね。

2つ目は、「裁判員制度候補者は、ある日突然呼び出されるわけではない」ということです。
これは誤解してたんですね。
私は「ある日突然郵便受けに、裁判所に来いと脅し文句があって、嫌々行ったら被告人を裁くハメになる」と思ってました。
ちょっと違うんだそうです。

まず、有権者の中から無作為に「裁判員候補者名簿」を作り、事前に本人に通知するんだそうです。
つまり、「あなたは今後1年間の裁判員候補者になってますよ」という、怪盗ルパンからの予告状みたいなものが届くわけです。
そこで何も事件が起きなければ裁判員には選ばれませんし、その候補者名簿に入っていなければセーフです。
又聞きではありますが、私の友人がひとり、候補者名簿に選ばれたとの通知が来たそうです。
たぶん、各年度はじめに抽選して通知するんでしょう。
つまり、今の時点で候補者名簿の通知が来てない人は、まず1年間は心配がないことになります。
その後事件が起きて裁判が開かれるとき、初めて候補者の中から抽選されて選ばれるんですね。

個人的に疑問なのは、2つです。
まず、候補者名簿の段階で辞退はできるのか、ということです。本を読んでも今ひとつ理解できませんでした。
候補者段階での辞退を認めれば辞退者が相次ぐ可能性もありますが、選任手続きでゴネられるよりマシだと思うんですが、どうでしょう?
もうひとつは、実際に裁判員候補者に選ばれた場合、選定手続きのために裁判所まで行く必要があります。
つまり、裁判員に選ばれるかは別として、1日は仕事を休んだりしなければいけません。
この場合、日当は出るんでしょうか?
裁判員制度によるメリット・デメリットは色々言及されてましたが、候補者時点でどうなるのか、ちょっとわからないですね。
個人レベルのシチュエーション別解説本が待たれるところでしょう。

そしてわかったことの最後になります。
それは「とにかくやって見なけりゃわからねェ」ということです。
いや、ホントに。
まあ、ほとんどの物事が最終的に帰結する事象ですよ。
ただ、「これが予想されるから延期を」という人と「そんなことはない、始めよう」という人の意見には絶対的な隔たりがあります。
ちゃんと読んでも「やらなきゃわからんな」という感想ではいささか無責任かも知れませんが、とにかく賛否両論意見を聞いたら、制度そのものへの理解は深まったけれど、制度の可否はますます決めづらくなった、というのが実情ですな。

後編では、もうちょっと突っ込んで述べます。


2/16
機動三国志ガンダム

来年2009年はガンダム誕生30周年のアニバーサリー・イヤーである。
私は1982年生まれだが、この世代というのは「SDガンダム世代」と名付けても良いのでは、と感じることがある。
それほどSDガンダムは私にとって思い出深い存在である。

ここでSDガンダムとはなんぞや、と言う方に向けて簡潔に説明しておくと、「機動戦士ガンダム」のキャラクターをガチャガチャ(ガシャポン)のオマケにする際、二頭身にデフォルメしたことからはじまっている。
これが好評を博したことから「カードダス」やら、マンガやら、ファミコンやらと幅広い商品展開が行われ、子ども達のお小遣いを搾取したわけである。

その中でも特に子ども達に人気だったのが「元祖SDガンダム」と「SDガンダム BB戦士」である。
双方ともプラモデルなのだが、前者は玩具部門で、後者はホビー事業部と、縦割り組織の弊害みたいなものが露骨に出ていて、サイズが違うから元祖とBB戦士を絡めて遊べないと言う不満が昔からあった。
その不満を抑えるためなのか、SDガンダムの中でも人気のある3部門のうち、「ナイトガンダムシリーズ」と、「コマンドガンダムシリーズ」は元祖から、「武者ガンダムシリーズ」はBB戦士から多く出ていた、と記憶している。
実際、BB戦士のラインナップには法術士ニューガンダムはいないし、クラウンナイトガンダムのGアーマー形態は再現できなかった。

元祖が消えて、BB戦士が残ったのは色々と事情があるらしいが、やはり武者ガンダムの人気が大きかった、と言うのはあると思う。
これは個人的見解だが、武者ガンダムシリーズは遊びやすかった。
というよりも、他のシリーズが親しみづらかったのもあるだろう。

コマンドシリーズはミリタリーものだが、当時のガキどもにとって軍隊の階級はよくわからず、大佐と大尉と軍曹の偉い順番が全然わからなかった。
恥を忍んで告白すると、なんか軍曹がいつも偉そうだから軍曹が一番偉いのかな、なんて思ってたこともあるほどである。
ナイトガンダムはナイトアムロやナイトセイラといったメインキャラがキット化されず(そもそも模型にしようがない)、ナイトガンダムだけでは足りない、という印象があった。
円卓の騎士編以降はモビルスーツ族だけで話が進むようになったが、「聖機兵」に今ひとつ馴染めなかった。

ただ、この話は異論が出ている。
この異論は大学の同級生からである。
というのは、「武者」のクライマックスである「天下統一編」が1991年で、「ナイト」のクライマックスが1993年だったのである。
私が浪人していたので彼とは年齢が1歳違うわけだが、SDガンダムを追っかけていたのが1992年で自分が終わったのに対し、彼は1993年で終わった、と言うのだ。
92年と言えば小学校4年生。
部活動やら習い事が増え始め、Jリーグやプロ野球が子どもの世界に浸透を始める時期である。
つまり、武者の方が人気があった、というのは丁度きりのいいところで終わった印象が強かったからではないか、というのだ。

そうかもしれない。
よく考えてみると、SDガンダムからリアルガンダムに移行して以降、時折カタログを頂くわけだが、BB戦士は載っているわけで「今の武者ガンダムはこんな風か」と見つめ直す機会が多かった。
ふと2004年のカタログを取り出してみると、BB戦士から出ていたナイトシリーズとコマンドシリーズは掲載すらされていないのである。(※ただし、時々ナイトシリーズなどは再販される)
そう言う意味では、「武者ガンダム」の商品展開が成長の速度に丁度あっていた、とは言えるかもしれない。

さて、その武者ガンダムシリーズの新シリーズは現在も展開されている。
今回は「BB戦士誕生20周年記念 三国伝」というもの。
タイトルで一目瞭然、中国の古典「三国志演義」が元ネタである。

と、ここで同世代の方で思い出される方もあるだろうが、SDガンダムが三国志をネタにしたのは初めてではない。
1992年の「新SD戦国伝 地上最強編」の序盤、白龍ガンダム、青龍ガンダム、赤龍ガンダムが国を荒らす黄虎賊を討伐する…という部分は完全に桃園の誓いから黄巾の乱を元ネタにしている。

だが、今回の「三国伝」はスゴイ。
なにしろ主人公は劉備ガンダム。そのまんまである。
義兄弟は関羽ガンダムと張飛ガンダム。これまたそのまんま。
当然ながら曹操ガンダムと孫権ガンダムもいる。

これの良いところは、誰がどのポジションにいるか一目でわかることである。
だが、逆に「なんでやねん」と言いたくなるような話も出てくる。

たとえば、現在は第一部で袁紹バウを中心とした反董卓ザク連合の群雄割拠編なわけだが、すでに「姜維ガンダム」が登場している。(※正史では生まれていない)
「司馬懿サザビー」も登場している。(※正史では12歳)
ところが、荀イク、郭嘉、陳羣、賈クなどは登場していないのである。(ちなみに程イクは登場している。きっと徐庶のエピソードでイヤなヤツっぷりを発揮してくれると思う)

さらに、司馬仲達がここにいると言うことはもうひとつ重要な意味を持っている。
というのは、三国志では最終的に勝つのは魏・呉・蜀のいずれでもなく、司馬仲達の孫・司馬炎(字は安世)の建国した晋朝なのである。
誰もが滅びゆく美しさみたいなものが三国志の良さなわけだが、フォーマットをそのまま使う場合、司馬仲達サザビーの孫が最終的な勝利者になる、はずである。
前述の友人とどうするんだ、と言う話をしたところ、友人がすばらしい解決案を出してくれた。

「そりゃ、君。サザビーの孫なんだから、司馬炎はウッソだろ。」

納得である。
そう、「Vガンダム」の主人公ウッソの母・ミューラ=ミゲルは、シャアの愛人の娘という説があったのだ。
なるほど、そうなれば司馬炎はVガンダムということになる。

それは冗談にしても、このまま行けば張飛ガンダムは部下に寝首をかかれて殺されるはずだし、五虎将軍亡き後は孔明リガズィと姜維ガンダムだけで、無駄な北伐を繰り返して劉備の王朝は滅亡するはずである。
かといって赤壁で終わらせれば三国鼎立を迎えないわけで、どういう展開になるのか、別の意味で目が離せないシリーズであるといえる。


2/7
カナダからの手紙

ウェブサイトを運営して10年近く。
それなりの大手とは異なる個人サイトで、10年近く続いているのは、私の惰性以外何ものでもない。
惰性で続けてなければとっくの昔に閉じていただろう。
サイトを続けていて良かったことは文章がある程度上達したこと、パソコンに詳しくなったことなどがあげられる。
惰性でもやってて良かったなと思っている。

一方、悪かったことはスパムがたくさん届くようになったことだ。
最近はフィルターをかけているが、フィルターをかけても英語のスパムは多い。

だから今日、英文のメールが受信トレイに乗ったときも、最初はプロバイダで弾かれなかったスパムだろう、としか思わなかった。
だが、件名に「Daisuke Inoue」とあったのが気になった。

もちろん、Daisuke Inoueの件名は初めてではない。
井上大輔データベースはドメインなので、ドメインサーバ管理人様にオススメのレンタルサービスとかが英文で届いたことはある。
それ以外の英語スパムも多い。
LA西海岸で撮った金髪美女の子猫がどうのとかいう件名や、アメリカにおける自由な性別などという件名に至ってはうんざりするほど来た。
「平田のことは平田と呼んでください」なんか目じゃないくらい来た。
だから一部の単語を含む件名はフィルターで弾くようにしたが、そもそも金髪美女と子猫の関連とか、性別を自由にしてどうするのか、無学の自分にはとんとわからない。

今回井上大輔の前にあった単語は「Contact」である。
それも気になった理由のひとつである。
開いてみるとシンプルなテキスト形式のメールであった。
内容もシンプルである。
メールには、自分はカナダの雑誌記者で、イノウエダイスケについて調べているのだが、本人に取材をしたいから連絡先を教えて欲しい、と書いてあった。

無理である。
なにしろ井上大輔氏は8年前に急逝しているのだ。
どうやってインタビューをするというのだ。

とりあえず、無視をするのも申し訳ないので返事を書くことにした。
井上大輔は亡くなった。
だから取材は不可能だ、というものである。

だが、書き始めてふとあることを思い出した。
井上大輔氏ではなく、井上大祐氏のことだとしたら、どうだろう?

井上大祐氏はカラオケの発明者であり、世界的には後者の方が著名である。
なにせタイム誌にもカラオケの発明者として掲載された人物だ。
Karaokeはそれ自体が英語になっており、イグノーベル賞も受賞している。
読み方は同じく「イノウエダイスケ」であり、オマケに両人とも「ダイスケ」の名義はペンネームである。
(井上大輔氏の本名は井上忠夫。井上大祐氏は井上裕輔が本名)

幸い、カラオケの井上氏は存命であり、自ら会社を興していて、その会社のウェブサイトもある。
そういうわけで、Daisuke Inoueがふたりいることなどから教えることにした。

一人はカラオケの発明者。
一人は作曲家で歌手、ミュージシャン。
カラオケの人はよく知らないけど、会社を興している。
ウェブサイトもある。
作曲家の方は8年前に亡くなった。ガンダムの歌を歌ってた。
著作権は死後マネージメントしてる会社があるから問い合わせはそっちに。
書きたい人はどちら?
そんな内容を書いた。

稚拙な英作文である。
美しくない。
それでも、伝わればよいだろうと割り切って書いた。

中学から大学4年まで英語は勉強したが、いや、未だに勉強し続けているが、中学3年次の英語能力と、現在の英語能力はほとんど変わってない。
むしろ酷い。

それでも、カナダのジャーナリストは丁寧に返事をくれた。
やっぱり彼が調べていたのはカラオケの井上さんで、サンキューそっちに連絡するヨ〜、とのことだった。

内心ホッとしている反面、カナダの雑誌で採り上げられるのがまたしてもカラオケの井上さん、というのは残念でもあった。

カナダのジャーナリストさん!
次はジャパニーズ・ポップスの創始者にして日本歌謡界の巨星、井上大輔を採り上げて下さいよ!


そんなメールを送ろうとして、ふと我に返り、自分はその書きかけのメールを消した。


1/29
オタクと腐女子のサンクチュアリ〜「テラビシアにかける橋」〜

そもそもの発端は、月末になって届いた映画のタダ券であった。
月末になって私のところに来るタダ券なのだからご多分に漏れず「月内有効」なわけで、これ以外に指定のなかったタダ券と言えば「蓮如物語」「黄金の法」と、最初の「スレイヤーズ(同時上映:レジェンド・オブ・クリスタニア)」しかない。

これがシネコン「109」ならまだ良いのだが、名古屋駅前にある比較的古いハコ「ピカデリー」限定のヤツで、しかも正月興業が一段落したこの時期だから見に行く映画が特になかった。
「陰日向に咲く」は試写会で母が熟睡してきたそうだし、「銀色のシーズン」はキャスティングをきいただけで見る気がなかった。
「マリと子犬の物語」「茶々」もどうかと思ったし、「ちーちゃんは悠久の向こう」も、あらすじだけ読んで見る気がなくなった。

強いて言えば、「ミスター・ビーン」を見ようと思ったのだが、あれは基本的にテレビの、15分尺だから見ることが出来るわけで、2時間尺でローワン・アトキンソン氏を見続ける、と言う苦行は前作「ビーン」で充分だったし、なにより午前中しか時間が取れない以上、昼からの上映しかないミスター・ビーンを見ることは出来なかった。

ならばいっそ行かないでおこうとも思ったのだが、残念ながらビックカメラでノートン先生を買いに行くという用事があるわけで、そのついでに映画でも、というのもあった。

そう言うわけで、「テラビシアにかける橋」という映画を選んだのも特に理由はない。
ただ単に、この中ではまだマシだろう、ただ、それだけである。
そう言うわけで、予備知識を一切入れずに見に行った。

その時点で知っていたのは「ロード・オブ・ザ・リング」っぽいロゴに、金髪碧眼の少女と、冴えないツラの少年、そして「この橋を渡れば、また君に会える」というキャッチコピー。
「全世界で愛される児童文学の傑作が映画化」という煽りと、「ナルニアのスタッフ最新作」というCMであった。

この時点で私は「ただのファンタジー映画だろう」と思っていた。
なにせ「世界の中心で〜」以後、邦画が登場人物が劇中不治の病に冒されたり、事故でなくなったりする映画ばかりになったわけで、「ハリポタ」以後の洋画も同じように「ファンタジック」が意識されている感があったからである。
ひとつ当たれば我もと似るのがこの世界だから、仕方があるまい。

だが、映画の冒頭ですぐにファンタジーではないことが露見した。
そりゃそうだ。
児童文学の名作だが、ファンタジーではなく、現実を生き抜く、というのが根底に流れているのだ。
いかにも「少年と少女が夢の世界に迷い込んだ」風のCMに騙された人が多いと聞くが、それも頷ける。
このPRの失策については映画の内容とは逆に憤りすら感じていて、なぜ堂々と「今を生き抜く」という宣伝を打たなかったのか理解できない。
なにしろ、内気な少年が隣家の少女と友情を育み、想像力を養い、いじめや番長に立ち向かう力を与えてくれる、という展開なわけで、ヤンキー先生に誉めてもらうだけではなく、それこそ「文部科学省推薦」を取り付けるくらいの努力を営業部は行うべきだっただろう。

※以後ネタバレ注意(一部Ctrl+A要)

肝心の映画については丁寧な作風で、脚本もシンプルながら伏線をしっかり張った、イイモノだった。
シチュエーションそのものはありきたりなのだが、なにより主役の少年が実にすばらしかった。
なにしろ絵ばかり描いてる根暗君で、お家は天下の貧乏人、なのに大家族、である。
貧乏人の子沢山はアメリカでも健在らしい。
ここでは便宜上、アムロと呼びたい。
アムロは学校で陰湿ないじめに遭っていた。

その隣に、ララァと名乗る少女が転校してくる。
原作ではルックスもララァらしいが、映画ではセイラ・マスになっていた。
小学校の転校早々「私の家にはテレビがない」とカミングアウトしてすっかりクラスで浮いてしまい、いじめられっ子のアムロと仲良くなる。
そして、ふたりは家から少し離れた森の中に秘密の王国を作り始めるのである。

これを現代日本で翻案したらどうなるか。
根暗でマンガばっかり書いてるオタクの隣に、美少女腐女子がやってきて、「私がストーリー作るわ」とやってくれるようなものではないだろうか。
これは実にオタクの、同人誌でマンガ描いてる男の妄想を具現化した作品である。

ところが、この作品、途中で一気に現実モードに舵を切ってしまう。
日本だったら最後まで妄想ムードをぶち壊すことなく、ヒロインとの別れも「風の又三郎」ではないのだけれど、突然の転勤とか、親の都合とかにする。
死んでしまうなら尚更、不治の病とか、大事なものを預けるとか、いわゆる「死亡フラグ」を立てるものである。

なんとこの作品、死亡フラグを立てることなく、ヒロインがあっさり死んでしまうのである。

流石に「ヒロイン死にます」とは宣伝できないので、「アムロとララァに悲劇が」などと書かれているが、この唐突さと、そしてこっそり張ってあった伏線に思わず唸ってしまった。

そう、想像力によって少年は成長し、奇跡のように様々な現実を乗り越えることが出来た。
ところが、現実には「ザオリク」(またはレイズ)はない。
アムロの「It's my FAULT!」(僕のせいだ!)という慟哭にはグッと来るものがあった。

さて、私は、「お涙頂戴」とばかりに、唐突にキャラクターを殺して、客を泣かせて、「感動大作」と宣伝する映画に不快感をもっている。
だが、この映画に関しては不快感を感じない、と言うよりこういった方法で「死」を持ち出すならばよいと思う。

唯一心配なのは、プロットがありきたりなことである。
転校生、秘密基地、突然の別れなんて、細部だけ変えればなんとでも作れるのである。
日本のどこかで、露骨な盗用が出かねないと感じる。
ちゃんと劇場で見てる客に「映画ドロボウを許すな」とCMしてるヒマがあったら、脚本ドロボウも捕まえて頂きたい。

だが、日本の場合、プロットは盗めてもこの完成度は盗めないだろうなと感じる。
日本の場合、大手プロダクションの都合でメインキャストが多くなる傾向があるし、なにより、秘密基地が森の中にある時点で困難さが増している。

日本なら、森は地方にしかないが、地方の場合は少子化と過疎化でいじめ以前の問題だ。
かといって、都会で設定するのもマズイ。
都会はもう大人の秘密基地でいっぱいだからだ。
こうしてみると、ファンタジー映画ではなかったが、この映画の秘密の森というのは、実にファンタジックな存在だったといえるかもしれない。


1/23
ヒーローとポルノの不思議な関係

1975年の「秘密戦隊ゴレンジャー」から、2008年放映開始の「炎神戦隊ゴーオンジャー」まで、実に30年以上の長きに渡り地球を守ってきた「スーパー戦隊シリーズ」。
番組の基本フォーマットをほとんど変更することなく30年以上続いたことは快挙であり、今後も続くことが(当サイト的には)期待されている。

その新作「ゴーオンジャー」の記者会見速報がWEB産経に載っていたわけだが、記事をクリックして最初に目に飛び込んできた写真はもちろんゴーオンジャー……ではなく、悪の幹部を演じる及川奈央氏(元AV女優)の写真であった。

友人曰く、「それはマズイのではないか、子ども番組だし」などと言っていた。
ポルノ女優が子ども番組に出ると言うことで、一部では否定的意見も出ているらしい。
その意見はわかるが、ちょっと待って欲しい。
実を言うとスーパー戦隊、いや、ヒーローものとポルノというのは意外と深い関係にある。
というわけで、今回はその話を少し書いておきたい。

ここで読者諸君にヒーローはどこで作っているのか、という質問を提示したい。
コアなファンの方ならレインボー造形、とでも答えるのだろうが、模範解答は基本的に映画会社、またはプロダクションである。
現在の日本では「仮面ライダー」「スーパー戦隊」を抱える東映、「ゴジラ」「グランセイザー」の東宝、「リュウケンドー」「トミカレスキューフォース」の松竹、そして「ウルトラマン」の円谷プロダクションがほぼ大半を占めている。

このうち、東映における特撮ヒーローものの元祖と位置づけられているのが「ジャイアントロボ」(1967年)である。
地球防衛組織の女隊員を演じたのは片山由美子という女優さんであるが、この方「ジャイアントロボ」出演以後のキャリアを見ると、ピンク映画が多いのである。
今でこそポルノと言えばサンプル動画をダウンロードしたり、TSUTAYAで借りて個人で見るものだが、ビデオテープ普及以前は当然ながらそんなわけにはいかない。
60年代から70年代前半にかけての日本はまだまだ貧しく、また倫理的な自主規制も強かった。
本という形態、いわゆる「ビニ本」も70年代半ばから流通を始めている。
つまり、映画館で、みんなで一緒にポルノを見るという「需要」が存在した。
したがって、映画会社も当然「供給」したわけである。
ただ、タイトルは凄まじい反面、内容は比較的ソフトなものが多く、仮面ライダーV3を演じた宮内洋氏は、「現代ポルノ伝 先天性淫婦」の出演について、そんな過激な内容ではなかった旨を記していた。
(なお、この流れの場合「日活ロマンポルノ」についても紙面を割くべきなのだが、日活が作った特撮ものと言えば「大巨獣ガッパ」「電撃!ストラダ5」しかないので割愛する。)

では、なぜヒーローものの出演者がポルノかと言えば、「子ども番組(ジャリ番)」「ピンク映画」のヒエラルキーに関係がある。
東映に関して言えば、時代劇が上にあり、ついで現代劇、子ども番組とポルノは最下層である。
近年は時代劇が退潮傾向なので現代劇と時代劇のヒエラルキーが逆転している可能性もあるが、少なくとも子ども番組やポルノに逆転されていることはあるまい。

実写映画「デビルマン」(2004)が作られた際、自称内部事情を知る人物が「仮面ライダーシリーズ」のスタッフが意図的に外されたことを2のつく某所に書き込んでいた。
その時点でどこまで本当かは知らないが、子ども番組のスタッフが現代劇スタッフから邪魔者扱いされた、と言うコメントは本当だろうな、と思う。
というのは、藤岡弘、先生も「藤岡はジャリ番あがり」と見られて悔しい思いをされたと自著に記していたからだ。
今でこそヒーローものはスターへの登竜門だが、現在もスタッフの中ではその程度の認識ということが伺えるエピソードである。

その一方で、ビデオ普及以降にもポルノ女優が起用されるのは別の事情が存在するからである。
早い話が、悪の女幹部の露出、衣装が問題になるのだ。
私見ではそれまで比較的大人しかった女性幹部の服装が過激になったのは「科学戦隊ダイナマン」(1983)のキメラ王女あたりからだったと思うのだが、「東映版スパイダーマン」(1978)のアマゾネスもセクシーな服装である。
誰が最初かはちょっとわからないのだが、悪の組織に女幹部がいる、と言うことは70年代前半までのヒーローにはあまりいなかった。だから、70年代半ばの作品が初になるとは思う。

なんにせよ、露出の過激な衣装でも出演をオッケーするポルノ女優は、作り手にとって重宝な存在であることは疑いようがない。
あんな下着みたいな甲冑着てカツラつけて、最後は怪獣に変身してヒーローに倒される、なんて、アイドル事務所なら絶対に認めないだろう。
(ただし、「ハリケンジャー」で山本梓氏が出演を機に人気アイドルになったため、近年はアイドル事務所の対応も変わっていると言われる)

ただ、ポルノではなく、「AV女優」という括りで考えれば、レギュラー出演は少々例外的である。
つまり、Vシネマの脱ぎ役というカテゴリのポルノ女優はしばしば出ているが、「AV女優」で「レギュラー」ならば及川氏を除いて後述する3人しかいない。

そもそもAV女優という概念自体、小林ひとみ氏以後の呼称と言われるが、アダルトビデオはピンク映画やVシネマとは違って、東映が全く関知しないプロダクションの映像作品である。
自社系列のピンク映画やVシネマに出た女優なら、オファーをすることもあるだろう。
だが、東映と縁もゆかりもないプロダクションワークに出た女優を、露出の都合だけで起用、というのはやはり戦隊のも歴史から見ても例外である。

「ゴーオンジャー」以外に、レギュラーで元AV女優が出演したのは「カーレンジャー」の水谷リカ(当時:七瀬理香)氏、「メガレンジャー」の城麻美(現:佳山由実)氏、「ギンガマン」の水谷ケイ氏(※)の3名である。
いずれもプロデューサーは高寺成紀氏であり、やはり従来のヒーロー像をぶち壊す、独特の考え方をもっていたのだろうなぁ、と感じる。
(※水谷ケイ氏は厳密にAV女優とカテゴリするべきか迷ったが、本稿ではAV女優に準ずるとした)

実際、「メガレンジャー」に城麻美氏が出たときは本当に驚いた。
「ギルガメッシュナイト」にオーピンク・さとう珠緒氏が出たのも驚いたが、まさかAV女優が特撮番組に、しかも名前を変えずに出演、というのは衝撃であった。

この衝撃は私だけではなかったらしく、マンガ家・久米田康二氏は作品中、何度も「カーレンジャー」のゾンネットと、水谷リカ氏(七瀬理香氏)の関係についてネタにしていた。
それを考えれば、及川奈央氏の出演に驚いた友人の反応も、然りだろう。

なお、本テキストのオチは「次は蒼井そらか?夏目ナナか?」で〆る予定だったが、このオチはそこかしこに落ちていたので、泣く泣く封印させて頂く。
なんにせよ、及川氏には雑音を吹き飛ばす、熱演を期待したいところである。


1/18
ヤッターマンの歌

1月14日にはじまった復活新作「ヤッターマン」。
30周年記念の復活とのことで、以前はフジテレビ系列だったのが読売テレビになり、セルアニメだったものがデジタルアニメになるなど、時代の変化を感じさせる。

そもそも旧作をリメイクで復活させることについては賛否両論あるのだが、視聴率に関して言えばかなり高くなったそうで、やはり話題性という意味では続編・リメイクの企画の方が通りやすいのも頷ける。
実際問題、もはや「仮面ライダー」とは別物のヒーローなのに「仮面ライダー」を名乗っている仮面ライダーにしても「大人の事情」というヤツが見え隠れする。

かつての名作をリメイクする、復活させる企画が通りやすい理由は、当然ながら制作者側が旧シリーズのファンを計算に入れているからである。
新作ならば新規ファンを開拓せねばならないが、リメイク、あるいは続編ならば前作のファンをある程度取り込める可能性が高い。
庵野秀明氏が新作をやりたいと言ったのに、結局実現したのが「エヴァンゲリオン劇場版」ということも出資者の都合である。
詰まるところクワトロ・バジーナの言う「出資者は無理難題を仰る」である。

なお、ここでひとつ注釈せねばならないことがある。
それは、続編にしてもリメイクにしてもあまり話題にならないモノは実現しないことである。
「ガサラキ」の劇場版にしても、「王立宇宙軍オネアミスの翼」の続編、「蒼きウル」が未だ実現していないことについても、同じ理由である。マイナーすぎるから、つまり売れる要素、回収できる要素が少ないから、出資者がついてこないのだ。
残念ながら、これが現実である。

だが、リメイク企画は通りやすい反面、その分ファンにとって名作たるものを作りうるかについては、「諸刃の剣」であると言わざるを得ない。
それは、多くのリメイク作品、復活作品、続編がどのような結末をたどったか、わざわざ具体的事例を提示せずともわかる話である。

しかし、その一方で成功した作品と、失敗した作品を比較し、その原因を検討していくと、ある種の共通性が見られると感じる。
たとえば、成功した事例で真っ先に思い浮かぶのが「鉄人28号」(2004年)である。
リメイク作品は他に「太陽の使者鉄人28号」(1980年)、「超電動ロボ鉄人28号FX」(1992年)が存在し、それぞれ1年間のオンエアを完走しているが、特にファンから諸手をあげて歓迎されたのが2004年版である。
これは、旧シリーズの色合いを極力残すという努力が大きかったと思われる。
特に主題歌は初代鉄人を見て育った大人達が参加した「六本木男声合唱団」の手によって「♪夜の街にガオ〜」が復活していた。
これが実現した理由は、本作の企画がキングレコード発だったことが大きい。
04年版は本編もすばらしい作品だったが、この歌がそれこそ、新人アイドルの「渚のジェラシーはビーチサンダル」みたいな曲だった日には猛烈なブーイングが起きたことだろう。

ここでこの「歌」、すなわち「主題歌」というものを考えてみる。
不思議なもので、主題歌というものは、作品の質を補完しうる存在だ、と思うのは私だけだろうか。
作品が今ひとつ、あるいは低いレベルの作品であったとしても、主題歌がすばらしければその作品はしばしば語り継がれるものである。
具体的に言えば「魔装機神サイバスター」(通称・アニバスター)である。
主題歌「戦士よ、起ちあがれ!」については現在もスーパーロボットライブで歌われるほどの名曲であるが、歌われれば歌われるほど評価の低い本編が回想されるのである。

一方で、「歌だけがダメだった」という作品もしばしば存在する。
近年、スポンサーにどことは言わないレコード会社が参加するようになって以後、主題歌の質は著しく低下している、と感じる。
仕舞いには、本編の記憶は残れども、主題歌の記憶が欠落することさえある。
私の場合、妹がアニメ「ヒカルの碁」を見ていたので、時折横で見ていたが、主題歌の記憶は全くない。
もちろん、歌う人物の意外性で覚えることはあった。
「仮面ライダーキバ」の河村隆一氏、「仮面ライダー響鬼」の布施明氏、「仮面ライダー剣」の相川七瀬氏の起用には、とにかく意外であるとの感を真っ先に持った。

で、ここでやっと「ヤッターマン」である。
三悪とドクロベー様の声はそのままに、ナレーションを山寺宏一氏に、というのは予想していたことだ。
(富山敬氏の味を出せる声優は、山寺氏以外に存在しないと思っている。)

そして、主題歌が山本まさゆき氏ではない、と言う発表があった時点で、「主題歌が酷い」というクレームが殺到することを私は早くから予見していた。
「アストロボーイ・鉄腕アトム」第1話のオンエア直後に主題歌の件で問い合わせが殺到し、結局エンディングだけ「空を超えて〜」が復活したことがあったが、国民的人気アニメであればあるほど、主題歌への配慮を欠くことは許されない。
よみうりテレビの担当プロデューサーは、歴史を学んでいないと批判されても反論できまい。

たとえ「ヤッターマンの歌」であったとしても、あの山本氏の歌声をファンは望んでいたのだ。
それこそ、山本正之ではない人間に歌わせるならば、三悪とドクロベー様の声も変えてしまうべきだった。
そうすれば旧作のファンは「あれはヤッターマンではない」として割り切れただろう。

逆に不思議なもので、前作「タイムボカン2000 怪盗きらめきマン」はつまらなかった。
つまらなかったはず、なのだ。
だが、今、主題歌を「ニコニコ動画」で見返してみると、それこそ放送局の表現規制を差し引けば面白い作品だったかもしれない、と思っている自分がいるのである。

それほどまでに今回の「ヤッターマンの歌」に関しては憤りを感じている。
特に本編がよかっただけに(実は脚本の小山氏がいないからつまらないと思っていた)、尚更残念なのである。
よみうりテレビはファンの声を真摯に聞く、とコメントしているが、聞いただけで何ら実行しないのは聞いたことにならないので、ファンの求める結末を(難しいとは思うが)実行して頂きたいと思う次第である。

なお、本テクスト執筆中、「タイムボカン」「みなしごハッチ」といったタツノコプロ作品、また「装甲騎兵ボトムズ」「ミスター味っ子」「サムライトルーパー」といったサンライズ作品の脚本を手がけられた鳥海尽三氏の訃報が入ってきた。
謹んで故人のご冥福をお祈りします。


1/17
寒中御見舞申し上げます

2008年、こちらは最初の更新です。
旧年は結局9月以降更新がストップしたんですが、自分の変化と、テキストのスタイルにズレが生じたからだと感じています。
今年からはスタイルを変えて、以前とは異なる、テキストの形を模索していきたいと思ってます。

ちょっと遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。
そして、SaToshi's HomePage、再開です!